木燃人の波止場

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1068 彦根の桜と歴史探訪(6)宗安寺

2014-04-24 08:00:00 | 寺社一般

 2014.04.08(火)、彦根城の桜と文化遺産を見終えた”後期弥次喜多ご一行”は、市観光協会が決めた「井伊家ゆかりの社寺めぐり」13ケ所を中心に市内の歴史を訪ねあるいた。

 

 「宗安寺」  浄土宗  弘誓山   別名:「赤門さん」

     彦根市本町   拝観:境内自由、庭園は¥200要

 徳川家康をまつる、朱塗りの「赤門」寺で、江戸時代の挑戦通信使の宿館としても利用される。石田三成の千体仏や彦根勝運大黒天を安置し、「彼岸白道の庭」も見事・・・とある。

寺院のホームページによれば・・・

 始まりは群馬県高崎市の安国寺に由来しており、徳川四天王の武将といわれる井伊直政公が深く関わっている。
 直政公は1590年に神奈川県の小田原征伐などの戦いで功績をあげ、同年の徳川家康公の関東入国とともに上野箕輪城十二万石を与えられた。その際、正室の両親の供養のために荒廃していた安国寺を復興した。
 そして、直政公は1600年の関が原の戦いでの勲功を称えられて石田三成公の近江佐和山城の城主に。そこで安国寺も付近にと城のそばに高崎安国寺を分離させて建立。正室両親の戒名を一字ずつとって宗安寺と改名した(住持成誉典応上人が開山上人となっている)。江戸幕府が開かれた1603年、彦根に城を移し、宗安寺も現在の位置に移築された。
 宗安寺は井伊家の強大な保護を受け、家康公死去後、同じ浄土宗ということで家康公の位牌奉安所となり、藩主自ら参拝にくるようになった。また当時、城下町のほぼ中心に位置していた宗安寺は隆盛をきわめ、1695年には僧侶35人・寺男11人・塔頭四庵・末寺八ヵ寺を有し、本山クラスまでになった。
 ところが、1701年の彦根大火で佐和山城正門だった赤門(現存)を残して全焼。翌年に長浜城付属御殿をもらい受け、本堂とした。その後も彦根藩の集会所の役割や藩士の会合、朝鮮通信使の宿、幕末には彦根藩が幕府側か朝廷側のいずれにつくかの会議所などとして使われ、彦根の左右を決める所となっていた。

 

 

 

大坂夏の陣で討ち死にした、豊臣型の木村重成の”みしるし”を彦根藩士が、生い茂るススキに包み持ち帰り、己が菩提寺のここに葬った。

 御首がつつまれたススキは、首を洗った池の周りに根付き繁茂した。その後鉄道の施設により、佐和山神社に移された。その神社も廃社となったので、さらに井伊神社に移されたが、枯れ死に近い状態となったので、三たびここに移されたら忽ちにして生き返ったとある。

 

 

 

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歴史散策はまだまだ続きます。

                   

 


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