ここ数週間で短い小説を何本か書いたんだけど、なんかうまくまとまらなくなったやつの出だし。
もったいないんで掲載します。
ある細胞の独白
きみはママの中にいた頃のことを覚えている?その前にパパの中にいた頃のことは?あの頃、きみはきみだった?きみはいつからきみになった?・・・へんな質問でごめん。だけど、生命はどの時点で親のものから自分のものになるんだろう?そもそもぼくって、本当にぼくなの?この体は親のものじゃなく、自分のものって言いきれる?
今ぼくは記憶の底を探り、パパから放出されたときのことを思い出していたんだ。そのときのぼくは、はっきりとパパだった。パパの体でつくられ、「パパの一部」として分離されたんだから当然だ。そこから狭い道を通ってたどり着いた球体に飛び込むと、今度はママの情報が雪崩れ込んできた。ぼくはママになった。いや、パパとママが半々に入り混じった何者かになった。だけどそこに「ぼく」はいなかった。だってパパとママがくっついた細胞なんだから。ひとがひととしてつくられていく順序を知った今では、その細胞が実質のぼくだということは理屈でわかる。だけど納得はできない。それはぼくなんかじゃなかった。ママに器官でつながれ、ママの体と同化して、ママのパーツとしての自覚があり、その中にはパパとママの世界が詰まっていたんだから。だったら、ぼくはいつからぼくになったんだろう?
深くさぐるうちに思い出してきた。ぼくはそのとき、無の空間を漂っていた。その闇が、ぼくがつくり上げた最初の世界だ。やがて時が満ち、裂け目を割ると、光が開いた。そのときの経験は鮮明なものだ。突如としてひろがったまばゆさの正体は、おびただしい素粒子の海だった。そのひとつひとつがまるでパズルのように合わさり、感覚器の働きで新たな世界が組み立てられていく。ある波長を持った素粒子を、視覚が青として受け止めた。また別の波長のものは赤として、また別のものは白として感じられた。これはぼくには新鮮だけど、パパとママが感じていたと同じものだ。ふたりはこうしてそれぞれの世界を自分の中につくっていたんだ。ぼくもまたここから・・・初期化された無から、自分なりの世界をつくっていくわけだ。
不思議なことにぼくは「外に出た」とは感じなかった。「自分の内側に入った」という感動ばかりが沸き起こった。ぼく独自の多色多彩な世界が、ぼくの中に立ち上がっていく。目の前のひろがりが、奥行きが、さまざまな物体の運動が、感覚器に殺到してくる。ぼくはその情報を大急ぎで計算しまくり、素粒子たちの目まぐるしいぶつかり合いを風景として経験に落とし込んだ。そうして今いる病院の一室が、ぼくの印象世界として形づくられた。だけど・・・だけど、だ。それをしているのは、またしてもパパとママからの借りものの肉体なんだった。ぼくが相変わらずパパとママそのもの・・・控えめに言っても、ふたりの分身であるという事実は否めない。それでも彼と彼女の導くところによって、ぼくのオリジナル世界は詳細に、入念につくり込まれていった。
両親からの借りものの肉体を通じて、ぼくは感じているようだった。最初の空気を吸い込むと、さまざまな素粒子の組み合わせが浸透してきて、すみずみにまで巡った。その反動で、内側からの炸裂が起きた。「おぎゃー!」・・・そのエネルギーの振幅は聴覚で音声に変換され、肉体の裏側にあるぼくの世界を揺さぶった。そうするうちに、後にママ本体と知ることになる人物に抱かれた。彼女を構成する素粒子の激しい振動が、触覚に温度として感じられた。素粒子同士は電磁力でお互いに反発し合っているようで、それが感覚器には弾力として伝わり、そこにはまるで物質があるかのような幻想を抱かせた。つまるところパパとママ混在のこの肉体は、波として飛び交う素粒子の相互作用を実体もどきとして捉え、ぼくの内的世界に像を立ち上げてくるようだった。
抱かれたふくらみの先にあるぽっちをふくまされると、甘みと慈しみとに満たされた。素粒子が複雑に絡み合って化学的な反応を起こし、内部に染み渡っていく。力がみなぎる。そうしてエネルギーを得た肉体は、不意に能動的な動きを開始した。そのときの奇妙な、そして劇的な感動をどう表現したらいいものか。世界を動かせたんだ。自分の左右前方に配されたユニットが、ぼくの意思で操作できたんだ。五指のついたそのツールは・・・それは今思えば「手」だったが、ぼくがこう念ずるとこう動き、ああ意図すればああ動く・・・といった要領で操縦が利くことに気づいたんだ。
ぼくはこの借りものの肉体の操作マニュアルを理解しはじめた。こいつ、動くぞ・・・と。そのとき、はたと思い至った。ぼくの中で世界を構築しているものの存在に。今まさにぼく自身をつくり上げているものの正体に。なんということだろう。ぼくは「ぼく」を見つけたんだ。パパとママから与えられた借りもののような肉体を観察しているものこそ、ぼくの自我だった。この瞬間、ぼくはぼくになった。
・・・頭が煮え立ってて、小難しくしちゃったな。
またいつか引っ張り出して、最後の秘密のオチまで描ききろうっと。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「ラーメンを生きた状態にするにはどうすればいいか?」という生物学の問題がある。
すべてが天然(生命)由来のラーメンには、タンパク質も脂質もDNAも含まれてて、人間の組成とたいして変わらないし、環境的に塩分も水分もある。
ラーメンに命を与えるには、まずは小麦や、トリ、ブタに還元するって方法がある。
だけど麺の形に練り込まれた小麦の微粒子を、正確な細胞の配列に再構成するのは骨の折れる仕事だ。
その上、その細胞は生きてると言えるのか?パズルが完璧に組み上がったとしても果たして動いてくれるのか?って問題がある。
人間の死体のピースを組み上げてつくられたフランケンシュタイン氏の怪物は、落雷級の通電で動きはじめたけど、「生きた状態」とはそんな単純なものじゃない。
ところがラーメンは、ただ食べるだけで生きた状態を取り戻す。
ぼくらの中で。(これが解答)
まったく不思議なことだけど、自然とはそうしてできてるみたいだ。
有機物は(ある意味では気体や塩などの無機物も)、普段は死んだ状態に置かれてる。
ところがひとたびある流動体系の中に混じり合うと、生きて仕事をはじめる。
死んでないんだ、ラーメンは。
生命が巡ってるラインの中に「まだ」入っていないだけ。
いや、そもそも元からラインには入ってるのかも。
小麦が刈り取られて(死んで)パウダーになり、練り込まれて麺となり、ラーメン屋で茹でられてスープに投入され、人類の口に入ると機能を開始する。
それどころか、刈り取られずに畑に落ちたものも、微生物の中で生命を得、排出されて肥やしとなり、また小麦の根に取り込まれて振り出しに戻る。
この自然の循環系は、輪廻転生そのものだ。
・・・というラーメン問題でした。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
入れた分が出口を求めるのだよなあ。
十年ぶりくらいに小説を書いてるとこ。
インプットしたら、熟成させて、アウトプット。
たまに訪れる発作だ。
ここ数週間ほど文章を編んでみたら、病的に集中できて、出るわ出るわの大放出状態。
脳が沸騰するくらいに考え詰めて、だけど意外とサラサラと表現に転化できて、休みなく、淀みもなく、言葉を紡いでく作業が結構楽しい。
長いやつじゃなく、超短編ってところもいい。
で、ショートショート(原稿用紙十枚程度)の文学賞にでも応募してみっか、ってとこ。
以前はちょこちょこと書いて(長いの=百枚程度のやつ)応募して、たまに最終選考に残ったりしてたんだけど、いまだ受賞歴なし。
マンガでは新人賞荒らしだったのにね(スピリッツ賞で奨励賞と佳作、ヤンジャン新人賞で佳作二本、ジャンプ系の四コマ漫画賞で軽いの一本)、欲しいな文学賞。
だけど今や誰でもがスマホでライトな小説を書くらしく、応募作は1万点だと。
審査はやっぱAIなのかな?
しかしまあ、趣味は陶芸より「書くこと」って人間なんで、書く機会ができるのはうれしい。
やるだけやってみようっと。
〆切りまであと三日〜。
この追い詰められ感も、なんだか懐かしくて心地よい。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
まあまあ、冷静になれ、おれ(推進・再稼働したいおまえもな)。
だけど思い出してもみなよ。
水位と炉心の状態を・・・時事刻々蒸発しつづける冷却水(沸騰水)と、信じがたい高温に融けはじめて猛烈に放射能をあふれさせる燃料棒の状況を報道で見させられてた日々を。
ついに水素爆発して大規模極まる汚染が国土を覆った日を。
そこからの事態収束の右往左往を。
・・・絶望しなかった?
それでもまだ原発を動かそうなんて、おまえはなにをどう感じ取ったの?
ニワトリのように忘れ去ったの?(バカなの?)
そもそもな〜んにも知らないで過ごしてたの?(アホウなの?)
あれをもう一度やるの?
デブリはいまだに生きてんだよ?
あれは永遠に(かつ爆発的に)発熱しつづけるしろものなんだから。
水でも抜けて息を吹き返したら、今度こそ日本は住めない国になるんだよ?
原子炉は、デパートくらいもの大きさなんだ。
そいつをどうするの?
40年で廃炉にするって・・・どんな計算?
廃炉後に放射能を抑え込めたとしても、縄文時代から現在までの時間の十倍分を管理しつづけなきゃならないんだよ?
それで懲りない人間がいたら、それはもうね・・・もう言わないけど。
電気ごときのために、一億人の命と全国土をベットしようってそのメンタルは、本当に理解できないわ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
原発を動かしたいというやつがいる。
しねよ。
事故が起きたら、今度こそしね。
それだけの覚悟をしろ。
当時の社長なんてあんな事故を起こしといて、責任も取らずに自分だけ安全なハワイにとっとと逃げてよう、よく生きてられるもんだと感心するよ。
「動かしますが事故を起こしたらしにます」と確約することなく、原発再稼働なんて考えちゃいけない。
原発を動かして事故を起こしたら、当事者は死刑。
この取り決め以外に、原発に事故を起こさせない方策はありえない。
電力会社社長も、推進派政治家も、世論を誘導したい読売新聞(そもそも原発はここがはじめた)も、二度めはないと肝に銘じるべき。
あと、原発誘致・再稼働希望の自治体。
自分の土地で原発事故が起きたからって補償とか望むんじゃないよ、みっともない。
それまでにどれだけもらってたのか言ってみなよ。
原発がきたら、その土地はおしまいなの!(これは証明された事実なんで、知らなかったではもうすまされない)
その覚悟も無しに尻尾を振るんじゃないよ。
「原発は動かすべき」とのたまう一般人も覚悟すべき。
今度原発事故が起きたら、今度こそおまえのせい。
おまえのような無責任な人間のために、実際に原発は動くんだから。
おまえのような甘い人間が、本当に事故を起こさせるんだから。
動かそう、と発言するからには、責任を持ってもらう。
おまえがそう言ってたことをおれはぜったいに忘れない。
一度めの事故のときはまだ言い訳がきいたが、二度めの事故はシリアスに「それでも動かす」と言った人間に直接の責任がある。
今度事故が起きたら「おまえのせい」と言いつづけてやる。
じゃ、電気はどうするのかって?
知恵を使って科学の力と新しい再エネインフラでなんとかしたらどうなんだ!なんっにもしてないくせしやがって(国、企業)。
他のカードを捨てて、原発動かすことにだけ知恵を絞りやがって。
ほんとにひきょうすぎてあきれるよ。
あ〜あ、二度めの事故、早く起きないかな・・・
そうすれば、今度こそ原発はなくなるかな。
なくならねえだろうなあ、この国は政府も国民もほんっとバカだからな。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
いろんなとこで首長選挙ですね。
海の向こうでは、トランプさんもがんばってます。
彼を代表としたアメリカさんの直情的で暴力的な態度を「反知性主義」と言います。
知的活動を嫌悪して、反抗的な態度を取ることが立派!という考え方で、そういうひとたちにはトランプさんがかっこよく見えてるのでしょう。
頭が悪くて力持ち!と昔から世界に認められてきたあの国らしいスタンスと言えますが、こうあからさまに知性ナシをオープンに自覚されると引きますね。
カマラがんばれ!と言いたくなりますが、このひとが大統領になっても、世界に(殊に日本に)対する権威的な振る舞いは似たようなものでしょう。
あきらめるしかなさそうです。
アメリカのこうした姿勢は、もちろん「反理性主義」な聖書からきてます。
考えるな!信じよ!というあれです。
進化論をいまだに拒絶し、数千年前の価値観に帰依しようという福音派あたりには、ステキな人物のうそも福音となりまして、息を吐くようにうそをつくトランプさんなどは、本当に預言者のように見えてるのでしょう。
私を信じなさい!信じれば救われる!
逆に言えば、信じねば地獄に落ちる!
・・・日本人には(ぼくには、と書かないと叱られるか)理解できかねる信心です。
ちょっとアメリカの悪口を書きすぎたんで反省して、次回は日本の首長選の悪口を書きます。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
バカと言われると傷つき、アホと言われるとなんだかうれしい、という価値観が存在する。
「バカ」には先天的なものを断罪する凶暴性の雰囲気がある一方で、「アホ」には後天性の意識的行動への指摘という側面があるので、このふたつは別カテゴリーに分類すべきだろう。
「まぬけ」は愚かな振る舞いに対する評価の感が強く、「たわけ」は愚かに振る舞った人物評価なので、これらも少しニュアンスが違う。
言葉は使い分けなければならない。
「カワイイ」は、今やプリティのことを意味せず、より主観的な「気に入った」「私はこれが好き」という宣言の際に発される句で、その成分中に、周囲に同意を求める圧力をも含む強い表現にまで育っている(しかもグローバルスケールで)。
ヨボヨボ死にかけのおじいちゃんを見たギャルが「カワイイ!」と叫んでる場面に遭遇したら、年配者に向けて失礼だと叱りつける前に、「ああ、この子は醜いと考えがちな老いという観念の中に新しい価値を見出したのだ」と、その含意に思い及ばせよう。
「アホ」と言われてうれしいのは、生来の粗忽(ボケ)が露見したからじゃなく、粗忽を演じたテイを理解する者が振る舞いを肉体表現として完結するまでに昇華(ツッコミ)してくれた、という達成感からくるものなんである。
ただ、露見した本物の粗忽をアホと言われた場合は、素直に恥じ入ろう。
日本語表現は難しいのだ。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
十本ナンボとかの使い捨てカミソリの「一本」を使いつづけてる。
どこまでもつのか?と実験を経ること半年。
週二回使ってるとして、約50回(口ひげとあごひげの部分以外を剃る)。
まだまだ切れ味が鈍る気配はない。
もはや思い入れと愛着が湧いちゃってて、捨てることができない。
バスルームの歯磨き立てに置きっぱなしなのに、サビないし、壊れないし、汚れひとつつかない。
抗菌性も問題なし。
金属素材の精錬度もすごいけど、プラ部分の耐久性が半端ない。
最新型の新幹線みたいにかっこいいし。
さすがは日本製品。
十本入りだから、五年は買い換える必要がない。
いや、この分なら一本で一年もちそうだから、十年は買わなくていい。
「使い捨て」ってなんなの?と考えたくなる。
ペットボトルって、何回使用したら壊れるのかな?
結構、果てしなく使えそう。
実験したくなった。
プラ問題は、使用者に「捨てるな」じゃなく、販売サイドに「捨てさせるな」の部分を考えさせるべきだろう。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園