徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

戦う君をひとりにしないために/男組解散について

2015-04-01 00:56:23 | News
差別を考えるということはどうしたって自分自身と向き合わなければならないということである。
例えばそれは原発の問題のような「経済の問題」というよりも、「関係の問題」といえる(いや、勿論社会問題というのは大きな意味で関係の問題でもあるわけなんだが)。関係の問題なんだから、これは個人の問題にならざるを得ない。更に言えば、だからこそ「正義フォビア」のような問題が起こる。差別を語るとき、それは自分自身を問われるのだから多くの人たちは無意識のうちにバランスを取ろうとする。無自覚であればあるほど、差別を語ることは恐怖に違いない。それならば差別を語ること=正義を語ることに対して苦笑いで棚上げにしてしまえば話は早い。こうして正義フォビアは、所謂「どっちもどっち」論に形を変え、差別を語ることを避ける人たちの安全地帯となる。ひとまずではあるけれども。
だから差別と戦う人は孤独だった。オレたちの「敵」は、またオレたちと変わらない個人であり隣人なのだから、差別というアンフェアな「関係」を問い続ける戦いは孤独なものになる。だからこそ男組はその解散宣言で「戦う人をひとりにしなかった」と謳ったのだ。結果的に戦闘的な姿勢や派手な経歴ばかりが強調されがちになってしまったが(まあ、それはそれで「ヒール上等」で望むところではあったのだが)、男組の存在意義はまずそこにあった。

2013年6月29日に初めて柏木公園に集合したとき、高橋直輝と木本拓史の姿を見たときに「これは成功する」と確信したことを今でも思い出す。高橋は見た目はコワモテそのものだが、男組に何度危機が訪れようと実に楽天的で、リーダーとして人間を惹きつける魅力のある男だった。木本はこんなに人当たりが柔らかくて優しい男もいないと思った反面、現場ではこんなに怖い男もいない。そしてふたりとも酒はあまり強くない。
高橋はその後も、もう手当たり次第としか言いようのないペースで現場やネットで参加者に声を掛け続けた。普通のサラリーマンもフリーランスもエリートビジネスマンも学者もバカも集まった。
男組最後のミーティング後の飲み会で、ある参加者は「TDC(TOKYO DEMOCRACY CREW)やC.R.A.C.は、それでもちゃんとした人間の集まりだが、男組は違い過ぎる」と言っていたのだが、まさにその通りだったと思う。
そして、そのちゃんとしなさ加減は差別反対の声を上げる人間のハードルをひたすら下げた。どんな奴でも嫌なものは嫌だと声を上げるべきなのだ。そしてグループであるということは、そういう人間の背中を押してあげるということでもある(勿論バカはバカなので、場合によってはディスカッションという名の説教も少なくなかったのだが)。

勿論副長である石野雅之を始めとした「ちゃんとしている大人」もいたから男組は成り立っていたのだが、組織内に絶えず問題児が現れるのも男組だった。一時期、男組(そして憂国我道会)には「ネトウヨをグループに引き入れて改心させる」という実に困難なミッションがあったのだが、これはほとんど成功しなかった。しかしその一方で「男組がなかったらネトウヨになっていたかもしれないバカ」を食い止めることはできていたのではないかと思う。
この約2年間の活動の中で家庭や仕事の事情で離脱した者、ここではあまり書けないような理由で離脱した者はいたものの、主だったメンバーは最後までそのままグループに残り、最後まで男組としてヘイトデモに対するカウンターの最前線に立ち続けた。
匿名のレイシストと戦うためにはリアルな存在でなければならない。だから男組はリアルであり続けたのだ。

3.11以降の日本、特に東京のアクティヴィストのひとつの出発点で、その後の社会運動の核となったのは、やはりTwitNoNukesであっただろうと思う。ダイレクトでストイックな方法論は実に前衛的だったし、着膨れしたサブカルサヨクをも挑発する形で鮮やかに、そして執拗に、事あるごとに現場に出没し行動を続けてきた。オレ自身、参加者として彼らと行動を共にして、その一部だったという自負はある。2013年2月に野間易通がオーガナイズしたレイシストをしばき隊(C.R.A.C.)は、そのTwitNoNukesの直系とも言えるプロジェクトだったと思うし、勿論TL上で情報は共有していたけれどもなぜか手は挙げなかった。
そして2013年3月31日、新大久保で行われた在特会のヘイトデモに対するカウンター行動が大きな盛り上がりを見せたのは、同じ日に渋谷でTwitNoNukesの“最後”の反原発デモがあったことと無関係ではなかっただろう。
そこで自然な運動の移行が行われたのだと思う。
前年の時点ですでに金曜官邸前行動は大きな成果を上げ、首都圏反原発連合が官邸前や国会前に橋頭堡を築いていたし、さらに2011年12月に新橋駅前で行われた当時の野田佳彦首相へのカウンターでは後に対峙することになるネトウヨとの接触もあった。TwitNoNukesがレイシストへのカウンター行動へ移行していくこと、これはやはり必然だった。
そして2013年から14年にかけて在特会などのレイシストへのカウンターからANTIFAへ、行動の突破口を開いていくC.R.A.C.やTDCが東京、そして日本のアクティヴィストたちをリードする一方で、泥臭く路上でカウンターを続け、“新しい人たち”を勇気づけ、鼓舞し続けた男組の登場もまた必然だったと思う。
2015年3月28日は男組が役割を終えた日ではなく、男組に育てられたひとりのアクティヴィストが、またひとりに戻り、新しい行動を開始する日になればいいと思っているし、きっとそうなるだろうと信じている。

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