木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

961 東海道 四日市宿 (6) 諏訪 浜田

2013-07-14 08:00:00 | 名所旧跡

2013.06. 23(日)、”第二弾・後期野次喜多・東海道旧跡を巡るツアー”は四日市宿の半分位を通過し、第六編は四日市市の繁華街周辺を紹介します。

 下の地図の赤い線が旧東海道であり、この道を忠実に自転車にて見て回りました。 なお、見難いが青い丸付き数字は尋ねた場所であり、下の記事の番号になっています。  国道一号線を過るあたりは、旧東海道が消えてなくなっている事を示しています。

 

  

① 「諏訪神社」

昭和11(1936)年2月9日、この諏訪神社で若い軍人が結婚式を挙げました。
 軍人の名前は坂井直。27歳の陸軍歩兵中尉。花嫁は陸軍航空兵中佐平田辰男(明野陸軍飛行学校材料廠長)の長女孝子、20歳。結婚式終すぐに坂井中尉夫妻は上京し東京の麻布に新居を構えました。普通ならこれから幸せな新婚生活が始まるのでしょうが、坂井夫妻の場合は異なっていました。
 坂井中尉は明治43(1910)年8月13日、三重郡桜村(現四日市市桜地区)で陸軍少将坂井兵吉の次男として生まれ、幼少の頃より厳しく育てられ忠君愛国の精神を叩き込まれました。昭和7(1932)年陸軍士官学校を卒業し、陸軍歩兵少尉として東京麻布の歩兵第三連隊に所属します。同連隊所属の安藤輝三大尉の指導を受け彼の国家改造思想に傾倒し、青年将校運動に参加するようになりました。
 2月26日夜、坂井中尉は、二・二六事件で安藤大尉ら青年将校と共に決起し、斎藤実内大臣襲撃を決行しました。7月12日他の同志とともに死刑に処せられました。
 坂井中尉は事件前の2月22日から週番勤務につき連隊に駐在していました。坂井中尉が最後に妻に会ったのは27日早朝。何も知らなかった妻に事件を報道した新聞号外を見せ、再会を約して去って行きました。夫婦として実際に顔をつきあわせていたのはわずか15日間でした。

私の近くにもこんな立派な人がいたとは、誇りに思います。しかし、軍人の厳しさ、残酷さを改めて知る思いです。

この「諏訪神社」の裏は諏訪公園となっており、古い洋館の建物などもあるが、それらは以前紹介しているので、そちらを参照してください。

      http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20091229

 

② 「ライオン通り」

近鉄電車がこの少し手前で急カーブをして、国鉄四日市駅の側を通過してた時代は、この辺りは「四日市連鎖街」と読んでたはずですが?。

ここも旧東海道です。

この後、アーケードを出て、近鉄とJRを結ぶ四日市のメインストリート(中央通り)を横切り、浜田へと向います。 

 

③ 「二羽文雄生誕地」

今は寺ではなく、幼稚園になっていて、この右側に建物がありました。

梵鐘もご覧の通りで、洗濯物干場と併用してます。

 

④ 「鵜の森神社」

ここは東海道からの参道です。 上を走るのは、近鉄名古屋線で左は津、伊勢方面になります。

 

⑤ 「浜田城址」

 

この前のブログの終点「菰野道の起点」から、今回の終点「浜田城跡」までの距離は、約1.1Km、第二弾の起点「町屋橋」南詰めからは、約11.5Km、旧東海道三重県の起点となる桑名宿「七里の渡し」からは、約15.3kmであり、また、三重県内の旧東海道は全長45Kmあると言うから、その約1/3を来たことになります。

なお、今日の自転車走行、つまり、第二弾の全走行距離は、上記の往復となるために、合わせて約23Kmを走ったが何十年振りかの自転車長距離走行のため、疲労は著しく、家に帰ってからでよかったが、足の筋肉がケイレンを起こすなど、激痛を味わった。 

この後、東海道野次喜多道中記を続けたいが、少し足を休める事と、電動サイクルの活用など、今後の対策を練るために、四日市宿は途中ながら、一旦筆(マウス)を置くこととします。

                                        << 第二弾 完 >>  

コメント (2)