mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

般若心経、心の「大そうじ」から

2012年03月26日 | 人生

 今日は久しぶりに「般若心経、心の「大そうじ」(名取芳彦氏、三笠書房)」を読んでいます。

 般若心経の意味はわからなくとも、大きな声で読んでいますと、心が何となく「すっきり」するのは小生だけでしょうか?

 いつ読んでいるのか?といえば、初詣での神社で意味もわかないまま呪文のようにお坊さんの声に従って読んでいるということです。

 それでも、意味がわかった方がいいに決まっています。

 そこで、書店で見かけた名取氏の本を購入したのですが、いつもの小生らしく気が向いたら読む、という誠にいい加減な読み方で、なかなか先に進みません。

 今日は二行目に出てくる「行深般若波羅密多時(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー)」についてお伝えしたいと思います。

 「般若若波羅密多」の意味は、「彼岸(迷いのない心安らかな境地)に到る智慧」ということのようです。

 でも、あの独特な言い回しの「はんやはらみった」という漢字は、サンスクリット語の音写語だから意味がないというのですから、字面に拘らない方が良さそうです。

 さて、観自在菩薩が彼岸に到る智慧を行じる(修行する)というのが、ここでいいたいことのようです。

 つまり、修行が大事なテーマとなっています。それを「認知症になっても本性は残るか?」という医師とのやりとりを通じて話をしているのです。

 認知症になっても本性は残るのか?という問いに「基本的な性格は変わらないでしょう。」と医師が答えています。

 それでは「エライことだ!」と、びっくりするのですが、さらに突っ込んで「性格はなおらないですよね」と聞くと、「いや、なおそうと思えばなおるでしょ」という珍問答が書いてあります。

 いったいどういうことなのか?「だって、住職。それを仏教で“修行”って言うんでしょ」となっています。

 そして、その修行の中身のことが書いてあります。その修行の中身は、「たとえば、ケチそうな人は、お金に対してどうしても自分がそれほどまでに執着するようになったのか、自分にとってお金とは何なのかを心の中でで掘り起こしてみるのです。」となっています。

 まぁ、修行とは、「心の掘り起こしをしてみなさい。」ということのようです。

 でも、小生が気になったのは、ここの文章ではなく、最後の文面でした。

「何のこだわりもなく、好きなこと、やるべきことをしていて、その言動が人を傷つけることなく、人に心に安らぎと勇気を与えてくれる人、そういう素朴な人に出会うと、私はその皺や瞳の中に「深般若」を感じることがあるのです。」

 こういう「自己の内面をトコトン掘り起こさなくとも、深般若を体得している人が世の中には随分いそうだ」と言ってます。

 小生のように、いつも心の掘り起こしが必要な人間から見れば、まったく羨ましい限りです。


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