しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

病気・・・伝染病など

2020年09月06日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行



伝染病と衛生行政


幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
医療・衛生にとどまらない深刻な社会問題と化した。

痘瘡については強制種痘が施行されていた。患者に対する療法はなかった。

住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。


コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。

人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。

文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


性病

明治初期に設立された特定疾患を対象とした病院で、伝染病院と並んで梅毒病院が多い。
公娼制度のもと各地にみられた遊郭は、梅毒をはじめとする性病の感染源となった。
病気は人々の生活の中に深く入り込んだ。
事態を変えたのはイギリス公使パークスである。
1867年(慶応3)、開国後の日本に駐在することになったイギリス軍は、
検梅制度の実施を強く求め、これに応じるかたちで遊郭に梅毒病院が設置されるようになった。

梅毒
18世紀後半ファン・スウィーテン液が蘭方医に伝幡し1932年まで引き継がれた。
駆梅療法剤としてサルバルサンが1909年に出た。
ペニシリン等の抗生物質が1952年以降確立された。




脚気

明治期に入ると国民病といわれるほど患者数が増加した。
とりわけ、
産業化につれて都市に集中するようになった貧困層に羅患者が多くみられ、その病因は副食が乏しい白米中心の食生活にあった。
症状が急転し、死に至ることも稀でなかった。
伝染病ととらえ怖れる人も少なくなかった。

1878年、患者は陸軍の1/3にのぼり、軍部内の深刻な問題になった。
陸軍に米麦混食が普及し、その結果、脚気の発生は低下傾向に向かった。

1910年鈴木梅太郎が玄米にオリザニン(ビタミンB1)があろことを発見、第一次大戦後、
恐ろしい伝染病とされていた脚気は、栄養に配慮することによって克服できる病気へと変わった。



結核

江戸時代に労咳などと呼ばれた結核の多くは肺結核であった。
空気感染であったので都市化と共に流行した。
一種の伝染毒であり、書生・奉公人・処女のままの人に多く、看病人・医者・針医・按摩にも伝染する。



女工と結核

結核は20世紀半ばまで、死病として恐れられてきた。
明治期の近代化の過程で、産業の発展と共に「国民病」となった。
衛生学者石原修は、内務省と農商務省から嘱託され1910年工場調査をおこなった。

日本の工場労働者 約930.000人
うち民間工場 約800.000人
うち女性が 約490.000人
うち60%が 繊維工場で20歳未満の女性。

女工
約7割が寄宿舎に入り、一日14~16時間労働 徹夜作業が状態
体重低下、発育不全。
石原は、劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用と不衛生な寝室について記述し、
これらが結核伝染の温床となったことを明らかにした。

問題は工場の外にも広がった。
結核に罹患し解雇された女工は、転々と職業を変えつつ都市で生活するか、帰郷することになる。
いずれの場合も治療を受けられないまま、辛い療養生活を送り、そのまま死に至るものも少なくなかった。
そして、
彼女らが感染源となって農村に結核が蔓延していった。

結核死亡者は増加の一途をたどり、全国主要都市に療養所が設置されたが、療養法が確立されず救貧施設の域を出なかった。
本格的な取り組みは軍隊における結核が深刻化する1930年代まで待たねばならなかった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする