しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

軍事施設の転換利用

2020年09月01日 | 昭和21年~25年
施設の転換利用といえば、
明治の初め、日本全国のお城はすべてお殿様から国家(陸軍)の所有となった。
・・・戦目的なので転換とはいえないかな。
昭和20年8月の敗戦により、軍隊は消滅したので、自動的に転換利用となった。
昭和40年代になると紡績工場閉鎖・売却による、大型ショッピングセンターの開店。
これらが転換利用で目立つ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
「岡山県史 現代Ⅰ」 岡山県 昭和59年発行


軍事施設の転換利用

津島の兵舎と練兵場は連合軍に接収され、兵舎は進駐軍の営舎。
練兵場は飛行場に使用された。
1947年(昭和22)3月に連合軍は呉に引き揚げた。

兵舎
第六高等学校は校舎焼失していたが、兵舎の一部(旧兵器支廠)を借りて授業を続けた。
それが足掛かりとなり、1949年に岡山大学が設立の際、旧兵舎の全部をキャンパスにすることができた。


練兵場
荒地となり、住民が食糧難のため畑にしていた。
県警が西南部に警察学校、
西南隅に、保健所、衛生研究所、身障者指導所などが設けられた。
国道53号に沿う東、北側の33ヘクタールは、
岡山県が津島運動公園とすることにした。
1949年から失業対策事業として建設が進められた。

(元・練兵場 2019.11.9)


蒜山原・日本原
食料事情の緩和を図る。開墾面積2200ヘクタール、入植農家199戸。


三菱重工水島航空機製作所

三菱は経営困難のため、不要となった土地・住宅を大蔵省に物納。
海軍省の敷地・飛行場も大蔵省所管となった。
1950年以降、順次、県・水島塩業・新三菱重工などに払い下げられた。
県の土地は、次々と企業に譲渡されて、水島臨海工業地帯成形の基礎となった。
飛行場跡地は三菱石油の用地になっている。


岡山陸軍病院
国立岡山病院となり、その後病院は南方に移転。
1962年以降は岡山県立短大が使用している。


海軍衣料廠
一時岡山県庁・議事堂が移転したが、
県立岡山工業高校が1959年に入り、現在に至っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする