マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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上山田のお大師さんの日

2016年02月07日 10時00分27秒 | 天理市へ
天理市の山田町。

6月夏至に田の虫送り行事をしている上、中、下山田では地域ごとにお大師さんの行事がある。

本来なら21日であるが、どの地区とも村人が集まりやすい近い日曜日に移った。

中山田は村の大師講の人たちが蔵輪寺で寄り合っていた。

御供は山積みだった。

伺った住職の話しによれば、本堂で午前中に法要を済ませたという。

それから数時間後の昼12時。

弁当を抱えた講中が寺務所に集まってくる。

会食した後に抽選会をすると話していた。

下山田は都合で昨日に行われたそうだ。

中山田、下山田は大師講が寄り合う講の行事であるが、上山田は村行事。

総代など村役が観音堂に安置しているお大師さんに御供餅を供えていたそうだ。

着いた時間は御供撒きが始まろうとしていた。

境内に敷いたブルーシートに座る村人たち。

八阪神社拝殿前より御供餅を撒いていた。

八阪神社は上山田の鎮守さん。

云い伝えによればかつてはこの地ではなく、小字宮の谷に在ったそうだ。

時代は慶安年間(1648~)の分村に伴って、当地に移転したそうだ。

御供撒きを終えたら演芸会に移る。

芸人は元吉本新喜劇で活躍していた谷しげるさん。

12年ぶりの再会に餅撒き役もしていた。

昭和15年生まれの谷さんはいたってお元気。

装備したマイクもいらないぐらいに声が大きい。



始めに漢字クイズ。

軽妙な口調で村人たちを笑わせる。

谷しげるさんの演芸にロープ手品もあるがメインは猿回し。

「爆笑猿回し 猿劇学猿」の看板というか階段がある。

猿回しも兼ねている道具である。

「あーいそがし・・」で有名だった谷さんが吉本新喜劇を辞めたのは32年前。

「東京へ出て若山富三郎門下生に入れてもらったが、本人は亡くなった。

弟の勝新太郎の門も叩いた。

玉緒さんの許しを得て入門したが・・亡くなった。

次の門下はさてどこに・・。

思案されて山城新伍門下になったが・・・亡くなったら、猿が来た。

そういうわけで、今では猿回し」と笑いながら打ち明ける。

猿は2代目。

ぷいと横を向く。



「なかなかいうこときいてくれん」というのも芸のうちだ。

十字にした輪潜りは「なかなかしてくれん」と云ってこぼすが、そこは演技派男優の猿。

やるときはやる。



ひょいと潜り抜ける猿の妙技に拍手喝采。



階段に登っても演技を披露する。

もう少し間を広げた階段に「ぷい」とする演技派の猿。

ぷいぷいする猿ではあるが、やるときはやる。



平行棒であっても軽々とこなす。

「あんたできるんや。まいった」と云って指をさす谷さんに笑いがどっと広がる。

猿回しのラストは高高棒。



するすると登って「やったね」というような顔つき。

誇らしげな猿の表情にパチパチ拍手。



もっと高い処でもできるやろ、と棒を2倍に伸ばす。

するすると登る猿の演技にこれまた拍手喝采。

「これ見たか、どーだい」というような顔で遠くを眺める猿芸。



満開だったヤマザクラが風に煽られて花びらを散らす。

「桜吹雪が目に入らねーかい」と云ったのは遠山の金さんだが、これは猿。

もろ肌は最初から見せていた。

御供撒きはおよそ1分間。

演芸は50分間。

笑いすぎてお腹が減った村人たちは本尊十一面観音立像を安置する観音堂で食べる。

お堂に登って食べる人もおれば境内にも、だ。



家族揃って食べる会食はパック詰め料理もあるが、大半は家で作った料理だ。

普段の上山田では見られない光景である。

この日は快晴。

青空が眩しい。

上山田付近には西念寺や薬師堂もあるが、観音堂は「惣堂」だったと村在住の郷土史家(大和高原文化の会代表)が上山田の歴史文化を話してくれる。

史家は南に向かって話したカンジョバ。

川がある方角だ。

昔のことだが、ここでカンジョウナワを掛けていた。

大正時代の早い段階で廃れたという。

カンジョバとは別にカンジリと呼ぶ小字がある。

入口と出口にカンジョウナワを掛けていたという。

もしかとすれば、であるが、二か所のカンジョナワは垣内単位で行われていたと考えられるのだ。

40戸からなる上山田の垣内は小さく分けた6垣内。

東の1組と西の2組からなる東垣内に八阪神社や観音堂がある中垣内、上出垣内、南垣内、薬師堂があったとされる西垣内である。

西垣内は田原の里へ抜ける峠の東側。

田の虫送りの出発地である。

村の記録は残っていないが観音堂の本堂で「オコナイ」をしていた。

観音堂は真言宗だったというだけに「オコナイ」行事との関連性が伺える宗派である。

ちなみにカンジョバ(充てる漢字は勧請場であろう)よりさらに南下した地に山がある。

山は堀切があるお城だった。

城主は古市氏に属した山田氏らしい。

隣村の井之市は筒井家に属する福住氏。

目と鼻の先で対立する両氏であった。

レンゾとも思える会食を済ませた次は楽しみのビンゴゲーム。



子供が抱えた当たりの賞品は重たくて動けないほどだ。

村総代の奥さんがお接待してくれた「ヨゴミダンゴ」は自家製でなく和菓子屋製。



小皿に摘んだ綺麗な葉を選んだツバキの葉。

ツバキであればダンゴはくっつかない。

隣におられた婦人はかつてバランの葉で自家製のヨゴミダンゴを乗せていたという。

「レンゾ」でもあったお大師さんの日はおよそ5時間。

滞在中に様々な上山田の様相を伝えてくださる。

60歳のOさんは八阪神社社殿について話す。

現在の社殿の屋根は銅板であるが、かつては檜皮葺きだった。

今から20数年前、Oさんが40歳のころである。

村の大工である棟梁が屋根の張替をした。

そのときに新しく拝殿を建てた。

40年以上も前は拝殿もなく場で神さんを拝んでいた。

手水鉢がある場所は座小屋だった。

そこから拝み見ていたようだ。

現在は拝殿と同様に瓦葺きである観音堂は茅葺だった。

そのころに西垣内にある薬師堂を建て替えたという。

また、元区長のTさんや現区長のNさん・副区長のSさんらとは上山田で表現される言葉談義に話題が広がる。

「オンゴロ」はモグラ。

モグラは死体でも生体でも区長へ持ち込めば奨励金が貰える。

以前はモグラの爪でよかったが今では丸々の一匹体である。

「ナガタン」を知っているかという元区長。

それは包丁の呼び名だそうだ。

面白いのが寝床を「ネトコロ」だ。

「ネドコ」でなく「ネルトコロ」が訛ったのであろうか。

「タツアイ」は想像もできない本屋と離れをいう呼び名だ。

「アワイサ」は間。

先だって大宇陀平尾でも聞いた「アワイサ」は「間(空間)」を表現する。

話題が尽きない上山田の滞在時間は5時間を越えていた。

そろそろ仕舞いといって自由解散する。



家から持ってきた座布団は持ち帰り。

家紋を染めた風呂敷包は料理を詰めていたお重を入れていた。

解散されたら本堂を掃除する。

お堂に上がらせてもらって拝見した上山田のお大師さん座像後方に木札があった。



「安政六年(1859)八月云々 奉修柴燈・・・」の文字が見える。

その横にも木札があった。

「大和國山辺郡上山田村鎮守氏子安(寧)・・・」であろう。



また、大きな武者絵と相撲番付表の絵馬もあった。

武者絵に「弘化□(1844~)八月 御霊□・・」。



相撲番付は明治二十四年(1891)八月、二十五年九月に寄進奉納された。

当時は相撲大会があった上山田。

名字から爺さん、曾祖父の名があると指をさしていた。

(H27. 4.19 EOS40D撮影)