伝染病は怖かった。
2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。
家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。
(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)
その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「金光町史本編」 金光町 平成15年発行
隔離病舎
伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、
隔離病舎建設を市町村に強く要請した。
「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。
伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。
それは
「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。
一例・昭和3年の患者数
赤痢 19(死亡6)
腸チフス 3
パラチフス 13
計35人。
伝染病関係費合計9191円。
町会計の5%を占め、重い財政負担であった。
隔離病舎の患者治療の要員は、患者が出た時、村の医師、看護婦に看てもらい、その賃金を村議会承認のもと村から支給していた。
その後、隔離病舎は存続したが、衛生思想の発達と医療の進歩で患者が減少し、近隣の市町村が協力していくという広域体制が整い、
昭和42年議会で廃止が決定し、同年備南伝染病隔離病舎組合に加入した。
明治期の保健衛生は伝染病との闘いであった。
ただ神仏に治癒を祈る状態であり、大正時代も同様であった。
抗生物質の薬のない時代、
また薬が高価な時代の伝染病との闘いは
いかに苦しかったか想像に絶するものがある。
2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。
家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。
(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)
その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。
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「金光町史本編」 金光町 平成15年発行
隔離病舎
伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、
隔離病舎建設を市町村に強く要請した。
「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。
伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。
それは
「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。
一例・昭和3年の患者数
赤痢 19(死亡6)
腸チフス 3
パラチフス 13
計35人。
伝染病関係費合計9191円。
町会計の5%を占め、重い財政負担であった。
隔離病舎の患者治療の要員は、患者が出た時、村の医師、看護婦に看てもらい、その賃金を村議会承認のもと村から支給していた。
その後、隔離病舎は存続したが、衛生思想の発達と医療の進歩で患者が減少し、近隣の市町村が協力していくという広域体制が整い、
昭和42年議会で廃止が決定し、同年備南伝染病隔離病舎組合に加入した。
明治期の保健衛生は伝染病との闘いであった。
ただ神仏に治癒を祈る状態であり、大正時代も同様であった。
抗生物質の薬のない時代、
また薬が高価な時代の伝染病との闘いは
いかに苦しかったか想像に絶するものがある。