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木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

1098 曼荼羅寺公園とお寺 (5) 修造院、霊鷺院、常照院

2014-05-24 08:00:00 | 寺社一般

 曼荼羅寺は曼荼羅寺公園とその8つの塔頭で構成されていますが、今、ここでは3つの塔頭を紹介します。

 

 「修造院」  西山浄土宗

 

 「霊鷲院(りょうじゅいん)」   西山浄土宗

 本堂の正面で名物(?)などを販売してました。

 

「常照院」   西山浄土宗

 以上で曼荼羅寺の7つの塔頭の紹介を終えます。(一つは工事中ではいれなかった)

曼荼羅寺とその塔頭、ならびに本命の「曼荼羅寺公園の藤」を見終えたのはまだ11時すぎ、帰るのは如何にも勿体ないので、江南市のフラワーパークに向かいましたが、その記録は次回にします。

 

 


1097 曼荼羅寺公園とお寺 (4) 本誓院、世尊院、寛立院

2014-05-23 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.25(金)、曼荼羅寺に来て、「藤」見たので、周りにある8つの塔頭を全部見ようと、めぐっています。(内一つは工事中で見ることは出来ません)

 

 「本誓院」   西山浄土宗

市の資料より

 蜂須賀家政は、永禄元年(1558)に生まれました。
 家政は小さいときに三輪氏の旦那寺である曼陀羅寺山内の梅陽軒(現在の本誓院)へ預けられ、ここで手習いを受けました。本誓院には、家政の位牌や当時の手習い机が保管されています。
 家政は父小六とともに秀吉に仕え各地の戦いに参加しました。天正13年(1585)には、四国征伐に参加し、その軍功により秀吉から阿波一円十七万五千七百石を賜りました。そして翌、天正14年には従五位下阿波守に叙せられました。その後、海を渡って各地に戦いに参加し、抜群の軍功により、ついには阿波の国の太守となり、よく国を治め、阿波藩の基礎を築きました。

家政は自分の一生を顧み、少年時代に世話になった江南の地が忘れられず、寛永元年(1624)に宮後の八幡社と常蓮寺、曼陀羅寺の塔頭・本誓院を修復寄進しました。

上の写真、赤い鳥居が本堂の前に立ってますが、私にはちょっと理解できませんが、当然何か訳があるのでしょうねー!。

 

 「世尊院」  西山浄土宗

 「本堂」

 

「寛立院(さいたえいん)」   西山浄土宗

 

 

  では、次の塔頭へむかいます。

 


1096 曼荼羅寺公園とお寺 (3) 慈光院

2014-05-21 08:00:00 | 寺社一般

曼荼羅寺公園の藤を見にきましたので、その周りにある塔頭を見させて頂いています。その第一は「花の寺」とも呼ばれる ・・・

 

 「慈光院」    西山浄土宗

      江南市前飛保町202

 「藤まつり」の期間中は庭園が解放されているので、見せてもらいました。

 

この寺は花が多いですが、真っ赤な石楠花がひときわ目を引きます。

 

ピンクと白い「ハナミズキ」がとてもきれいです。

 

 

 

 

 ここならいつまででも飽きることはありませんが、そうも出来ず次の塔頭へ向かいました。

 

 


1094 曼荼羅寺公園とお寺 (1) 曼荼羅寺

2014-05-19 08:00:00 | 寺社一般

 TVで「曼荼羅寺公園」の藤が見頃と出たので、突然見に行くことになりました。

前日近江で1万歩以上歩き、かなり疲れているはずなのに、なぜか今日は足腰の痛みもなく、快適そのもの。最近は2日目か3日目がひどくなるので、天気も良し、ならばと出かけたのでありました。 2014.04.25(金)

 来てみると、今日が「藤まつり」の初日、到着したのが9時すぎ表門の真ん前の駐車場(個人=¥500/3Hr)が、ぎりぎりながら入れたので、歩く必要もなし。

寺に入って見ると、あまり広くはないが、庭の至る所に屋台が店を構えるが、まだそのほとんどが閉店状態。こりゃあ少し早く来たかと思いのほか、藤はもう見頃になっていたので、安心して、ゆっくり隅々まで見ました。

先ずは「曼荼羅寺」です。 

 

「曼荼羅寺」  西山浄土宗  日輪山   別名:飛保の曼荼羅寺

    江南市前飛保寺町202   拝観:無料

 

市の資料によれば・・・

 西山浄土宗の古刹で尾北地方における最も格式の高い霊場です。寺域は1,300坪、檜皮葺の正堂を中心に庫裏、大書院、小書院、曼陀羅堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、続いて中門、南門(矢来門)が甍を連ねています。山内にはさらに塔頭の8か寺があり、尾張徳川藩より寺領231石余りを給地されていた名残りをとどめています。

 

10時を過ぎるころはもう人出はいっぱい。「デンガク(¥500)」を売る店には長蛇の列が出来ていました。

 

藤はまだ先が本番ですが、ここは藤の下にいろいろな花を添えており、目を楽しませてくれます。このあたりは次編でじっくり紹介します。

 

この後は、まず本命の「曼荼羅寺公園の藤」を紹介したあと、7つの塔頭を紹介してゆきます。塔頭の一つは工事中で拝観できませんでした。

 

 


1091 近江歴史散策 (8) 長命寺

2014-05-16 08:00:00 | 寺社一般

2014.04.24(木)、後期弥次喜多ご一行”は、近江八幡市に来て、「近江商人のふるさと」を訪ねています。今回は長寿にご利益あらたかと伝わるお寺にやってきました。

 「長命寺」   姨綺耶山(いきやさん) 天台宗系単立

   聖徳太子の開基と伝える、 別名:健康長寿の観音さん

   近江八幡市長命寺町157  (拝観:自由)

 ここの階段は下向きに500段、上向きに300段あるそうです。808段なんて見ただけでもぞっとするのに、下から上がってくる人がいました。私が数段上がる毎に一休みし、えっちらおっちら上がっていると、後方から上がってきた、同年輩かと思うような人から”もう少しだから、頑張って!”と声をかけられ、思わず苦笑いをしたものです。

寿命が延びるとあらばと、ほとんど必至の形相でやっとのことでたどり着きました。

ウイキペディアによれば・・・

 琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

「三仏殿」 千手観音、十一面観音、聖観音の三体が本尊とされる。(重文)

 「三重塔」  重文:1597年建立

 

 左:護摩堂(1606年)  右:鐘楼(1608年)  いずれも重文

 

 木々の間からわずかに見える琵琶湖です。

 

 

 

 

この後は、もうひとつの「近江商人のふるさと」は東近江市に入り「五個荘」に向かいました。

 


1084 近江歴史散策 (1) 日牟禮八幡宮

2014-05-07 08:00:00 | 寺社一般

 後期弥次喜多による、「近江商人のふるさと」をめぐるシリーズのはじまりです。

前回の「彦根の桜と歴史探訪」と同様に、全ての計画から車の運転まで、全てをお任せの”おんぶにだっこ”方式であれいました。 朝7時30分に友が我が家に来てくれた上に、道中、私の健康や足の疲労にまで及ぶ、何かと気を使ってくれての旅でありました。

持つべきは”よき友”と再度思う一日になりました。(2014.04.24(木))

 

天秤棒に夢を乗せ、行商に励んだ近江商人発祥の地。近江商人とは、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、日野、五個荘、近江八幡から特に多くを輩出しました。現在も商社をはじめ多くの企業が活躍してます。(市観光協会の資料より)

「日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)」

     近江八幡市宮内町    拝観:自由

 

神社のホームページによれば、始まりは・・・

伝記によれば、131年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。

秀次公と合祀(神社のホームページより)

  天正18(1590)年、豊臣秀次公が法華峰に八幡城を築城のため、上の八幡宮を麓の比牟礼社に合祀しました。替地として日杉山に祀る予定でしたが、折りしも文禄4(1595)年秀次公は自尽に及びました。このため八幡城は廃され、日杉山に神社も建立されず、現在の如く一社の姿となったのであります。
 秀次公の八幡城は廃城となりましたが、城下町は商人の町として発展し、名にし負う近江商人を育てました。当社は近江商人の守護神として、崇敬を集めることとなったのでした

 鈴鹿スカイライン(R477)を経由してきましたが、渋滞もなく順調に走ることができて、9時前に八幡さんに到着しましたので、好天ながらまだ人でも少ない状態でした。

 

 

 

 

 近江商人の考え方を表す言葉の代表的なものに、「三方よし: 売り手よし、買い手よし 世間よし」があります。 売り手の都合だけで商売するのではなく、買い手が満足し、商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならないという考え方でしょうが、多くの商人や製造者がこの精神を実践したならば、もっと幸せで明るい社会になることでしょうなあ!。(観光協会の資料によるが、一部は編集しました)

 

 

 

この後は、八幡宮の周辺を散策します。

 

 


1076 彦根の桜と歴史探訪(14)護国神社、済福寺

2014-05-05 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、日は長くなったとは言え、5時近くになれば陽は傾いてきます。 久々の遠出、さらには久々の長時間散策で疲労の方もピークが近くなったが、目標の「井伊家ゆかりの社寺」は残りふたつとなりました。

 

 「護国神社」

     彦根市尾末町1-59     拝観:自由

 

 ウイキペディアによれば・・・

明治2年(1869年)、彦根の大洞竜潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられた。明治8年(1875年)、元彦根藩井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌明治9年、同地に社殿を造営・鎮座した。

昭和14年に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称した。第二次大戦後の占領期は「沙々那美神社」と改称していたが、日本が主権を回復した昭和28年に元の社名に復した。

 

 

 

 「済福寺」    黄檗宗 普渡山

     彦根市芹川町919    拝観:自由

寺のホームページによれば・・・

 宗祖隠元禅師のお弟子にあたります大虚道清和尚を開山に仰ぎ、慧真によって開基されました。
大坂城落城当時、二十有余万人の戦没者供養の為に、彦根藩四代目藩主 井伊 直興公のご寄進により、中山道に面するここ、城南の守護に造られましたのが、当済福寺の起源とも伝えられています。

 

 

 

 これにて今日の歴史散策はお終いとして帰途につきました。

今日も計画から車の運転まで、全てを友がやってくれたし、足腰の弱った私を常に気遣ってくれたので、久々に一万歩以上歩いたのに足の疲労だけに留まり、ありがたいことだったと、お礼を言いたい。

 なお、この「彦根の桜と歴史探訪」はホームページから「ブログ索引」を経て「歴史散歩」をクリッククリックすると「後期弥次喜多・歴史散歩---彦根の桜と歴史」にて14編を一括掲示してます。興味のある方は、ご覧下さい。

 

 


1075 彦根の桜と歴史探訪(13)北野神社、北野寺

2014-05-04 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、”後期弥次喜多ご一行”はお城の北、琵琶湖畔まじかのところにやってきました。

 

 「天満宮 北野神社」  彦根の天神さん

     彦根市馬場1丁目  参拝:自由 

市観光協会によれば・・・

 由緒…彦根藩2代藩主井伊直孝公が彦根城築城の際建立。
祭神…菅原道真公(学問の神)、ゑびす大神(商売繁盛の神)を奉斎。
祭礼…彦根十日ゑびす際 商売繁盛・福笹を求め賑わう。

 「十日えびす」では、一年の商売繁盛を祈り、境内周辺には屋台がならび、「商売繁盛ササ持ってこい」と威勢のいい掛け声がかかるそうです。

 

「ハナモモ」   「花写真館」はこちらから

 

北野神社に隣接して寺がありました。 

 

 「北野寺」   真言宗

     彦根市馬場1丁目  参拝:自由 

市観光協会によれば・・・

 日本最古の巡礼霊場・西国三十三所観音霊場に倣って設けられた
近江西国三十三所観音霊場は琵琶湖を時計周りに巡る霊場で、江戸時代初期
には始まったといわれている。
彦根城の西に位置する北野寺は第14番札所になっており、720年に彦根山
(彦根城の地)に彦根寺として開創されたと伝えられている。
彦根城の築城にともない、現在地に移転している。
かっては信仰のお寺として多くの参拝者がお参りしたと言われる名刹です。

 

 

この後は、護国寺などに参拝しました。

 


1074 彦根の桜と歴史探訪(12)圓常寺、大師寺、千代神社

2014-05-02 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、”後期弥次喜多ご一行”は彦根市観光協会が決めた、「井伊家ゆかりのしゃじめぐり」を中心に、彦根市内の歴史散策をやってます。

 

「圓常寺」  

     彦根市城町2-4-62   

 

 市観光協会によれば・・・

彦根城を完成させた2代直孝公が母の菩提のため建立したお寺です。本寺には県下唯一快慶仏立像阿弥陀如来、また、13体揃った閣問堂があります。

 

「家運隆昌姉妹観世音菩薩」

女の細腕で、父母孝行と姉妹愛で旅館を一流の国際観光旅館を築きながらも、突然の病魔により他界した。その功績と慈愛の徳により、商売繁盛の菩薩として祀られた・・・とある。

 

 

 「大師寺」   真言宗

     彦根市佐和町7-19    拝観:自由

 

寺のホームページより・・・

滋賀県でも数少ない真言宗のお寺です。彦根駅から徒歩5分のところにあり、「彦根駅前の弘法さん」として親しまれています。

さて、当山は、昭和六年に開山真浄法尼が一人の僧に草鞋代を喜捨したことから始まり、不思議の霊験を授かり九十二歳で入寂するまで多くの衆生済度の修行を実践され、彦根における弘法大師信仰の発祥の寺院として今日にいたっております。

 

 「千代神社」

     彦根市京町2-9-33  拝観:自由

市観光協会によれば・・・

天宇受売命(あめのうずめのみこと)・猿田彦命を祭神とし、本殿は三間社流造で国の重要文化財に指定されています。芸能の始祖神。井伊家の保護のもと産土神として信仰を集めています。
特に、天宇受売命は、俳優の始祖、芸能の祖神と仰がれ、崇敬の篤い神様として知られています。 今も、有名俳優の方や芸能関係の人々が訪れ、芸の上達を祈願してゆかれます。

 

 歴史散策はまだまだ続きます。 この後は「北野神社」になります。

 

 


1073 彦根の桜と歴史探訪(11)佐和山城址、井伊神社

2014-05-01 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、”後期弥次喜多ご一行”は佐和山のふもとにある、歴史上に登場する施設などを見て回っていますが、今回紹介するのは、その中の・・・

 

 「佐和山城址」

  彦根駅の北側、佐和山(232.5m)にある城跡です。不破(ふわ)の関があった関ケ原(せきがはら)に近く、交通の要衝でした。近江守護佐々木氏によって築城され、天正18年(1590)石田三成(いしだみつなり)(1560-1600)が、佐和山城主となってから、5層の天守を構え、鳥居本(とりいもと)を大手とする立派な城だったといわれます。三成が関ケ原の戦いで破れた後、井伊直政(なおまさ)が新しい城主になりましたが、慶長11年(1606)、彦根城築城にともない廃城になりました。建築物の多くは彦根城や麓にある清凉寺(せいりょうじ)、龍潭寺(りょうたんじ)に移築転用され、現在では佐和山城を偲ぶものは、山腹の石田群霊碑だけとなっています。

 

「佐和山会館」

 

この写真左奥が井伊神社、もっと左のさらに奥には長寿院、井伊神社の右には清凉寺があります。佐和山城址は更に右上です。

 

「井伊神社」  

     彦根市古沢町     境内参拝自由

 

市観光協会によれば・・・

 天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られています。
現在は、風化による傷みが激しいため覆いをしており、中を拝観することはできません。

 

「シダレ桜」  右の囲いの中が本殿(参拝できない)

 

第6編「宗安寺」で紹介した「血染めのススキ」はここに植えられたものらしい。

 

この後、ご一行様は再び街中に戻り、「大師寺」などを見学したが、それは後述とします。

 

 

 


1072 彦根の桜と歴史探訪(10)清凉寺

2014-04-30 08:00:00 | 寺社一般

2014.04.08(火)、”後期弥次喜多ご一行”は彦根市内の歴史散策の真っ最中です、今回は佐和山というかつては城のあった山(標高232m)のふもとを訪ねています。 

 

 「清凉寺」   曹洞宗  祥寿山

    彦根市古沢町1100    境内自由

 

 彦根市の東北、佐和山の麓にある曹洞宗の禅寺・清涼寺は
佐和山城の城主であった石田三成とその家老・島左近の屋敷跡に創建され、
戦国から江戸期に渡り代々彦根藩主を務めた井伊家の菩提寺です。
かつては雲水の修行場であり、大老・井伊直弼も参禅したのだとか。

 清涼寺には佐和山城落城や石田家家老・島左近に纏わる7つの怪談
「清涼寺の七不思議」が今なお語り継がれています。

この清凉寺の正面に見える山門も「唸り門」とあだ名され、
江戸期に焼失するまでは左近邸の屋敷門を移築して使用しており
毎年大晦日になると風もないのに山門から不気味に唸る音がしたという
不気味な伝説が残っています。

今日は4月8日お釈迦様の日、小さな像に甘茶を掛けてお祈りする親子がいました。

 

 この後は、すぐお隣の「井伊神社」です。

 

 

 

 

 

 


1071 彦根の桜と歴史探訪(9)龍譚寺

2014-04-28 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、”後期弥次喜多ご一行”は、佐和山のふもとに来ています。

 

 「龍譚寺」   別名:「庭の寺」「だるま寺」  臨済宗妙心寺派 

    彦根市古沢町1104   拝観料:¥400

市観光協会の資料によれば・・・

 井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基(ぎょうき)によって遠江(とおとおみ)国(現静岡県)井伊谷に開基ました。井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場でした。

 

 

 

 「補陀落の庭」

 龍潭寺に禅宗の大学寮があり、その中に園頭科(えんずか)がありました。これが造園専門学校の始まりとされています。学僧が実習として作った庭などが現在も残り、庭の寺ともいわれています。
 広い庭園は、佐和(さわ)山を借景に作られています。また、井伊直弼(なおすけ)や小堀遠州が茶の湯を楽しんだ飄々庵(ひょうひょうあん)などの茶室は、佐和山城の城門を利用したといわれ、庭園とともに静寂に包まれ落着いた雰囲気になっています。書院東庭は「蓬莱(ほうらい)池泉庭」と呼ばれ、山を背景に大きな池が横たわる池泉鑑賞式庭園です。書院北庭は「露地庭(ろじてい)」と呼ばれ、その上に上段庭があります。また、書院東庭とともに良く知られた方丈南庭は、「ふだらくの庭」と呼ばれ、白砂に48個の石を配した石庭。また、庭園の後丘上には、夢窓疎石(むそうそせき)や諸禅師(しょぜんし)、小堀遠州の供養塔や造園史の先賢をまつる庭聖殿があり、見る庭だけでなく、考える庭、思う庭、さらに拝む庭などいろいろな庭があるといわれます。

 

 

花は「ショウジョウバカマ」  「花写真館」はこちらから

 

 

 

 

 

このあとは「清凉寺」に向かいましたが、その紹介は次回にしたいと思います。

 

 

 

 


1070 彦根の桜と歴史探訪(8)長寿院

2014-04-27 08:00:00 | 寺社一般

2014.04.08(火)、彦根のさくらと歴史をめぐる旅を続けていますが、 ここは市内でも少し山間に入った静かなところ、標高232mの佐和山のふもとにあたるところにやってきました。

 

 「長寿院」   別名:「大洞弁財天」 近江七福神

    彦根市古沢町1139  拝観境内:自由

 4代直興が日光東照宮を作った大工を登用して建てたもので、権現つくりの優美な本堂は彦根日光と呼ばれ、ここに参拝すれば百所に詣でた功績があると言われているとか?。

下の写真は上記山門から望む「彦根城」。

観光協会の資料によれば・・・

 彦根城の東北(表鬼門(きもん))の方角、大洞山(211m)の中腹にある真言宗醍醐(だいご)派の寺院。正式には長寿院ですが、日本三大弁財天の一つといわれる弁財天坐像を安置していることから大洞弁財天と呼び親しまれ、商売繁盛を祈願する人々でにぎわっています。急な石段を上り、山門をくぐって振り返った風景は、山門を額縁に彦根城が美しく収まり、まるで一幅の絵を見るようです。日光東照宮建立の総奉行であった井伊直興(なおおき)が、厄除けと城を守る備えとして建立したもので、甲良大工によって建てられ、極彩色で欄間(らんま)に眠り猫や象の彫刻があることから、彦根日光とも呼ばれています。

 

 

 

 

 

 「ツルニチニチソウ」   「花写真館」はこちらから

 

このあと「後期弥次喜多ご一行」は、お隣にある「龍譚寺」に向かいました。

 

 


1069 彦根の桜と歴史探訪(7)善照寺、江国寺、町並み

2014-04-26 08:00:00 | 寺社一般

2014.04.08(火)、「後期弥次喜多ご一行」は、彦根市の桜と歴史を訪ねる旅をしています。 今回は市内で見つけた小さな寺を二つ紹介します。

 

 「善照寺(ぜんしょうじ)」   浄土真宗 本願寺派  

    彦根市本町2-3-22 

この寺については、詳細は何もわかりませんので、恐縮ですが、写真のみです。

 

 

 

「江国寺(こうこくじ)」  瑞雲山   臨済宗妙心寺派

    彦根市本町2-3-24     

 江国寺に安置されている大黒天は、大石内蔵助が常に念じたといわれる
仏で、比叡山の大阿闍梨が開眼した仏像らしい。
大石内蔵助が描いた大黒天像(画)が赤穂の高光寺に所蔵されていることからも、
内蔵助の大黒天信仰が篤かったのであろう。

江国寺は、現在の彦根市安清町に1614年開創され、1636年現在地に
移転している。

 

「レンギョウ」がよく咲いていた。  「花写真館」はこちらから

 

落ち着いた風情がただよう町並み。

うなぎは大好きですが、値上がりなどあって、なかなか食べられませんが、この際はと思い切って入ることにしました。 満員でしばらく待って席に着きましたが、お味の方はいまいち私の口には合いませんでした。一番安いの(¥1900のうな丼)を頼んだのがいけなかったかも知れません。

 

「交番」もしゃれている。

 

 

この後は、「大洞の弁天さん」を紹介したいと思います。

 


1068 彦根の桜と歴史探訪(6)宗安寺

2014-04-24 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、彦根城の桜と文化遺産を見終えた”後期弥次喜多ご一行”は、市観光協会が決めた「井伊家ゆかりの社寺めぐり」13ケ所を中心に市内の歴史を訪ねあるいた。

 

 「宗安寺」  浄土宗  弘誓山   別名:「赤門さん」

     彦根市本町   拝観:境内自由、庭園は¥200要

 徳川家康をまつる、朱塗りの「赤門」寺で、江戸時代の挑戦通信使の宿館としても利用される。石田三成の千体仏や彦根勝運大黒天を安置し、「彼岸白道の庭」も見事・・・とある。

寺院のホームページによれば・・・

 始まりは群馬県高崎市の安国寺に由来しており、徳川四天王の武将といわれる井伊直政公が深く関わっている。
 直政公は1590年に神奈川県の小田原征伐などの戦いで功績をあげ、同年の徳川家康公の関東入国とともに上野箕輪城十二万石を与えられた。その際、正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興した。
 そして、直政公は1600年の関が原の戦いでの勲功を称えられて石田三成公の近江佐和山城の城主に。そこで安国寺も付近にと城のそばに高崎安国寺を分離させて建立。正室両親の戒名を一字ずつとって宗安寺と改名した(住持成誉典応上人が開山上人となっている)。江戸幕府が開かれた1603年、彦根に城を移し、宗安寺も現在の位置に移築された。
 宗安寺は井伊家の強大な保護を受け、家康公死去後、同じ浄土宗ということで家康公の位牌奉安所となり、藩主自ら参拝にくるようになった。また当時、城下町のほぼ中心に位置していた宗安寺は隆盛をきわめ、1695年には僧侶35人・寺男11人・塔頭四庵・末寺八ヵ寺を有し、本山クラスまでになった。
 ところが、1701年の彦根大火で佐和山城正門だった赤門(現存)を残して全焼。翌年に長浜城付属御殿をもらい受け、本堂とした。その後も彦根藩の集会所の役割や藩士の会合、朝鮮通信使の宿、幕末には彦根藩が幕府側か朝廷側のいずれにつくかの会議所などとして使われ、彦根の左右を決める所となっていた。

 

 

 

大坂夏の陣で討ち死にした、豊臣型の木村重成の”みしるし”を彦根藩士が、生い茂るススキに包み持ち帰り、己が菩提寺のここに葬った。

 御首がつつまれたススキは、首を洗った池の周りに根付き繁茂した。その後鉄道の施設により、佐和山神社に移された。その神社も廃社となったので、さらに井伊神社に移されたが、枯れ死に近い状態となったので、三たびここに移されたら忽ちにして生き返ったとある。

 

 

 

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歴史散策はまだまだ続きます。