気ままな歳時記

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『いつかX橋で』(熊谷達也)

2010年02月11日 18時42分21秒 | 宮城県に馴染みの深い人々
 熊谷達也さんは,仙台市で生まれ,佐沼高,東京電機大学理工学部を卒業し,首都圏で中学校の数学教諭を8年間勤め,その後,宮城県に帰り,1997年『ウエンカムイの爪』で作家としてデビューし,小説すばる新人賞を受賞しました。
 2004年には,マタギ3部作の第2作『邂逅の森』で,山本周五郎賞と直木賞のダブル受賞を果たしました。

 今回,小説の舞台となる“X橋”は,仙台駅の北にあり,東北本線を跨いで,広瀬通と二十人町と鉄砲町を結ぶ橋で,正式には「宮城野橋」と言いますが,上から見ると“X”に見えることから,昔から“X橋”と呼ばれてきました。
 小説は,昭和20年7月の仙台空襲の場面から始まり,昭和22年春までの約2年間の物語です。

 藩政時代から戦前までは,石橋である大橋があり,仙台城から東に延びる青葉通りがメインの通りだったと思いますが,戦後,アメリカが進駐してきて,仙台(川内)キャンプから苦竹キャンプまで真っ直ぐ繋ぐ一本道の途上に“X橋”は位置し,次第に広瀬通が仙台のメインストリートになってきたと思います。

 昭和20年から昭和31年までのアメリカの進駐が行われ,小田原遊郭が旅館街へと変わり,替わって“X橋”周辺がアメリカ兵士を相手にした新興の歓楽街となりました。
 “X橋”は,戦後の仙台の暗い部分を投影していて,昭和40年代はなかなか近づけない大人の世界でした。

 仙台駅の東口は,2005年には楽天球団が仙台に来て,凄く明るい感じになりましたが,昔は,仙台駅裏と呼ばれ,その暗い地域に仙台駅西口から続くのが“X橋”であり,名掛丁地下道でした。

 今回の話は,まさに仙台駅裏と“X橋”を中心とした話であり,戦後の様子はそうだったんだと興味深く読むことができました。

 戦前,私の家は戦災復興記念館付近にあり,昭和20年7月の仙台空襲で焼けてしまい,その後,仙台二高付近に引っ越しました。
 その川内には,小学生低学年の頃,近所にハーフの子がいたのを思い出しましたが,みんなお母さんだけしか見た事がありませんでした。

 この本で書かれているのは,悲しくも純粋な恋の物語ですが,当時の仙台と“X橋”という情景を思い浮かべながら読み続けるうちに本当に切なくなってきました。
 青葉通りにいくつか残された屋台を見るたびにこの本の事を思い出す事でしょう。

 『いつかX橋で』(熊谷達也)


 現在の“X橋”(宮城野橋)


 “X橋”から,区画整理が進む鉄砲町と二十人街を望む


 名掛丁地下道西入口


 左上に“X橋”があります(昭和3年仙臺市全図より)