しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

縄ない

2020年09月12日 | 暮らし
子供の頃、雨の日に祖父は長屋にいた。
長屋には縄ない機があった。
イスに座って稲わらを供給しながら、足踏みで縄をなっていた。
その縄は畑仕事など、自給用で必要量以外は縄をなうことはなかった。

茂平には、”もとやん”という漁師がいて、海の仕事がない日には家で手編みで藁草履を編んでいた。
小学学校の運動会の前の日には、もとやんの家に行って藁草履を一足買っていた。
藁草履で走れば速く走れると、上級生が言っていた。
他にもう一軒、藁の手仕事で人形か台所用品か忘れたが、作っているおばあさんがいた。


下記は引野の話だが、
福山では「縄ない大会」があり、「全国大会」にも出場していたようだ。



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「梶島山のくらし」 梶島山のくらしを記録する会編  2011年発行




梶島山の大事な副業としての縄ない

稲作・麦作以外に現金収入を手に入れるために、イグサ、レンコンなどさまざまなものを作ったものだ。
手仕事では、麦稈真田を作っていたが、なんといってもこの地域に盛んに取り組まれた手仕事は縄ないだった。

縄ない機ができると、以前の手ないに比べと格段に生産量があがった。
(明治40年三吉町の鳥越式製縄機を発売)
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。

縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。

朝4時ごろから起きて朝のうちに縄ないをし、田んぼの仕事をすませると夜なべ仕事でも縄をなっていた。
がんばれば朝なべと夜なべで一台で二巻き(出荷時の四巻)ぐらい作ることができた。
冬は手袋をはめたら仕事にならない。


藁を他所から買う
自分のところの稲藁だけでは足らんので、
荷馬車で神辺や有田や用之江へ藁を買いに回る人もいた。
牛にひかせて笠岡まで買いにいくこともあった。
縄ないが盛んになると船で笠岡や九州まで行って、沖浦に大量に荷揚げをするようになった。
後には自動車(バタンコ)で運ぶ人も出てきた。
藁を全部家に置くことはできないので、田んぼに「とんど」にしておいて、
いるぶんだけ持って帰り、長屋の天井に投げ上げて保管した。

縄干し
庭に立てた二本の棒の間に縄を下から上へ隙間ないようにぐるぐる回すようにかけて干した。
乾いたころ、ちびた竹箒で縄を擦ってケバを落として仕上げた。

縄の出荷
丸く巻き取り輪にした仕上げの縄を五つひとまとめにして出荷した。
買い取り業者の検査員が、青いインクの判を一等・二等・三等と印を押した。

俵ない大会
縄工芸品生産を推進するために、縄ない競技会の他にも手縄と「こも」を作る競技会も行われた。



全国縄ない大会

全国縄ない大会は戦争中から始まり東京で行われた。
わしは、昭和22年と23年に全国大会に出場した。
22年には3位だったが、23年には優勝できた。
引野村から二人選ばれて深安郡地区及び備後地区の予選会を勝ち進んだ。
東京の後楽園野球場に全国から集まった三府四五県の人と競技した。
大会には自分の縄ない機とわらを貨車に積んで、農協の職員、県の職員、父親と東京へ行った。
優勝の記録は15分で897尺3寸(約272m)だった。



コメント
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