しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

カストリ雑誌③仙花紙盛衰記

2020年09月21日 | 昭和21年~25年


「カストリ雑誌にみる戦後史」 山岡明著 オリオン出版 昭和45年発行



仙花紙盛衰記 
昭和22年初めに「猟奇」2号が、拡大強化された≪刑法175条≫の適用を受ける最初の雑誌になった。
そのため世間の注目を集めたのか、3号から売り上げも伸びた。
それなのに、発行を続けられなくなった。

悪性インフレの激流に呑み込まれてしまった。
定価も高すぎた。
手もちの印刷用紙が底をついた。

昭和23年3月、いわゆる「低俗・不良出版物」は用紙の割り当てをもらえなかった。
自由売買の「仙花紙」に切り替えるしか仕方なくなっていた。
仙花紙は、チリ紙を転用したもので和紙の一種。
昭和42年ごろにはトイレット・ペーパーなど本来の姿に戻った。


「平凡」にはじまる芸能話題誌
昭和20年12月に創刊号。
昭和23年に、編集内容を変えて芸能話題誌への道をあゆむことになった。
なおこの系列の「明星」が創刊されたのは昭和27年だった。

ヒロイン「夜の女」
敗戦日本の売笑婦は貧農の出ではなく、むしろ都会の中小業者、小市民層である事は注目すべき新事実である。
「夜の女」は、戦後混乱期を象徴する一つの存在になった。
いまならキャバレーやバーに勤めるだけですむが、そのころは肉体の切り売りをするより仕方なかった。
あるものは、街角に立ち、またあるものは、赤線とか青線とか呼ばれていた世界に身を沈めていった。

「夫婦生活」へ
「夫婦生活」創刊号は昭和24年6月、取次店の予想を裏切って即日売り切れてしまった。
性医学、
絵入り川柳は多色刷り、
大日本印刷で印刷。
グラフはヌードで、二色刷りの川柳は夏姿夫婦草子。
内容は今の婦人雑誌とあまり変わらない。
昭和25年「夫婦生活」1月号は35万部売れた。
その部数は文芸春秋より上であった。
当時、中央公論・世界・改造が8万部、文春は20万部くらいだった。



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カストリ雑誌②発禁処分”H大佐夫人”

2020年09月20日 | 昭和21年~25年
有名な「H大佐夫人」のストーリー。
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『猟奇』2号 昭和21年12月発行


H大佐夫人  北川千代三


中学四年生の私は、昭和19年の歳末、東京からさのみ遠くないC県C市から二三里奥のY町に疎開しました。
その家の主人といふのは、現役の陸軍大佐で、陸軍砲兵学校の教官をしている人でした。
家族は、大佐の夫人の美根子さんと、下働きの雇婆さんの三人でした。そこへ私が加わったのでした。


美根子夫人は、軍人の妻であるに拘わらず、何かと思ふほど、身繕ひや、お化粧に念をいれる人でした。
高雅な香水の匂ひをあびせられた時、私の全官能を、いやが上にも掻き立てるのでした。
「喬雄さん、此処に居る間は遠慮しないでネ・・・・」
と言ひながら、私の肩の辺りに手を触れて起き上がる時など、魅惑的な香りが堪らなく私の神経をゆさぶるのでした。


「喬雄さんは・・・中学生だから、まだ無理ね。」
「---何がです・・・」
「ううん、何でもないんですのーー」
「大人ですよ、僕だって。」
「さう?でもこんなこと訊いて、もしご両親に知れたら、妾お叱りを受けるわねーーー。」
と言ひながら,俯向いた夫人の顔は、私が初めて見る羞恥に富んだ表情だったのです。


湯殿の中で人声らしい気配がするのです。
「冴ッーーーーー」
其所には、裸形の赤黒い巨大な肉体と、透き通るような真っ白い肉体が見えたのです。
大きな眼は細められ、眉根には皺を寄せて、口は半ば開いているのです。
私は、自分の身体全体が上下して、息が詰まるような気がしました。
夫の愛撫に全身を任せきった妻の姿形とはこんなものかと、私は恍惚になってしまいました。


「喬雄クン。空襲の時は注意し給え・・・」
大佐は出て行きました。
「十日ばかり帰って来ないのよ。」
私の背中から、夫人はそんな言葉を滑らせました。
「喬雄さん、貴郎もお湯に入って来なさいよーー」
「お入りなさいよ。一度お背中を流してあげたいから・・」
夫人は真っ白い柔軟い手で、私の肩の辺りを抱きすくめるようにしながら入念に流してくれるのでした。
「僕も、流すしませうーーー」
「そう・・・じゃあお願いしようかしらーー」
「・・・喬雄さんーーーとてもご立派なのねホホホホ」
私は身体の何処を立派と指されたのか,此時は解りませんでした。


突如、遠くの方から警報のサイレンが吹鳴し出したのです。
「喬雄さんB29の編隊ですって。壕へ入りませうよ、ねェ」
完全無欠だという大佐自慢の防空壕へ待避したのです。
私たち二人が壕の中に下りると、夫人は蓋をピタリと防めてしまひました。
二人の身体は、外界と隔離した、別世界のような地下室へ呑み込まれてしまったのです。
瞬間、私の理性は失ひました。
生まれて初めての接吻を味はったのでした。
優しい夫人の手は、抱擁から上着のボタンを外したり、ズボンのバンドを外してくれていました。
夫人は、私の手や指先を、私の未経験の神秘境へ誘導してくれました。
そして湧き出る泉の中へーーーー。
夫人のつぶらな眼からは涙さえ出させたのです。
それは悲しみの涙では勿論ありません。



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カストリ雑誌①どくとるマンボウ孵化直前

2020年09月19日 | 昭和21年~25年
後年、有名なった作家もカストリ雑誌に執筆している。



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「北杜夫 どくとるマンボウ文学館」  北杜夫著 河出書房新社 2012年発行


僕の怪談 黄山木精

何しろあのくらいゾッと背筋が寒くなった話はなかった。
それは僕が高等学校の寮に入った時の話。

僕の同室者は奇妙な奴だった。
同じ新入生なのだが、入寮して一週間にもなるのにロクスッポ口をきかない。
顔色は青ざめていて、目はドロンとして気味が悪いくらい。
でも二人部屋の同室者でこいつと一緒に居なければならない。

入寮してから半月ばかりたった、ある夜のことだった。
夜中に僕はふと目をさました。
寝静まりシーンとして、窓から月光が流れ込んでいた。

その時、廊下の方でミシッという音がした。
僕は布団の中でちじこまった。なんだろう、今の音は。
僕は布団がめくられるのを感じた。足の方の布団が。
そして冷たい手が僕の足にふれた。
恐怖で叫ぶ声もでなかった。
僕は生きた心地もなかった。

明け方、ようやく恐怖心が解かれてはじめてきた頃、今度は蚤でもいるらしく僕はあっちを掻き、こっちを掻き、とうとうその夜は眠れなかった。
朝が来た。
同室者は「お早う」と言ったあと、こういった。

「俺は昨夜は蚤がいて眠れなかった。
寝巻にいた蚤をつかまえ、君の寝ている布団に蚤をいれてやったんだよ。
本当に済まない・・・」

僕はあきれかえってゲラゲラ笑いだした。
それからはすっかり仲よくなってしまった。
そいつはどうして素敵な快闊な男だった。

(「うきよ」’49年2月号)



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陸軍の軍用馬・軍用犬・軍用鳩

2020年09月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記


日本陸軍①軍馬

日本陸軍の軍馬に対する依存度は大きなものだった。
馬を利用した戦闘兵科は、
騎兵、砲兵、輜重(しちょう)兵に代表される。

後方支援では兵站が中心、食糧・弾薬・資材の運搬に従事した。



帝国陸軍②軍用犬

日本陸軍で利用された軍用動物といえば馬が一番だが、それ以外に軍用犬や軍用鳩が存在した。
犬は人間の感情を理解し、言葉を聞き分ける能力があることから、各国の軍隊で伝令、捜索、警戒、補給といった重要な任務に利用していた。

日本陸軍では軍用犬の任務を、
警備任務の「警戒犬」
伝令任務の「伝令犬」
荷物運搬の「運搬犬」
医療任務の「衛生犬」
の四種に分けて運用した。

犬の種類はシェパード、ドーベルマン、エアーデル・テイアの三種類が中心である。

犬の条件は、
体格が50~70cm
年齢は2~6歳
性別は、極力雌犬
を選ぶようにしている。

日本陸軍では1931年の満州事変以降本格化し、
警戒犬は広範囲の守備地域を持つ人員不足の守備隊などで多用された。
伝令犬、運搬犬ももた通信部隊の補助任務と弾薬補給を行い、負傷者の捜索や救出、医療品輸送の衛生犬も活躍している。

軍用犬の運用は、軍犬兵一名と軍用犬一匹が常時ペアを組んで行動する。


帝国陸軍③軍鳩

鳩は、生まれつきもっている帰巣本能を利用することで、太古の昔より広く通信に用いられてきた。
大正8年急遽、鳩通信班が編成され、シベリアに派遣された。

固定鳩は、
発信する地点まで携行して通信文を持たせ、鳩舎へ帰還させる。通信能力300km。

移動鳩は、
着信地を固定せず、鳩舎を移動する方式で、司令部等の移動に合わせて鳩を鳩を適宜訓練しつつ通信を行う。通信能力40km。

往復鳩は、
生活用の棲息鳩舎と食事用の鳩舎を鳩が往復するのを利用して通信文を持たせる。通信能力30km。

夜鳩
性能優秀な鳩を夜間訓練し、夜間通信専門に用いる。夜鳩(やばと)と呼称した。通信能力5km。


戦争末期は電波妨害を受けないことから多用された。


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真備町「岡田更生館事件」その2・・・「岡山県史」から

2020年09月13日 | 昭和21年~25年
岡山県史に「岡田更生館」の文字はある。
そこで何があった、なかった、とかいう記述はない。
同じ目的の施設である「少年の丘」の自慢話が載っているだけ。

なお、「真備町史」や「新修倉敷市史」に、岡田更生館の記述は一文字もない。

・・・・・・・・・・・・・・

「岡山県史 現代1」より転記


戦災孤児と浮浪者

戦災のため両親を失い、頼るべき親戚や知人のない子供たちや、中国東北部で敗戦を迎え、親を失った子供たちがそれである。
一時は浮浪児の数は約800人と推定された。
浮浪児は岡山市に集中し、殊に人の通行量の多い岡山駅周辺(ヤミ市含む)と残飯の入手が容易な津島の進駐軍兵舎の周囲に多かった。

1946年(昭和21)9月7日の合同新聞記事によれば、
浮浪児は乗客から弁当や残飯を貰ったり、自由市商人(ヤミ市の商人)の手先、売子となっているが、一般に労働を嫌い、
自由奔放な生活を送りつつその日その日の糧を求めている。
中には傷痍軍人が団長となり、孤児を手先に集団生活をしているもの、夜の女と一緒に生活している孤児、
妻が夜の女として働いて夫を養っている者等、生活は区々である。
と記している。

特に進駐軍兵舎付近に出没する者は、軍政部からも指示されて1946年9月15日から1948年12月までの間に43回にわたって一斉強制収容した。
収容された人員は延べ2672人、うち児童は1241人であった。
これについて合同新聞は、
県や市は年少者は各団体に引渡し、或いは本籍地へ送還する等の処置を講じてはいるが、逃走し再び流入し、
また彼らの巣窟も一定していないため、対策も意にまかせぬ実情にある。
と記している。

婦女子の多くは街娼をしており、重い性病をうつされている者もいた。
このような成年浮浪者との接触の中で、孤児たちの多くは堕落していった。

・・・・
この当時の、
戦災児・浮浪児・浮浪者収容施設

少年の丘 300 浮浪児
岡田更生館 300 浮浪者強制収容所
黒崎更生館 200 浮浪成年女子、引揚家族の一部
学童合宿所 100 戦災児
若松園 100 幼少児童
西川寮 100 浮浪者
その他 10~80人 9施設

・・・

少年の丘




「少年の丘」と記載されているのは成徳学校の子供の家のこと。
その頃、この薄幸な子供たちに特別な関心を寄せ、良い環境を与えて、
健やかに育ててやろうと積極的に援助の手をさしのべた幾人かの人がいた。
当時の成徳学校校長の坂本先生もその一人でした。
巷にあふれる戦災孤児たちに”良い環境と教育の場を”との情熱を持って、
岡山県立成徳学校の一隅に、恩賜財団同胞援護会岡山県支部保護児童収容所「小年の丘」を併設されました。
時に昭和20年12月15日。

大人中心の施設「岡田更生館」に一時的に収容された子供たちに”子供には子供の環境を”との配慮から、
昭和22年4月64名の子どもたちが丘の保護児童収容所に移されてきました。
これが「第二子供の家」の発足でした。
9月になって、岡田更生館からさらに100名を超す子供たち移ってきて、第三、第四の子どもの家が生まれました。

これら四つの子どもの家で保護され、教育される子供たちは日に日に増えて、ついに200名を超す大所帯になりました。

「子どもの家」(保護児童収容所)は1948年4月に本校である成徳学校に合併吸収されたが、
県下各地から、この子たちと生きることに情熱を燃やした若者が次々と参加してきたこと、
後援会・母の会の結成されたことは長く記憶されるべきことである。




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縄ない

2020年09月12日 | 暮らし
子供の頃、雨の日に祖父は長屋にいた。
長屋には縄ない機があった。
イスに座って稲わらを供給しながら、足踏みで縄をなっていた。
その縄は畑仕事など、自給用で必要量以外は縄をなうことはなかった。

茂平には、”もとやん”という漁師がいて、海の仕事がない日には家で手編みで藁草履を編んでいた。
小学学校の運動会の前の日には、もとやんの家に行って藁草履を一足買っていた。
藁草履で走れば速く走れると、上級生が言っていた。
他にもう一軒、藁の手仕事で人形か台所用品か忘れたが、作っているおばあさんがいた。


下記は引野の話だが、
福山では「縄ない大会」があり、「全国大会」にも出場していたようだ。



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「梶島山のくらし」 梶島山のくらしを記録する会編  2011年発行




梶島山の大事な副業としての縄ない

稲作・麦作以外に現金収入を手に入れるために、イグサ、レンコンなどさまざまなものを作ったものだ。
手仕事では、麦稈真田を作っていたが、なんといってもこの地域に盛んに取り組まれた手仕事は縄ないだった。

縄ない機ができると、以前の手ないに比べと格段に生産量があがった。
(明治40年三吉町の鳥越式製縄機を発売)
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。

縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。

朝4時ごろから起きて朝のうちに縄ないをし、田んぼの仕事をすませると夜なべ仕事でも縄をなっていた。
がんばれば朝なべと夜なべで一台で二巻き(出荷時の四巻)ぐらい作ることができた。
冬は手袋をはめたら仕事にならない。


藁を他所から買う
自分のところの稲藁だけでは足らんので、
荷馬車で神辺や有田や用之江へ藁を買いに回る人もいた。
牛にひかせて笠岡まで買いにいくこともあった。
縄ないが盛んになると船で笠岡や九州まで行って、沖浦に大量に荷揚げをするようになった。
後には自動車(バタンコ)で運ぶ人も出てきた。
藁を全部家に置くことはできないので、田んぼに「とんど」にしておいて、
いるぶんだけ持って帰り、長屋の天井に投げ上げて保管した。

縄干し
庭に立てた二本の棒の間に縄を下から上へ隙間ないようにぐるぐる回すようにかけて干した。
乾いたころ、ちびた竹箒で縄を擦ってケバを落として仕上げた。

縄の出荷
丸く巻き取り輪にした仕上げの縄を五つひとまとめにして出荷した。
買い取り業者の検査員が、青いインクの判を一等・二等・三等と印を押した。

俵ない大会
縄工芸品生産を推進するために、縄ない競技会の他にも手縄と「こも」を作る競技会も行われた。



全国縄ない大会

全国縄ない大会は戦争中から始まり東京で行われた。
わしは、昭和22年と23年に全国大会に出場した。
22年には3位だったが、23年には優勝できた。
引野村から二人選ばれて深安郡地区及び備後地区の予選会を勝ち進んだ。
東京の後楽園野球場に全国から集まった三府四五県の人と競技した。
大会には自分の縄ない機とわらを貨車に積んで、農協の職員、県の職員、父親と東京へ行った。
優勝の記録は15分で897尺3寸(約272m)だった。



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亀島山地下工場ほか

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
防空壕は各戸に一ヶ所設けられた割には遺構がない。
どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。

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「新編倉敷市史 6近代」

昭和18年春、
県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。
その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。


防空壕

日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された

倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。

そして市民は、白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくしバケツリレーの訓練に度々参加させられた。
元気な男性は戦場に駆り出され、残る女性や老人らが訓練の中心だった。

身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。
標的に藁人形を置き、ルーズベルト大統領らの絵を張って、敵愾心をあおられることもあった。


予科練試験

昭和18年8月1日、中等学校の高学年を対象に募集した甲種飛行予科練習生の募集試験が倉敷商業で行われ、中学生208人が受験した。
翌年秋からはもっと若い14歳以上の少年を少年航空兵として募集、あるいは17~18歳の若者を郷土防衛戦士として兵籍に入れる措置もとられた。




亀島山地下工場




(2008.11.1 倉敷市連島町・亀島山  👆👇)




1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。

「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」
基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。



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満蒙開拓青少年義勇軍

2020年09月11日 | 昭和20年(終戦まで)
満洲での最大の犠牲者が開拓者であったことは、間違いないが
開拓団や義勇軍は、回顧録のほとんどが犠牲になった部分のみを記して、
自らの侵略者の面を書いているのは、みたことがない。

結果的に悲劇になった原因は、
ソ連軍の侵攻、中国暴徒、住民より先に逃げた日本軍・政府役人。
渡満を進めた政府、町村長や校長先生。また、時代を読めなかった開拓者本人にも一因がある。



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「新編倉敷市史 6近代」

(語り)

内原訓練所から深夜の東京駅で下車。
真っ暗な宮城方面へ向かって遥拝。万歳三唱と海ゆかばを合唱。
夜明けとともに大阪近郊に着く。焼土と瓦礫の中にチョロチョロと燃えるものがみえる。放心した状態で此方を見ている人が点在しているのが無惨で、今去ろうとしている自分の国かと思うと、侘しさを感じた。
昭和20年5月18日、朝霧と霜柱の大地へ足を下す。
霜柱が深く、冷えと驚きだった。
自給自足が義勇隊だ。野菜は雑草の中から選ぶ。南瓜の種、大豆やトウモロコシも蒔いた。
・・・・・
日本の敗戦を知らされたが、噂で聞いていてショックは受なくも、日本の軍隊を恨んだ。
ソ連兵が数名、武装解除にきた。
分身以上に大切にしていた銃をたたきつけ山積みして引き渡した。

持ち物の提出を求められ、時計、万年筆などをものめずらしく見ながら全部を没収した。
武装解除後は中国人が何回となく襲撃に来て、支給されたばかりの物資を持ち去った。



敗戦と満蒙開拓団

敗戦を契機に満州での青少年の生活は一変する。
虚構の満州国はあえなく瓦解した。
一般開拓団、青少年義勇軍を問わず、彼らは日本政府と日本軍・関東軍に捨てられ、茫然自失した。
中国農民の土地を奪って入植していたのであり、逃げ出し引揚げる以外に道はなく、悲惨で冷酷な歴史が展開された。

ソ連参戦と同時に関東軍は国境に一部の兵力を残していち早く後退し、開拓農民と青少年を見殺しにしてしまった。
老幼婦女子の開拓団、義勇軍の青少年たちは、無防備の中で完全に取り残され、以後は命からがらの長い逃避行であり、修羅地獄であった。
葫蘆島を出航して内地に帰還した彼らは、多くの肉親・友人を失い、まさに中国侵略の犠牲であった。


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”ぜいたくは敵だ”

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
「新編倉敷市史 6近代」



パーマネント規制
倉敷署は、街頭で”パーマネント狩り”を実施。
倉敷理髪業組合も倉敷署で次の申し合わせをした。
①男子は丸刈り、角刈り、スポーツ刈りで、油類はつけない。
②女子の髪型は県連合指定の時局型七種のどれかとする。
さらに倉敷市では、
男は日傘やマフラーを使用しない。
女は毛皮の襟巻、高級ハンドバック、夏手袋を廃絶し、ジャズのレコードは使用しない--などを
申し合わせた。

政府は「ぜいたくは敵だ」の標語の下、警察などを動員して国民の不満や不安を抑え込んでいった。


昭和18年になると、
”敵性レコード”の一覧表を作成し、それに載るレコード演奏を禁止する一方、大政翼賛会は「海ゆかば」「愛国行進曲」など74遍を「国民の歌曲」に選定し、
国民歌唱運動を始めた。
倉敷市平和町の女子青年団がハリウッド俳優など、敵国人のブロマイドを回収・焼却する運動を始めると、
今の井原市大江地区にも波及した。
倉敷市川西町の遊郭で始まったイギリスやアメリカの人形の回収・焼却は、他地区の接客業にも拡大していった。


昭和19年各地が爆撃を受けた。
空襲の被害を語るのはデマと禁じられた。
警察はメガホン片手に毎日「デマにおびえないように」と訴えて歩いた。
事実を語る自由さえ失っていった。




農業の統制下

岡山県は昭和16年4月、農産物作付制限規制を交付して、果樹・桑・庭木などの新植を抑え、翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付けの制限は昭和18年いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
共同作業統制規制で管理・作業の共同化を進めた。
石油発動機から噴射機まで、使用方法を統制した。

農家は、
米・麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求めた。
食糧増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。



昭和14年12月、白米食が禁止された。
麦で代用。
うどん・そばも代用食励行された。
次第に、
コウリャンなどの雑穀・ジャガイモ・サツマイモ・脱脂大豆などが主食の4割を占めるようになった。


電灯
昭和16年、一戸一灯。
昭和17年、「夜10時以後絶対消灯厳守」、アイロンや電熱器は使用を自粛。映画館と劇場は週一回休日。



金属類がなくなる

昭和14年、各役場の鉄門・鉄柵がが姿を消した。
昭和16年、鉄と銅の第二次回収。寺院の梵鐘、鉄や銅製の釣り灯篭。学校の国旗掲揚台・鉄柵・二宮金次郎や楠木正成の銅像。
酒津配水池の鉄製吊り橋も取り外した。やがて郵便ポストも鉄製のものは回収され、木製や陶製に変えられた。
昭和18年、学童や警察官らの制服のボタン・食器類・鉄道の有休レール・自動車・橋梁・警鐘台・戸のレール・・・・と金属類の根こそぎ回収となった。



野生植物の繊維資源

昭和19年夏から野生植物を繊維資源として採集した。
クワやフジやアベマキの樹皮・野生チョマ(カラムシ)や竹の皮・ススキの穂・イ草の屑など。
フジやススキは目標の6倍集まった。
ススキの穂は航空用胴衣に入れるために特に学童が採取に励んだという。



戦争へ駆り立てられる

昭和13年「国家総動員法」を施行した政府は、国民を戦争へ動員する”総動員体制”を整えていった。
産業の面では軍需産業一辺倒。
中小商店を始めとする中小企業は閉じて、浮いた労働力を軍需産業へ振り向ける政策を押し進めた。
この企業整備で県下の小売店は8946店が廃業。
昭和18年9月、14~40歳の男子が
事務補助・車掌・販売店員・出改札係・理美容師など17の職種で働くのを禁止する。
昭和19年8月、「女子挺身勤労令」を公布した。
働かない若い女性に就職令を出し、それでも従わないと罪にする。若い女性は否応なく挺身隊員となって働かされることになった。


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田舎の映画館主の仕事

2020年09月10日 | 暮らし
町の映画館は昼夜上映し、同じ映画が1週間つづいた。
田舎の映画館は夜だけ上映し、映画は日替わり。

以前、元・映画館主さんと話したら
仕事の大半はポスター張りだったそうだ。
決まった場所にポスターを持っていって、毎日張り替える。
(盆正月のみ2~3日、同じ映画をすることがあった)

フィルムは自転車で運んできてくれ、終わったら自転車に積んで返しに行ったそうだ。




(2016.5.15 福山市船町)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「新修 倉敷市史 6近代」

映画館

映画フィルムの流通は、映画会社が直営館を持ち自社の作品を上映した。
洋画の場合は日本支社の営業部員がフィルムの選定を館主と交渉したり、あるいは館主が東京や大阪へ行き、自分の目で確かめる時代もあった。
現在では情報が早く、地方も都会もなく、電話一本で取り決めることができる。

我が国の映画の配給ルートは日活系と松竹系に分れ、館はいずれかに組み込まれ、両方からは買えない。
各館には序列があり、低位の館は順番待ちで遅くなる。
低位館同士で上映時間をずらし、フィルムを自転車で運ぶなどの苦労もかつてはあった。
第二次世界大戦後、昭和25~40年が映画の全盛期で、県下の常設館は137を数えた。
現在と比較して、映画は大衆娯楽の主流を占めていた。


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