しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦場の衣食住③陸軍性処理問題

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記



性病の脅威

日本陸軍の構成員は、そのほとんどが若い男子にあったために、性欲の処理は大きな問題であった。

平時には各部隊に駐留している駐屯地に近接している遊興施設への登楼があり、戦地では後方に設置された「慰安所」で対応していた。

ところが性行為という快楽の代償として、性病がつきまとった。
「花柳病」と呼ばれ、軍隊内部では「三等症」という呼び名だった。
性病でも「梅毒」は不治の病として世界的に猛威を振るっていた。

梅毒の治療は1905年に病原菌「スピロヘータ・パリダ」が発見され、日本では注射薬剤の「サンバルサン」が登場した。
軍隊での一番の脅威は、性病の感染による兵力の低下である。
軍指定の慰安所では妓娼の定期診断を行っていたが、登録してない「私娼」の数も圧倒的に多かった。



軍用コンドーム

日本陸軍ではコンドームを性の防護器材としており、「衛生サック」ないし「サック」の名称で呼んでいた。
明治の陸軍での性病予防としては、軍医が兵営で「衛生講話」として、性病の恐ろしさとコンドームを用いた防護手段を口述した。
大正期に入ると、積極的な性予防の手段としてコンドームの使用が奨励され、休日の外出に際しては、外出者全員にコンドームのしない行為を厳禁した。

軍に納入されるコンドームには民間とは別に「突撃一番」という名称がつけられ、一つずつ紙製のパッケージに納められていた。
昭和以降になると、コンドーム以外にも「星秘膏」(せいひこう)という防護クリームが出た。

昭和12年の支那事変以降、兵力の拡大と共に慰安施設の規模も増大するが、それに伴って性病の感染も多発した。

軍では、
コンドームの使用を絶対義務として布告し、
定期健診の強化、
妓娼の局部洗浄機器の設置を奨励している。


なお、戦争の末期にもなると、コンドームは
輸送船沈没時に備えて貴重品の防水や、爆破器材の防水等、本来の使用法とは全く異なるものの必要不可欠な機材として日本陸軍を陰で支えた。




軍自慰器材

性欲処理の最も簡単な方法は「手淫」である。
「こんにゃく」を女陰部に見立てて使用する方法もある。
市井では、「ダッチワイフ」が販売されていた。


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戦場の衣食住②現地自活

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記

現地自活



支那事変では、部隊単位での本格的な「現地自活」が開始される。
戦闘の激化に伴う補給困難から、副食のための各種野菜の畑栽培、
養豚・養鶏、燃料の炭焼き等の本格的な「現地自活」が開始されたのであった。
多くの場合、各師団司令部の経理部の下に「自活隊」を編成して行われた。


野戦献立の一例

野戦での糧食給与は、次のコンセプトで行なわれていた。

・手数がかからず簡単に調理ができるもの。
・分配容易で携行に便利なもの。
・保存性が良いもの。
・追走品および現地で入手容易な材料を使用すること。

これに従い「野戦炊具」で簡単に作られる料理としては、主食では米麦飯以外に五目飯・福神漬飯・缶肉飯・蒸パンなど、
副食では煮豆・佃煮・味噌煮・鉄火味噌・塩昆布・甘露煮・味味噌・唐揚げなど、
漬物としては早漬けなどがある。


背嚢

背嚢に収納する物品は「入組品」と呼ばれ、着替え用の下着、携帯口糧、被服の手入れ具、私物などを入れる。
さらに背嚢の周囲には、飯盒・携帯天幕・毛布・外套(コート)・雨外套(レインコート)・携帯工具等を状況に応じて組み合わせて装着する。
作戦の長期化によって、兵員は携帯口糧を携行することが決められており、それ以外は通常「大行李」より提供を受けるものとされていたが、
実戦では補給困難や強行作戦のために、数日分の糧食を携行することが多くなってきた。

・・・・


陸軍野戦糧食史




昭和13年の「細則中改正」の糧食を品目ごとにみていく。


主食

乾パン
戦闘中の非常食の代表であり、小麦粉を主体として製造されている。
圧搾口糧
圧搾膨張玄米は、玄米と丸麦を圧搾した。

副食

牛肉缶詰
携帯口糧の副食の代名詞。牛肉の大和煮。

兎肉缶詰
兎肉の大和煮。

調味料
・味噌
・粉味噌
・携帯粉味噌
・醤油
・粉醤油
・携帯砂糖
・携帯食塩


加給品
・粉飲料・・粉飲料ラムネほか
・清酒
・関東煮缶詰

祝賀品
・きんとん缶詰
・口取缶詰
・酒

その他
・軍粮精(ぐんりょうせい)・・疲労時の栄養食品。後に「元気食」に改名。
・精力餅・・餅にビタミンやバターを混ぜたもの。


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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行

戦争栄養失調症

1938年春の徐州会戦に参加した兵士の中から、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するというケースが多発した。
軍医らが死亡原因の特定に努めた。
見解は、アメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分れた。
「戦争栄養失調症」という病名に落ち着いた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。

O軍医は「当時私たちが栄養失調と呼んだ病気のなかのあるものは重症脚気であり、又あるものは全身の機能の衰えであった。
激しい労働と、偏った食糧、その絶対量の不足によったのは言うまでもない」

中国南部ではマラリアに感染する兵士も多かった。
キニーネという特効薬が配られてはいたが十分な量ではなかった。
40度を超す発熱が数日間つづき、治ったと思えば一ヶ月で発作や発熱が起きる。
行軍中であれば、高熱を押してでもついてゆかねば、栄養失調とも重なって命を落とす兵もいた。




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