木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

959 東海道 四日市宿 (4) 茂福 羽津

2013-07-06 08:00:00 | 名所旧跡

 旧東海道筋の旧跡を訪ねた記録を掲載しているが、その第一弾は「桑名宿」であったが、第二弾は「四日市宿」と称して、四日市市の北の端「朝日町」の「町屋橋」南詰めをスタート地点として、今度は自転車で巡っている。その4は、茂福地区から羽津町内を紹介を紹介します。

 下の地図で、赤線は旧東海道を示し、丸付き数字は下記する記事の番号を尋ねた順に示しています。

 

① 「常照寺」 

      浄土真宗本願寺派

 

 

② 「力石」

明治の中ごろ、寺を再建するに当たり、各所から石の奉納があり、近郷から多くの人が集まった。 その時休憩寺にこの石を持ち上げて競い合ったと伝えられる。 その後、地区の若衆がこの石で力比べをし、大正の終りまで続いたという。 重さは120Kgほどで、担ぎ揚げた人は幾人もいなかったようだ。 左下の小さいのは19Kgほどで、子供用だろうか?。

「新設用水道碑」についてはよくわからない。

 

③ 「證圓寺」

     浄土真宗本願寺派 林光山

 

 

④ 「茂福神社」

1421年には存在したらしい神社である。

 

⑤ 「常夜燈」

伊勢参宮の旅人のために、明治35年建立された。

今から64年前、私は12才になっていたが、恥ずかしながら自転車に乗れなかった。 田舎では乗らなくても不自然では無かったが、この地に来て見ると多くの子供達が乗っているのを見て、乗れないのは恥ずかしく感じ一念発起して練習をしたのが、この場所であった。 この頃ここらは両側に太い松並木とこの常夜灯しかなく、辺り一面田んぼであり淋しい所であったが、今思えば懐かしい場所である。

 

⑥ なつかしき「羽津町八田(やあた)」

私の子供の頃は、三重県北部を主に山間部を転々と住所を変えていた。短い時は3ヶ月しかいなかった場所もあるが、当地(羽津)では小学5年の2学期から、中学卒業まで住んでいたので、最も長く住んだことになり、友達も多く、私のふるさととも言える地なのだ。

下の写真は同級生が住んでいた家で、昔の姿で建っていたので撮らせてもらったが、この辺りで”カン蹴り”や”カクレンボ”をして遊んだ事を思い出す。 夕方近くになると、拍子木や笛が鳴って”紙芝居”のやってくるのが楽しみであった。 出し物の一番人気は「片目の虎」であったが、飴玉や塩昆布を貰うのがとても嬉しかった。

夏場は”チリンチリン”と鉦をならして「アイスキャンデー」売りが自転車でやって来たし、「トコロテン」売りも来た、小麦やトウモロコシを圧力容器で加熱、耳を塞いでこわごわ見てると、「パッカーン」と音がして、古新聞紙を丸めた入れ物で売ってくれたものだ。

下の写真は、その当時の臭いや音が私には聞こえる家である。

この道は、おばあさんが編んでくれた、「わら草履」や、雨の日は「アメゴムの靴」を履いて小学校に通った道であるが、当時を思い起こすものは見当たらなかった。 アスファルトを掘り起こせば私の足跡が残っているかも知れない。

 

⑦ 「残った松」   「かわらずの松」

この松は、樹齢二百年と推定され、江戸時代からここにあり、多くの旅人が見て来た木である。 私がここを通る頃は、この辺りに10本近くはあったと思われるが、今残っているのは、これと日永地区の2本のみだと言う。 是非長く生きて欲しいものである。

 

⑧ 「志氏神社」 (しでじんじゃ)

羽津大宮町にある神社です。もともと4世紀末に築造されたといわれている前方後円墳があったが、現在は前方部がなくなっており、後円部(高さ6m、直径30m)が残っているだけです。神殿のうしろにあるのがそれです。
 神社には古墳の出土品や志野焼の狛犬一対が保管されています。

この神社のすぐ左奥に私の通った小学校がある。ここから東方(手前方向)に延びる参道に沿って小さな川があり、今も水は流れている。 ある日の下校時この川で黒い大金の入った”がまぐち”を拾った事が私のカメラ歴の最初を飾ると以前のブログに書いたので紹介したい。

  (1) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080327 

  (2) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080329

  (3) http://mokunenblog.jugem.jp/?day=20080330

 

⑨ 「光明寺」

    浄土真宗本願寺派

 ここに幕末、村民のために桑名藩と闘った羽津村組頭森多三郎が葬られています。
 文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命令しました。これを阻止しようと、羽津村組頭であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗した結果、藩は年貢の増徴を断念することになりました。
 その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされました。多三郎は帰途につきこの光明寺までたどり着いたところで死亡しました。

この寺の住職は、秀才の小学同級生である。

 

この辺りで、第二弾第四編はお終いとしたい。この後は三ツ谷から北町周辺を紹介する予定。

 第三編の終点「薬師寺」から、当編の終点「光明寺」までの旧東海道の距離は2.1Km、故に、今回(第二弾)のスタート地点の「町屋橋」南詰めからは8.1Km、三重県内の東海道の起点桑名宿「七里の渡し」からは11.9Kmになる。

                                 << 続く >>

 

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