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mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

円高とお盆

2010年08月12日 | 社会・経済

 新聞を読むと、円高が進んでいると報じています。

 こんなに景気が悪い、つまり、日本経済は悲観的だとみんなが思っているのに、外国人から見れば、日本の円が一番安心な通貨ということのようです。

 その意味では、小生の読んだ本の通りに展開しているのですが、次の時代は「黄金のジパング、日本のの時代」に本当になるのでしょうか?

 そんなことを考えていましたら、ある証券会社の営業マンから毎日のようにわが家に電話がかかってきて、インドネシアへの投資信託を盛んに売り込んできました。

 小生にとっては、これ以上リスクはとれないと思っているので、お断りしましたが、円高に関しては、自信を持って「操作している」と明言していました。

 なぜなら、この円高は欧米の投資家が利益を出すためにやっていることだというのです。

 円高にして、どのように利益を出そうとしているのかわかりませんが、ドルで儲けようとしている欧米人にとっては、安いときに仕入れた円を円高の時に売って、ドルを手に入れれば大儲けができます。

 例えば、1ドル90円で円を仕入れて、85円で売れば1.06ドルを手に入れることができます。

 アメリカ経済の指標が見込みより悪いとか、中国の経済がどうだとか、変な理屈をつけて円高に持っていきながら短期間に大量の売買を繰り返せば「あぶく銭」のように儲かるはずです。

 まぁ、それが円高の真実の原因なのか小生にはわかりませんが・・・

 ところで、円高と並んでいまの話題といえば、お盆ですが、皆さんはどのように過ごしていますか。

 お盆は、Wikipediaによれば、「仏教用語の「盂蘭盆(うらぼん)」の省略形として「盆」(一般にお盆と呼ばれる。」と説明しています。

 また、「本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したという説もある。」ともいっています。

 今ではあまり使わなくなってしまったかもしれませんが、飲み物や食べ物を運ぶ「お盆」と同じ意味だったのですね。

 いつごろからお盆という行事が始まったのか明確な起源はわかっていないが、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫の元を訪れて交流する行事があり、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して仏教の行事として行なわれるようになった、といわれているそうです。

 お盆の日付ですが、伝統的には旧暦の7月15日に行なわれたようですが、次第に新暦の8月15日(月遅れの盆)が全国的に主流になっています。(沖縄県では今でも旧暦による盆が主流だそうです。)

 そして、お盆にどんなことをするのかといいますと、次のような風習があるそうです。

 釜蓋朔日(かまぶたついたち)、七夕・棚幡、迎え火、送り火(灯籠流し)、盆踊り、初盆・新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)などだそうですが、これ以外にお盆の行事として営まれている「施餓鬼」があります。

 13日夕刻の野火を迎え火(むかえび)と呼ぶそうで、以降、精霊棚の故人へいろいろなお供え物をしています。(なす、きょうりなどですが、最近はお寺への持ち込みが禁止になってしまいました・・・ゴミ掃除が大変のようです)

 そして、16日の野火を送り火(おくりび)と呼ぶそうで、京都の五山送り火が有名だそうです。

 なお、故人を送る期間は、16日から24日まであるようです。

 小生の家では、七夕はやりませんが、13日に父母などの故人を迎えて16日に送っています。

 そして、施餓鬼が17日になっています。

 施餓鬼は、字面のごとく「餓鬼に施す」という意味だそうです。

 でも、実際には食べることで(つまり他の命を奪うことで)自己の命を繋いでいる自分の罪深さ、あるいは食べ物に対する感謝の念を自覚するための供養だそうです。だから、「いただくます」「ごちそうさま」という日常的な言葉の中にも、この言葉が生きているのだろう、と言われています。

 ところで、先ほど、姉から電話がありましたが、15日に兄弟全員がわが家に集まって「昼飯」を食べながら世間話をすることになっています。

 私たち兄弟も、いつあの世から迎えが来るかわかりませんが、配偶者、子ども、孫たちに恵まれて、全員元気で人生を楽しんでいます。

 故人を偲んで、施餓鬼の心を念じながらお盆を過ごしたいものです。

 

 


今日の言葉:情けは人のためならず

2010年08月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 皆さんは「情けは人のためならず。」という言葉を聞いたことがあると思います。

 この本来の意味は、「人に情けをかけるのは、その人のためではなく、結局自分のため。なぜなら、人に情けをかければ、回り回って自分にかえってくるからだ」ということになっています。

 ところが、これを「人に情けをかけると、本人を甘やかすことになる。だから、本人のためにならない」という意味だと思っている人が多いそうです。

 その理由は、「人のためならず」を「人のためならず」と同じ意味だと勘違いしていることですが、勝手に「に」をつけ加えて、伝統ある常用句の意味を変えてしまうのは困りものだと識者がいっています。

 この言葉を小生などは、正しく理解していましたが、犯罪を犯した芸能人をすぐに復帰させるなど、特定の業界では、情けをかけて何でも許してしまうという風潮には疑問を持っています。

 普通のサリーリーマンなら懲戒解雇か免職で、職場に復帰なんてあり得ない話です。

 その意味では、間違った使い方(人のためならず)は、正しい使い方なのかも知れませんね。

 でも、自分のためでも、人のためでも、人の心を慮って情けをかけるのは日本人の美点だと思うのですが、段々、そういうところが失われているような気がしてなりません。

 もしかしたら、この言葉の誤った理解は、その現れなのかも知れませんね。

 


激うま!ゴーヤの佃煮

2010年08月10日 | 食・レシピ

 わが家の畑でゴーヤが順調に育っていて、毎日、ゴーヤをどのようして食べるか苦心していました。

 植えた苗は3本ですが、暑いところが好きな作物のようで、週に大きな房のものが5~7本くらい収穫できます。

 ゴーヤはビタミンCが豊富ときいていますので、小生は、肉や卵と炒めて食卓に出しているのですが、かみさんは、あの独特の苦みが嫌いなようで食べてくれません。

 そうは言っても、これだけとれますと正直、どうしたらよいのかと考えてしまいます。

 もちろん、近所や親戚に差し上げたりしているのですが・・・

 そんなときに、かみさんが「ゴーヤの佃煮」の話を小生にしたのです。

 どんな作り方かわかりませんでしたので、早速、ネットで調べたのですが、そのレシピは呆れるほど、簡単でした。

 そして、もっと呆れた!というよりビックリ!したのは、その「うまさ」です。

 佃煮は買って食べるものではない!と思うようになったくらいです。

 甘いのですが、酒の肴にも良いし、ご飯のお供にも最高ですね。

 食べると、口の中に甘さと佃煮の炒り粉やゴマなどの風味が後を引くように残るのです。

 作り方ですか?

 小生が参考にしたHPでは、ゴーヤが1キログラムという大量のものでしたので、調味料の量は、ゴーヤの量に見合ったもの(按分)にしました。

 大きなゴーヤでも1本で200グラムくらいの重さではないでしょうか。

 ですから、1㎏といいますと、5本くらいということになります。

 ゴーヤ1キログラムに対して次の調味料を用意するとなっています。

 ・ 砂糖・・・・・250グラム(多いのですが、間違いではありません。)

 ・ 醤油・・・・・160CC

 ・ 酢・・・・・・・120CC

 ・ みりん・・・・180CC

 そして、そのほかに次の材料を用意します。

 ・ いりこ(かえりの方がよい)・・適量

 ・ いり胡麻・・・・・適量

 ・ かつおぶし・・・適量

 以上が材料ですが、小生の場合はゴーヤを3本(590グラム)を使いましたので、調味料は、

 砂糖が約140グラム(250グラム×0.59)

 醤油が約95CC(160CC×0.59)

 酢が約70CC(120CC×0.59)

 みりんが約106CC(180CC×0.59)

 をどんぶりに用意して混ぜておきました。

 そして、「いりこ」は、スーパーで胡麻入りのものを買ってきましたが、胡麻も黒ゴマをフライパンで煎って用意しました。

 さて、レシピですが、

 ① まず、ゴーヤは、縦に二つ切りにして中の種や白い薄皮をとってから、通常の調理の  時と同じように半輪切りにしていきます。

 ② ①のゴーヤを沸騰したお湯に入れ、2~3分ゆがきます。

 ③ 火を止めてしばらくおいてザルにあげて水で冷やします。

 ④ 布巾などで固くしぼります。(水分が落ちなくなるまで)

 ⑤ ④のゴーヤと調味料を鍋に入れて火にかけ、煮詰めます。(時々かき混ぜます)

 ⑥ ⑤が水分がなくなったら、火を止めて、いりこ、胡麻、かつおぶしを加えてよく混ぜます。

 ⑦ その場で試食して味を確かめてください。小生のように砂糖と塩を間違えない(おっちょこちょいですね!)限り、後を引くうまさのはずです。なお、冷えてからの方が美味しいと思います。

 以上、「激ウマ!ゴーヤの佃煮」簡単レシピでした。

 


般若心経:行深般若波羅蜜多

2010年08月09日 | 人生

 「般若心経、こころの大そうじ(名取芳彦さん著)」から「人の性格は変えられる」についてお伝えします。

 般若心経は、観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じて(修行して)いた時に、という文章で始まります。

 行深般若波羅蜜多という言葉の意味がいま申し上げたことのようですが、それでは、般若波羅蜜多とはどういう意味なのでしょうか?

 ところが、この難しい漢字には何にも意味はない、と著者は言っています。すべてサンスクリット語の音写語だからだそうです。

 では、「般若」は何というかといいますと「プラジュニャー」というそうで、「智慧」という意味だそうです。

 「波羅蜜多」は「ハーラム・イター」だそうで「彼岸(迷いのない心安らかな境地)に到る」という意味だそうです。

 「般若波羅蜜多」が「プラジュニャー」「ハーラム・イター」の音を表す言葉だというのですから、驚いてしまいます。漢字の意味を考えるな!という教えは面白いものです。

 ということで、「般若波羅蜜多」は「彼岸に到るための智慧」という意味になりますが、より深く、広い意味があるそうです。

 その深く広い意味、というのが小生には理解できないのですが、ここでは、深い般若波羅蜜多を行じて(修行して)いた時の「修行」が大切なようです。

 その例として著者は「認知症になってもその人の性格は残りますよ。」とお医者さんに言われる夢の話をしています。

 著者は、舌を出すのも嫌がる吝嗇家も、虚勢を張る見栄っ張りも、清潔好き故に不潔を憎悪する潔癖性も、人の意見を聞く耳を持ち合わせていない頑固者も、認知症になればみんなポカーンとしてしまうだろう思っていたそうです。

 ところが、夢で「残る」と医者にいわれたものですから、大変ことだと慌てたようです。

 何が大変かと言えば、それは、「心の奥底に秘めている、自分でも意識したことがない、ドロドロとした醜い化け物が姿を現すような気がした」のだそうです。

 お坊さんで言えば、「慈悲を説教する坊主にかぎって、自分じゃ慈悲に生きてないバカ坊主が多いもんだ」などという、人を馬鹿にするような言動をするかもしれない、というような心配だそうです。

 小生などは、それは認知症がなせるワザだから仕方がないのでは、と思うのですが、そうはいかないようです。

 そこで、お医者さんに聞いたそうですが、そのお医者さんは「人の性格は死ぬまでなおらない、というのは本当だ!」と答えたそうです。

 でも、こうも言ったそうです。「そりゃ、なおそうとすれば、なおるでしょ」「だって住職。それを仏教で修行って言うんでしょ」

 そして、著者は「まったくです」「私はそのとき初めて修行の意味を納得した気がしました。」と結んでします。

 この禅問答のようなやりとりを皆さんは理解できますか?

 小生には何だかよく分からないのですが、続きがありました。

 その修行の方法を述べているのですが、それは一言でいえば「心の掘り起こし(分析)」とそれに基づいた生き方が大事だと言いたいようです。

 でも、そういうことをしなくても、「なんのこだわりもなく、好きなこと、やるべきことをしていて、その言動が人を傷つけることなく、人の心に安らぎと勇気を与えてくれる人、そういう素朴な人に出会うと、私はその皺や瞳の中に「深般若」を感じることがあるのです。」とも言ってます。

 小生のような凡人は、修行をしないと「彼岸に到るための智慧」は身につきませんよ、ということでしょうか。

 

 


墓じまい 涙の散骨

2010年08月08日 | 社会・経済

 今日の新聞(朝日新聞)で気になる記事がありました。

 それは、「ルポにっぽん」と題するシリーズものの記事ですが、今回は「墓じまい 涙の散骨」という見出しがついていました。

 「墓じまい」とは何かな?と思ったのですが、想像通りお墓を撤去することでした。

 記事のお墓を撤去した男性(80)には、父と母、次男の遺骨が入っていたそうですが、墓から遺骨を取り出して灰のようになるまで細かく砕いて、住み慣れた呉の海に散骨したそうです。

 なぜ、そういうことをするのか?といえば、それは「自分の次は誰が墓を守るのか」という難問への答であるということです。

 この方の場合には、東京に会社勤めをする一人息子がいるが、もう呉には戻らないと気持を確かめていて、「私の代でけじめをつけないと、子どもに迷惑をかける」と悩んでいたそうです。

 そして、新聞記事で海や山に散骨して弔う「自然葬」を知り、「これなら、納得して墓じまいができる」と気持が固まった、といっています。

 小生の家も、先祖代々の墓ではなく、父の代からのお墓ですから、この方と事情がよく似ています。

 幼くして病気でなくなった二人の兄、父と母の4人のお墓ですが、兄弟が健在ですから、この方のように深刻に考えたことはありませんでした。

 でも、よく考えて見ると、小生には子どもがいませんので、この方より深刻な状況だといえるかも知れません。

 記事の最後に出てくる男性の言葉が印象的です。

 「母に申し訳ない気持(母と男性がお金を出しあって、一家の墓を建てたから)と、責任を果たした気持と。複雑じゃ・・・」

 驚いたことに、わが家のお墓が立派な石で建てられているのは、母がそうしたからで、この点もこの方とよく似ているのです。

 新聞の最後に出てくる問題意識の言葉が印象的です。

 「子孫への継承を前提とした日本の墓はいま、家族のかたちの多様性とともに岐路に立っている。」

 でも、小生には散骨はできないと思います。無責任のようですが、兄弟やその子どもたちに託するよりないようです。

 墓のことだけではありません。この課題は、生きてきた証と死後に備えた身辺整理をどうするのか、という重い課題をつきつけているように思えてならないです。