しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

闇の女たち

2020年09月27日 | 昭和21年~25年
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



RAA解体

「忘れもしないのは昭和21年3月27日のこと。
昼頃目をさますと、突然、全員集まれという。
『GHQの指令で、今日限り、ただ今から慰安所は一切オフリミットになったから、皆さんは立ち退いてもらいたい。
皆さんの犠牲で多くの一般婦女子の純潔が護られたのは歴史的事実であって、どうか国のために尽くしたということを誇りと慰めにお別れしてほしい…』
寝耳に水とはこのことをいうのであろうか」

「下着類の入った風呂敷三つを持って出た。
その夜から私たちは兵隊相手の街娼になった。」

彼女たちの多くは、すでに発生していたパンパンの一群へ身を投じていくことで生きのびようとする。

有楽町のガード下、新橋。
ラク町(有楽町)、バシン(新橋)はアメリカ兵相手の「洋パン」が多く、身なりも派手であった。
ノガミ(上野)、ジュク(新宿)は日本人相手で、どことなく汚らしく地味な服装であった。

闇の女の怖れたものは、稼ぎを横取りされたり、性病にかかることだった。
そのため自衛上、縄張りごとにきっぷのいい姉御がリーダーシップをとるようになる。
そんなところへ,RAA慰安婦たちが合流してきて、街娼は盛り場にあふれ、社会問題化する。



取締り

GHQの要請で性病を防止するため、狩り込みが行われた。
当時、有楽町、新橋など都内に600~700名の闇の女がいた。
「昭和21年3月10日警視庁はMP協力の下に一斉検挙。最年少16歳から最高38歳で街頭で進出していた300余名。
目立って多いのは戦災で家を焼かれ肉親と離れた娘たちである」
取り調べの上、上悪質者以外は保護者と共に説諭放免する。

闇の女と吉原などの集娼の女とでは、はっきりとした区別がなされた。
当然仲も悪く、病院内ではケンカがたえなかった。
あの世界で生き残るには、気を張って、男まさりにふるまわなければ、ひねりつぶされる。口のきき方も乱暴。
やめらないのは、お金が魅力であるからである。
当時のサラリーマンの給料を二日で稼いでしまう。
稼いだ金はすべて自分のものになる。
ショートで一日10人も相手をする街娼もいた。

取締り強化と、世の中が秩序を保ってくるにつれて、パンパンと呼ばれる女たちにも、やがて転機がくる。

赤線が完全に復活する。
街娼は組織に吸収され街にはヒモである客引きの群れがあふれた。


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