しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

RAA、生贄にされた七万人の娘たち

2020年09月26日 | 昭和20年(戦後)
東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行




RAAの発足

RAAの発足は、迅速を極めた。

8月17日、東久邇宮内閣が生まれた。
8月18日、内務省警保局長から、各庁・府県長官あてに「進駐軍特殊慰安施設について」と題する、秘密無電の準備司令が発せられている。
戦災で半壊状態であった妓楼、淫売屋は、国家権力で息を吹き返した。
あまたの”昭和の唐人お吉”が狩り集められようとしていた。

8月28日、皇居前広場では、特殊慰安敷設協会の設立宣誓式が行われた。
「我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し、以って国体維持に挺身せむとするに他ならざることを、重ねて直言し、以って声明となす」



性を知らない娘たちが集まった

【新日本女性に告ぐ】
「国家緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!
ダンサー及び女事務員募集。年齢18歳以上二十五歳まで。
宿舎・被服・食糧全部支給。
戦災で家を焼かれ、工場を解雇され、今日食べる糧を求めて彷徨っていた若い娘たちにとって、これ以上の殺し文句はなかっただろう。

8月27日までに協会は、1360人を確保した。
化粧らしい化粧をしている者はなく、煤けたモンペ姿で、満足な着物を着たものは一人もなく、十人に九人がハダシという様子であった。
当初、警察は売春の前歴のある商売女を集めることであったが、フタを開けると素人娘がほとんどであった。
玄人女性は「米兵はサイズが巨大で、局部が裂ける」と恐れて敬遠した。
古いモンペを脱いだ娘たちは、東京都特配のメリンス長じゅばん一枚、肌着と腰巻各二枚、伊達巻一本、タオル、洗面器、石鹸、歯ブラシ、歯みがき、浅草紙といったものを支給された。商売道具としてである。

8月27日、慰安婦施設第一号が進駐軍上陸コースにあたる京浜国道に面した、大森小町園が開設され、まず50人の女たちが送り込まれた。


血みどろにされた娘

慰安婦たちが一日に相手とした客・兵隊たちは15人から最高60人にも及んだ。
「40人を相手にすると、局部がジンジンうずくようになり、足腰はしびれ、息も絶えるばかりでした。
終わりころになると、仰向けに寝たままで、次から次へと新規の兵隊を迎えるのですが、疲れ切って足腰を持ち上げる力もない・・・・」
「微熱と痛さが出る。それに食事もノドを通らず、夜も眠れない毎日でした。それに食事と言ってもオシンコとお茶漬けだけ・・・」

肉体サービスの料金はショート10円、オールナイト20円。
これをRAA四分、女性が六分の割合で分けたという。
もっとも、部屋代、食費、衣料代、日用雑貨・化粧品などを差し引かれると、残りはわずかになってしまった。
小遣いの大半は、つまみ食いに消費したともいう。あてがい扶持の食事では、一日に40人もの相手をさせられた身体の消耗には追いつかないのである。

昭和21年2月、都衛生局からGHQにレポートが提出された、
「RAAに属する日本人慰安婦の90%は保菌者で、米海兵隊の一個師団を調べたら70%が保菌者だった」
強制検診もペニシリンも衛生サックも、まったく役に立たなかったのである。

そんな折、アメリカの母親や妻たちから、厳重な抗議の手紙が総司令部に殺到した。
新聞が、写真入りで全米各誌に大々的に報道した。

昭和21年3月2日、総司令部は「日本女性との醜交を自重せよ」と特別命令を発した。
3月10日、米兵の立入を禁止した。

それに先立って、GHQは1月22日、
「日本における公娼制度廃止に関する覚書」を日本政府に手交、24日に公娼制度廃止を命令した。
制度の廃止は単純に、性病の蔓延に頭を悩ませた結果である。


昭和21年3月27日、RAA慰安所は一切封鎖された

わずか7ヶ月の間に身も心もボロボロにされた女たちには、何の補償もなかった。
ビタ一文の”慰労金”すらでなかった。

最盛期には7万人、閉鎖時にも5万5千の慰安婦をかかえていた。

所期の”大目的”「純潔の防波堤」は達成できたのか。
政府がお膳立てを整え、業者の尻をたたいて、もっともらしい声明文まで読み上げさせたのは、この”神州・日本”ただ一つである。
敗戦国日本が、汚れない娘たちを戦勝国兵士のために”性の奴隷”として差し出した、国家売春が存在した過去は消えない。



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岡山県史より

10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。

いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。


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「昭和史9占領下の日本」より

昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。

RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。





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カストリ雑誌⑥証言の宝庫

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「東京闇市興亡記」 猪野健治編 双葉社 1999年発行



証言の宝庫=カストリ雑誌

パンパンと呼ばれていた街娼は焼跡闇市時代の一つの象徴であるが、カストリ雑誌もまた、そこで売られていた。存在そのものが象徴であった。
ではカストリ雑誌とはいったい、どのような雑誌だったのだろう。

密造のインスタント焼酎であるカストリは、一合ならともかく三合も飲むと悪酔いして倒れてしまう。
また、印刷用紙の不足を補うため、センカ紙という、チリ紙を転用した、みるからに悪質な再生紙を使用していた。
つぶれるところが多く、吹けば飛ぶようなもの、という意味もこめられていた。

もともとは大衆雑誌なのである。
そして大衆雑誌には、その時代の世相や風俗、人々の生きざま、意識などが、色濃く影を落とし、刻みこまれている。

敗戦直後の飢餓と廃墟と混乱と悪性インフレの闇市時代は、その日その日を生きることにひたすら死にものぐるいで、人間性、というよりも
欲望がむき出しにされて、生臭く、猥雑で、騒然としており、残酷であり、淫蕩であった。

戦後いちはやく登場した大衆雑誌「りべらる」は、創刊当時は文化総合雑誌といってよい内容であり、読物誌としての色彩を濃くしてからは現在の中間小説誌にあたる。
創刊以来、エログロ雑誌、悪書といわれ非難攻撃の矢面に立たされ、抹殺されようとした。





センカ紙は風船爆弾の落とし子

風船爆弾がつくられなくなってからは、コウゾの漉き機械は、無用の長物となっていた。
しかし、あまりにも印刷用紙が不足していたので代用印刷用紙を作ってみたところ飛ぶように売れた。
みるからに粗悪な悪質紙だったが、出版界の歓迎ぶりはすさまじかった。

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カストリ雑誌⑤「カストリ雑誌研究」

2020年09月26日 | 昭和21年~25年
「カストリ雑誌研究」 山本明著 出版ニュース社 昭和51年発行  




カストリ雑誌とは



闇市に、
エロ雑誌が、
ゴザの露店で売られていた・・・というのは間違っている。

カストリ雑誌が本屋で売られていたのは1946年9月以降。戦後1年2ヶ月後である。
ゴザで売られたのは1949年から53年あたりまで。

カストリ雑誌が、どのような層に、どのような意識で読まれていたかは不可能だが、
1947年で定価30円、40円というのは高い価格であった。


カストリ雑誌と呼ばれるものは、戦時中は抑圧されていた性をとりあつかっていることが特徴である。
外観は、粗悪なセンカ紙。
見るからに安っぽい表紙と、写真・さし絵ともに、女性の裸体、ぬれ場が大部分。・・・つまり、さし絵をみればわかる。

『りべらる』
カストリ雑誌というと、すぐに『りべらる』を想起する人が多いけれども、『りべらる』は文芸娯楽誌であって類を異にする。
『りべらる』は菊池寛命名で、創刊号には文部大臣はじめ、菊池寛、船橋聖一、武者小路実篤、亀井勝一郎、大仏次郎などが名をつらね、
モーパッサンの小説が掲載され、一種のモダニズムを売り物にした雑誌だ。

『猟奇』
『猟奇』は、性を正面からとりあげた雑誌がでたというだけで、大変なセンセーションを巻き起こした。
「H大佐夫人」は、いまからみると、何の問題もないが、「具体的な描写と淫らな挿絵と相まって猥褻を表現した」ということになる。









キス
カストリ雑誌の読物、エッセイ、小説からいくつかの共通テーマを抽出することができる。
その、もっとも多いのがキスである。
1947年ごろ、キスについて論争が展開されていた。
否定論は、
①日本の伝統にない。
②接吻は非衛生で忌むべき。
③淳風美俗に反する。
これに対する反論がカストリ雑誌をにぎわす。
封建制がキスを薄暗い閨房に押し込めていた。
民主主義ではキスは公然と行われる、というのである。

では、キスはどうしてするのか
『リーベ』の巻頭論文「接吻について」は、
「ただ口と口をつければいいというものではない」と大見得をきる。
カストリ雑誌は地方でも床屋に置かれ、学校にも持ち込まれた。
一冊の雑誌はボロボロになるまで回し読みされた。
キスはこういう風にする、ということがカストリ雑誌にしか掲載されなかった。









処女に性欲はあるか
「処女に性欲はあるか、女性にも性欲はある」というのがカストリ雑誌の狙いである。
当時正統派のジャーナリズムがとりあげなかった性風俗が満載された。
カストリ雑誌は日本人の貧弱なセックス・イメージを広げる役割をはたした。
接吻には舌を使うものだという、今から考えると噴飯ものの記事が、当時では青少年によって、おどろきの中で読まれたのであり、
処女にも性欲があり、オナニーもするという論文が、彼らの女性観を変えていった。
快楽としての性といえば遊郭しか連想できなかった人々が、日常性の中に性をもちこむようになった。

1949年『夫婦生活』が創刊され、性は夫婦という枠の中におしこめられることになった。
『夫婦生活』は性を管理社会にくみこむ役割を果たすことになった。
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