(2017.04.29訪問)
川西の満願寺の次に訪ねた昆陽寺の紹介が一週遅れになりました。新大和寺号がトラブった訳ではありません、GWのせいです。
言い訳はさて措いて、新大和寺号は満願寺から南へ10キロ足らず、伊丹市の昆陽寺へ向っています。宝塚尼崎線を南へ西国街道まで
来るとスグ左に朱色の楼門がイヤでも目に入ります。幹線道路に面して楼門が建つわかり易いお寺です。このお寺、あの阪神大震災
で強烈に被災したお寺なんです。
▼復興のシンボルと云ってもいい山門。朱色が映える仁王門。西国街道 (R171) に面して建っています。
重層楼門、三間一戸、入母屋造、本瓦葺、江戸明暦年間に建立。阪神淡路大震災で被災、解体修理を実施。
[ 昆陽寺 ]
●山号 崑崙山 (こんろんさん)
●寺号 昆陽寺 (こやでら)
●宗派 高野山真言宗 (こうやさんしんごんしゅう)
●勅願 伝 聖武天皇 (しょうむてんのう)
●開基 伝 行基 (ぎょうき)
●創建 天平五年 (733年)
●本尊 薬師如来
▲兵庫県伊丹市寺本2-169 Tel. 072-781-6015
▲拝観料 境内自由 ご朱印300円
▲時間 9:00~16:30
▲「JR伊丹駅」「阪急伊丹駅」から市バス昆陽里行き、または小井内経由南畑・荒牧公園行きで昆陽里下車、東へ100メートル
▼山門脇に建つ寺号石標。
昆陽寺縁起 (兵庫県立歴史博物館HPより抄出)
昆陽寺は真言宗の寺である。僧行基が開いたと伝えられるため「行基さん」の名で親しまれている。本尊は行基の作と伝えられる薬
師如来仏である。「行基年譜」によると、天平二年(730年)布施屋と呼ばれる形態の昆陽施院を建てたとあるが、当初は運脚に食
事や宿泊所を支給するための施設で、寺としての体裁を整え始めたのは行基が大僧正に任ぜられてからだと思われる。
天正七年(1579年)信長により焼き払われたが、山門と観音堂が江戸時代に再建された。
▼山号が書かれた扁額。
▼右に阿形金剛力士。
▼左に吽形金剛力士。
動きの軽快な仁王さんですが、余りにもガードが固すぎてこういう撮り方しか出来ません。
▼手水舎。
▼重層で袴腰の立派な鐘楼です。寛永元年 (1789年) 建立。
▼山門から一直線、本堂です。
▼本堂正面ですが樹々と煙台がねぇ。本尊薬師如来、行基さん自作と伝わるそうです。
阪神淡路大震災で崩壊、二年後平成九年再建。
▼本堂前面ですが覗くことすら出来ません。
▼扁額。本堂は別名瑠璃殿と云うそうです。
▼横から狙っても見えないものは見えません。
▼近衛文麿公の記念植樹の大木。
近衛文麿、戦時中の内閣総理大臣。戦後A級戦犯として裁かれるを良しとせず自死。
▼空海さんの石像と石碑
▼経蔵。
▼石の小橋に菖蒲。絵になる放生池ですネ。
▼放生池畔に立つ弁天堂。
▼観音堂。本尊十一面観音菩薩。桁裄三間、梁間三間、寄棟造、本瓦葺、一間向拝付。江戸寛永年間建立。
阪神淡路大震災で被災、解体修理を実施平成九年に完成。
▼堂宇に懸る青もみじ。
▼行基堂。方三間、宝形造、本瓦葺、一間向拝付。江戸元禄年間建立。
本尊行基像 (行基さん自作) 脇持に文殊菩薩、普賢菩薩。阪神淡路大震災で被災、解体修理を実施平成十年に完成。
▼扁額はズバリ。
▼行基堂。
▼昆陽寺鎮守のお稲荷さん。
▼四国八十八ヶ所巡りが出来ます。
▼境内林の中に建つ五輪塔。
▼建立間もない納骨堂。
▼岩室の中、役行者おひとりで。前鬼後鬼はどこかお使いに行ったみたい。
▼境内の奥にいい感じの林が広がっています。フィトンやマイナスイオンまみれになるのに絶好ですヨ。
▼林の奥に一筋の参道。
▼鎮守堂です。
▼扁額に大梵天王と書かれています。どういう性格のお堂かよく判りません。
▼ご朱印です。
平成七年一月十七日、阪神大震災により1300年の歴史が一瞬にして崩壊、守り抜いて来た堂塔伽藍が、完膚無きまでの痛手を被った
昆陽寺も、震災直後から復興機運高々に平成十年には、再建、解体、修理の復興工事が完成、僅か三年余りで成し遂げたその力は、
お寺の復興への高い志と努力、そして地域住民の方々の応援なくしてはなし得なかったと思います。今境内の真ん中に立ち周辺を見渡
しても、甚大な被害があったとはとても思えず、むしろ地域に根ざしたお寺の貫禄さえ感じます。
各お堂は全て閉め切り、入堂は勿論、中を覗くこと、本尊をはじめ諸仏のお顔も拝することは出来ませんでした。
ト ホ ホ の昆陽寺 オ シ マ イ
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この季節、こんな 緑の多いお寺は、癒やされます。