(2019.03.28訪問)
国道25号線太子堂付近一帯は飛鳥の昔、崇仏廃仏論争で蘇我馬子、聖徳太子連合軍と物部守屋が争った激戦の舊地。あの「和を以っ
て貴しとなす」と唱えた太子が馬子と共に戦った宗教戦争に勝利した激戦地、そこに建立されたのが大聖勝軍寺なんです。旧来より
大聖勝軍寺は河内三太子の一つで「下の太子」と呼ばれ「上の太子」の叡福寺と「中の太子」の野中寺の三か寺を河内における太子
信仰の中核を成す寺院と云われているんです。今日は太子奮戦の舊地に建つ大聖勝軍寺を訪ねてみたいと思います。
▼R25号線沿いに建つ太子堂の碑。
[ 大聖勝軍寺 ]
●山号 神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅさん)
●寺号 大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)愛称太子堂
●宗派 高野山真言宗 (こうやさんしんごんしゅう)
●開創 推古天皇2年 (594年)
●開基 聖徳太子 (しょうとくたいし)
●本尊 木造二臂如意輪観音思惟半跏像、聖徳太子(植髪太子)像
▲大阪府八尾市太子堂3-3-16 TEL..072-922-3000
▲拝観料 無料
▲JR「八尾駅」徒歩15分、藤井寺行バス「太子堂」徒歩3分
▼参道と山門。門前は小さいながら駐車場になっています。
大聖勝軍寺縁起 (八尾市文化財情報システムHPから抄出)
大聖勝軍寺は高野山真言宗に属します。河南町の叡福寺の「上の太子」羽曳野市の野中寺の「中の太子」に対して「下の太子」と呼
ばれています。聖徳太子が物部守屋との戦いで信貴山の毘沙門天に戦勝祈願し四天王を祀り、その加護により戦に勝ったので、この
寺を建てたと伝えられます。門前に「守屋池」付近に「鏑矢塚」「弓代塚」や「物部守屋の墓」があり、聖徳太子に関連する史跡が
あります。天文二十二年(1553年)公卿三条西公条が、吉野詣の帰途ここに参詣し、特に許されて秘仏の植髪太子像を拝したと伝え
られています。
▼この地が物部守屋との激戦古戦場らしいですネ。
▼門前には四天王に戦勝祈願の太子像が祀られています。
▼その由来が語られています。
▼16歳の太子像。
▼大聖勝軍寺山門。1間1戸、切妻造、本瓦葺。
▼右柱の木札。太子堂の文字が思い切り主張しているようです。
▼境内中央に見えるのは本堂です。
▼左柱には寺号が。
▼鐘楼です。
▼毘沙門天堂。小さいお堂ながら、厩戸皇子に必勝秘法を授けた毘沙門天王が祀られています。
桁裄3間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺、1間向拝付。
▼毘沙門天堂扁額。学無きながら「多聞天」と読みましたが……。
▼堂内正面の大提灯。
▼格子戸の奥に本尊毘沙門さんがお立ちなんでしょう。
▼僅かながらその姿が……。
▼多宝塔型の平和塔。新しい塔のようです。
▼平和塔扁額。珍しや左からの運筆。
▼平和塔初層須弥壇最奥に「太子と二皇子像」その前に「物部守屋像」が祀られています。
▼太子命の恩人「神妙椋樹」のガイド。
▼太子が物部軍に包囲され絶体絶命窮地のとき、大椋の幹が割れ、その空洞に身を潜め窮地脱出できたのがこの神妙椋樹。
▼地蔵堂。
▼地蔵堂本尊地蔵菩薩坐像。
▼本堂。太子が建立したという別名植髪太子堂。如意輪観音、太子手彫りの植髪太子像を安置。
方3間、宝形造、本瓦葺、1間向拝付。堂前面は格子設え、三方に外縁。
▼本堂扁額。何と書かれてるんだろう、植髪太子殿かナ。
▼本堂内陣須弥壇。中央に如意輪観音と植髪太子像が安置されているそうですが、目をさらにしましたが、植髪太子像は発見出来ま
せんでした。
▼境内片隅に不動明王が睨みを効かせています。
▼様子が全く分からない太子殿。
▼ここでも空海さんが修行中です。
▼聖徳太子とは付かず離れず救世観音立像が境内を睥睨中。
▼新太子堂。寺院のお堂と云うイメージはなく前面に菊の御紋が仰々しく付けられています。
▼新太子堂内へは入堂出来ません。
▼こんなお方もお立ちです。魚籃さんかナ、独特のお顔ですネ。
▼聳え立つ感のデッカイ樹。
▼この地で太子に敗れ去った物部守屋の墓が25号線沿いにひっそりと。
▼門前右に守屋池。秦川勝が守屋の首を洗ったと伝わる池には今は水もない。
▼太子と守屋の激戦の旧地と知ってか知らずか、一本のマンサクが血の色を思わせる赤い花を咲かせていました。
▼ご朱印です。
太子奮戦地の名残は今、交通奮戦地に変わり国道25号線はクルマでごった返えしています。大聖勝軍寺はこんな環境の中で聖徳太子
時代以来の法灯を今に伝えています。聖徳太子伝承に彩られている寺院は各地に数多く残るようですが、ここ大聖勝軍寺には太子と
敵対する敵将物部守屋の人となりも伝わり、太子信仰とともにこの寺の変遷に彩りを添えてきた、そんな気がした大聖勝軍寺でした。
大聖勝軍寺これにてオシマイ
聖徳太子と物部守屋が戦った歴史がある所なのですね。
物部守屋が敗れ、お墓もたてられているのですね。
マンサクの花が綺麗ですね。
太子と守屋が争った舊地の守屋の墓も今は昔の感。
「聖」とつく人も若かりし頃は蘇我氏の影響を受けた好戦的な人だったのかも。
後の世の美化も多分にあるのではないでしょうか。
崇仏廃仏論争とは云え、宗教戦争を起しているんですからネ。
ブログ拝見してます
初めて知る事ばかりです
いつも「土曜日は古寺を歩こう」をご覧いただきありがとうございます。
最近チョット足が鈍っています。寄る歳並に負けそうです。