しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

隔離病舎

2020年09月08日 | 暮らし
伝染病は怖かった。
2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。

家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。


(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)

その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「金光町史本編」 金光町 平成15年発行


隔離病舎

伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、
隔離病舎建設を市町村に強く要請した。
「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。

伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。
それは
「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。

一例・昭和3年の患者数
赤痢 19(死亡6)
腸チフス 3
パラチフス 13
計35人。
伝染病関係費合計9191円。
町会計の5%を占め、重い財政負担であった。

隔離病舎の患者治療の要員は、患者が出た時、村の医師、看護婦に看てもらい、その賃金を村議会承認のもと村から支給していた。
その後、隔離病舎は存続したが、衛生思想の発達と医療の進歩で患者が減少し、近隣の市町村が協力していくという広域体制が整い、
昭和42年議会で廃止が決定し、同年備南伝染病隔離病舎組合に加入した。


明治期の保健衛生は伝染病との闘いであった。
ただ神仏に治癒を祈る状態であり、大正時代も同様であった。
抗生物質の薬のない時代、
また薬が高価な時代の伝染病との闘いは
いかに苦しかったか想像に絶するものがある。

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病気・・・戦中・戦後

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


戦時体制下の医療


1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。
凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。

国民の体力低下を如実に示したのは、
徴兵壮丁検査の結果である。
徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、
1930年代には350~400人にまで増加した。
筋骨薄弱者や結核患者が急増。
合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。

危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。
「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。

1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。
1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。



人口政策

明治5年に35.000.000人だった人口は急増し、昭和12年には70.000.000人に達した。
高い出生率と死亡率の上昇で、多産多死型となった。

人々は窮乏生活に耐えながら多くの子どもを産み、何人かを失いつつ、低賃金労働に従事することを余儀なくなれた。

1918年の米騒動は、農業生産の停滞と米の需要増大との矛盾に起因し、人口と食糧の均衡が破綻した。

1922年産児制限運動家のサンガー夫人が来日すると、日本でも産児調整運動が高まりをみせた。
この動きに政府は弾圧を強めた。
国は、人口増加策を維持したまま、海外進出によって人口問題解決する方針を展開していくのである。

1940年代に入ると、軍主導のもとで積極的な人口膨張政策が打ち出された。
アジアへ軍事的進出を企てる戦時国家体制を前提とした人口政策は理念上問題があっただけでなく、医師不足のなか、
保健婦や保健所が中枢機関となった。

生活と健康は悪化の一途をたどった。

軍関係の病院や療養所は着実に増加した。
しかし1944年から米軍による爆撃で病院焼失や破壊が増え、病院数は減少していった。



戦時体制下の健康問題

未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。



戦後の医療

GHQの医療分野はPHWが担当した。
PHWができる1945年、日本では伝染病が急激に増加していた。
占領軍への感染を恐れたPHWは検疫を強化、患者の隔離、薬品の準備などを進めた。

伝染病と並び食糧不足が占領軍を悩ませた。
餓死するものが出るほど危機的状況が進行していた。
占領目的が脅かされることを心配したマッカーサーは、食糧緊急放出と同時にアメリカ政府に食料供給を要請した。
1946年民間団体ララが援助物資が届き、学校給食が開始された。
パンに脱脂粉乳という、当時の児童にはなじみのうすい食事には日本人の栄養摂取パターンを変えるというねらいもこめられていた。

終戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。
応召や徴用により医師や職員が不足したうえ、医薬品や医療機器も払底しており、惨憺たる状況を呈していた。
PHWはまず、軍関係医療機関の厚生省移管であった。
軍の医療機関は国立病院や国立療養所となった。



人口の高齢化と疾病構造

終戦直後に男女とも50歳代であった平均寿命は40年後の1985年(昭60)には男性75才、女性80才までに達し世界の最長寿国となった。
長寿は、人類が太古から希求してきた「夢」であるが、長いきは、必ずしも幸福にむすびつくわけではない。
本人や家族だけでなく、社会も困難な課題に直面することになった。

「人生50年時代」には、個々の家族によって担われいた高齢者のケアが「人生70年時代」にさしかかったこの時期に、社会問題として浮上してきた。


「健康日本21」

成人病と呼ばれていた疾病は、患者本人の節制不足を強調した「生活習慣病」と言い換えられ、野菜摂取量や平均歩数を
掲げながら、政府が主導する国民の「健康管理」が進められた。
2002年には「健康増進法」が制定され、「国民は、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と国民の責務が明記されている。


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病気・・・予防医学など

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


性病予防行政

性病予防行政は、売買春の場を中心に警察によって展開された。
検梅を実施した。
娼妓たちの商品価値の維持と営業保全と目的に検梅を実施した。
遊郭の経営者たちは、娼妓が病気で休むことを避けようと画策したため、医学的な予防対策としては限界があった。

性病はコレラや天然痘のように目に見えるかたちで社会に衝撃を与えるわけはない。
その対策は遅れた。

1910年サルバルサンを発見したことによって、梅毒はようやく治癒可能となった。
この薬は副作用が強く、ペニシリンが登場するまでは治療に困難が伴った。
一般の人が梅毒の苦しみや恐怖から解放されたのは、ペニシリンが普及するようになった戦後のことである。


東京大学医学部付属病院

1877年「貧困にして、研究上須要と認る者を無料入院せしめ、治療を施すもとす」、と記され
医学研究のための患者確保にあったことがわかる。


慈恵医療

1910年代、
「廃兵」(傷痍軍人)の存在が社会問題化となった。
1911年恩賜財団済生会が設立された。
済生会は、天皇からの下賜金と一般寄付金で、貧民救済し、国民を国に有用な人的資源としていくための方法で、慈善ではない。


医師会誕生

医師会の設立は任意とされたが、1910年各地で医師会が形成された。
これを加速させたのは1916年に薬剤師が提起した医薬分業問題である。


乳児死亡と母子保健
大正の頃、生後1年未満の乳児死亡は1.000対150を超え、1918年には188.6を記録した。
さまざまな保健指導機関が登場した。

1930年代に入り、戦時を支えるための健康が求められるという逆説的な状況はさらに進展していくのである。


看護職

1885年(明治18)新島襄が同志社病院の中に看護婦学校を設けた。
次いで東京帝大附属病院、1889年には日本赤十字の前身である博愛社に。
日本赤十字社は、当初から陸軍との関係が深く博愛慈善の欧米の赤十字とは異なった性格をもっていた。
看護婦は軍隊における需要に基づいて増加してゆくことになる。

助産婦(産婆)は、
江戸時代から女性の職業として認められていた。
1899年産婆規則により試験制度が導入され、業務・資格が統一された。

薬売り
庶民の多くは病院や医師による診療とは無縁の生活を送っていた。
人々の健康を支えていたのは、伝統薬である。
日本では古くから各地で薬の行商が行われ、各家庭ではなじみの業者から買い入れた薬を常備していた。
越後の毒消し売りは、
女性が売り子である。
大きな荷物を背負って関東・信州・会津を農家に泊まりながら販売した。
薬事に関する法律が整備されるにつれて行商のスタイルや扱う薬品が変わった。
戦後も1970年代まで続けられた。

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