mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

中欧:プラハの春

2008年06月07日 | 旅行記

 今日は、プラハの春についてお伝えします。

 どうして「春」という言葉を使うのか?春から連想するものは「雪解け」「暖かさ」などでしょうか?

 小生の連想が貧弱?そうかも知れませんが、多くの皆さんも同じ事を考えるのではないでしょうか。

 さて、本題のプラハの春ですが、一言でいいますと、1968年にチェコスロバキアで起こった共産党の変革運動といったらよいでしょうか?

 ソ連主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入があり、これが「チェコ事件」として世界を驚かしたのです。

 当時の小生の感想ですか?68年といいますと、今からちょうど40年前ですから、小生は、紅顔の美少年?ではなく、若葉が薫る青春時代で、自分のことで頭が一杯で、「プラハの春」という言葉は聞いていましたが、関心がなったというのが正直なところです。

 ですから、どうしてこういう事件が起こるのかといった背景など、何にも知りませんでした。

 そこで、今回、勉強しましたので、簡単に68年のチェコスロバキアの状況を紹介したいと思います。

 ハンガリー動乱もそうですが、プラハの春も1956年のニキータ・フルシチョフによるスターリン批判がこういう事件というか運動の背景にあったようです。

 フルシチョフ(ニキータという名前なんだ!知らなかったな!)の批判がどんなものかと言えば、スターリンが行った「個人崇拝、独裁政治、粛正」に対する批判ですが、権力を握ると、人間は、弱いし、恐いものなんですね。

 今日でもどこかの国では、まるで皇帝のように個人崇拝があり、独裁体制で、体制に逆らうものや批判するものには粛正が行われているのではないでしょうか?エンゲルスやマルクスがこういう話を聞いたら嘆き悲しむのではないでしょうか?

 フルシチョフの批判は、分かりやすく言えば、スターリンの悪行を暴いたことになるのですが、当のフルシチョフも一緒になって悪行をすすめたと批判されていますから面白いものです。

 さて、チェコスロバキアでも、1950年代にソ連と同じように粛正裁判が行われ、また、計画経済がうまく機能していなかったという時代背景があったようです。

 さらに、スロバキアの自治権問題もあり、当時の党第一書記で大統領でもあったアントニーン・ノヴォトニーに対する批判が高まっていたのです。

 ところで、計画経済というのは、社会主義の独特の経済だと思われますが、その欠点は「人間の欲望」というものを考慮していない点だと思います。

 でも、戦後の日本も、計画経済を使って発展してきたといっても良いのではないでしょうか?

 何の話か?官僚機構が作った「○○全国総合開発計画」とか「××事業5カ年計画」などというのがこれに当たるのではないでしょうか?

 民間は自由!と思われるでしょうが、大きく見ますと、官僚は、この計画を担保するため、法律で規制し、補助金などを通じて間接的にではありますが、民間にもこの計画を実行させていたのではないでしょうか。

 こういう話をしますと、道路や箱もの、国鉄、郵政などきりがなくなってしまいますので、その功罪や是非については、またの機会に小生の考え方をお伝えしたいと思います。

 お前には無理だ!ともう一人の小生が言っています。

 プラハの春がとんでもない話になってしまいました。

 この続きは、次に機会にお伝えしたと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿