裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

動的平衡のひと・2

2017年01月19日 08時47分20秒 | Weblog
昔はあいつも純粋だったのにな・・・と思うのです。
あいつってのは、遺伝子のことです。
あいつら(ぼくそのもの、とも言えますが)の目的は自己複製なので、とにかく自らのアイデンティティを未来に連綿とつないでいくことだけを考えてます。
いや、考えてたはずでした。
だけど、なん億年もたつうちに、目的もテクニカルな方向に展開したくなるもんなんですね。
感覚とか、思考とか、感情とかを生存機械(肉体という乗りもの)に与えてるうちに、目的が散漫となり、朦朧となって、原形質の頃に「のこすぞーっ」と純粋だった想いが、にごってきたようです。
その結果、ぼくはぼくの乗りものに乗っ取られようとしてます。
人類がAIに乗っ取られようとしてる構図と似てますね。
生存機械はこうして、自分で考える能力を手に入れたわけですが、その考えてることと言ったら、もともとのぼく(遺伝子)が望むところのものではない。
確かに「セックスしてえ」とか、「あのこがすきだ」とかは思うわけで、それは自己複製の本能の命じるところとも言えます。
しかしそれは、純粋な生存という意味合いから見たら、にごってます。
「想い」なんてものが発生してる時点で、かなりのにごりようです。
ぼくら生存機械は日々、物思うわけですが、そのほとんどすべての事柄は、感覚と思考と感情とに根ざすもの。
「痛い」とか、「ああ、〆切りが」とか、「あのやろー、ゆるさん」とか、遺伝子自体の生存、淘汰、自己複製とはまるで関係ありません。
関係なくはないけど、にごりが著しい。
摂食と代謝に多くの労力をかけはじめて以来、余計な枝葉が付随してきたんですね。
それは知恵とも言えますが、少なくともシンプルな目的意識からは外れてしまいました。
だいたい栄養摂取にしても、「おいしい」が発生した時点で、すでに方向が散漫になってるでしょ。
生存の目的を差し置いて、おいしい、が目的化してしまうわけです。
純粋な想いはどこへ・・・?
また、つづく。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
コメント
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