しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

♪リンゴの唄♪

2020年09月22日 | 昭和21年~25年
リンゴは青森や長野が有名だが、
岡山県の南部の茂平でも栽培されていた。
おば(父の妹)は「リンゴで学校に行かせてもらったようなもの」と言っていた。
戦後、茂平にリンゴの木は無かったが、それは”食料増産”も、少しはからんでいたのだろうか?

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「人びとの戦後経済秘史」 東京新聞・中日新聞編  岩波書店  2016年発行


「リンゴの唄」

明治期に青森県で盛んになったリンゴ栽培は長野県などに拡大。
昭和には植民地だった台湾などへ輸出も増えた。
小粒で酸っぱい「紅玉」、持ちがよい「国光」が主流品だった。

だが、戦況悪化で軍部はコメやイモなど主食になる作物の増産を優先した。
1941年にはリンゴの木を新しく植えることを禁止。
1943年には「りんご園耕作転換令」で一部切り倒しとイモなどへの転作を命令した。
元農協職員A氏(89)は、
「リンゴ農家には農薬や肥料も配分されなくなった」と話す。

「リンゴを作るヤツは国賊だ」。
リンゴ栽培技術の研究者M氏は、軍に協力する大政翼賛会が叫んでいたのを覚えている。
清水村は全体の二割を伐採させられた。農家は自ら木を切った。

1944年の晩秋、清水村(現在・青森県弘前市)に
「食糧増産隊」を名乗る130人の青年が大挙してリンゴ畑にやってきた。
木を斧で切り倒し、縄を掛け根元から引っこ抜く。
二週間で3.600本が伐採された。
大豆やジャガイモの畑になった。

地元の警官は、火の見櫓に登り、双眼鏡を使って農家がリンゴの作業をしていないか監視し、
田植え期にリンゴの袋掛けをした農家を逮捕した。

1942年に21万トンだった青森県の生産量は終戦の年には一割にも満たない1万八千トンに激減した。
リンゴ農家は壊滅寸前だった。

※※※

『リンゴの唄』はそんなリンゴ受難の時代に誕生した。
詩人サトウハチローの祖父弥六は、弘前藩士族でリンゴ栽培を指導した人物だった。
だが、軍の検閲で楽曲化は禁じられた。
戦後ようやく日の目をみた。

松竹歌劇団の並木路子は、父と兄が戦死、東京大空襲で母が亡くなっていた。
作曲家万城目正は「並木くん、君に頼むのは忍びないが・・・」
並木は、「戦争で肉親を失ったのは私だけない」と悲しみを捨て、明るく歌った。

戦後初の大ヒット曲『リンゴの唄』は、勇ましいだけの軍歌にあきあきしていた国民は、かれんで希望に満ちた歌に共感したとされる。
だが、国民はリンゴが食べれる時代が戻ってきたことを喜んでいたとの見方もある。

※※※

大量伐採の影響は深刻だった。
農家の多くが苗から育てなければならなかった。
「苗木も生産していた父のところに農家が殺到しました」とM氏。
同県のリンゴ生産量が戦前水準を超えるまで四年かかった。

1969年に刊行された青森県りんご協会「二十年の歩み」には、
「あと2~3年戦争が続いたら全てジャガイモ畑に変わっただろう」と記す。




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カストリ雑誌④カストリ雑誌業

2020年09月22日 | 昭和21年~25年

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「昭和の消えた仕事図鑑」 宮沢優著 原書房 2016年発行 


カストリ雑誌業

---戦後まもなくの昭和21年から25年ごろにかけて出版されたエログロな内容の大衆娯楽雑誌を出版する業者。
紙不足の時代に、屑紙を再生した紙で作られた---


カストリ雑誌が誕生したのは、敗戦後間もなくであった。
それまでの表現の自由から一気に解放され、性、犯罪、怪奇、推理などを描いた出版物が堰を切ったように刊行された。
それを牽引したのが、粗悪な紙で作られたカストリ雑誌であった。
戦後、GHQによって用紙統制されていたが、カストリ雑誌は統制の対象外であった仙花紙で作られた。
主に性風俗を扱ったものが多く、「風俗研究」「りべらる」「アベック」「好色草紙」「怪奇実話」「オール夜話」「犯罪実話」などの雑誌があった。

雑誌「猟奇」の2号は6万部も売れたが、わいせつ物頒布罪の疑いで摘発された。
結局「猟奇」は5号で廃刊。
他のカストリ雑誌も本文中に性風俗の挿絵や口絵があり、21年から百数十種類の雑誌が刊行されたがすぐに消えた。
時流に敏感な学生の中には雑誌を創刊する者もおり、東京大学の学生だった室伏哲郎らは「ナンバーワン」を刊行している。

正当な雑誌を扱う出版社は「内神田」、カストリ雑誌を出す出版社は「外神田」と呼ばれ区別された。
表現の自由を謳い、一時的な人気を博したものの、興味本位な内容に走り、明確な方向性を持たなかったため、結局、カストリ雑誌は昭和25年ごろにはほとんど姿を消した。


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