4月1日に大和神社のちゃんちゃん祭を終えた天理市長柄の兄・弟頭屋は役目をようやく終えることになったこの日。
一年間も分霊を自宅で祀っていたヤカタ(長柄ではヤシロと呼ぶ)を受け頭屋に引き継ぐ。
ヤシロ(仮社祠)は神さんを祀っているので写してはならぬという約束で取材にあたる。
頭屋受けの儀式をされる日は決まっていた。
11月の25日であったが、今では20日辺りに近い土曜日か日曜日にされている。
大和神社郷中となる旧村は9カ大字。
長柄町をはじめに岸田町、成願寺町、萱生町、三昧田町、新泉町、中山町、兵庫町、佐保庄町がある。
いずれの町内ともちゃんちゃん祭より一週間前、大和神社に参って宮入りをする。
授かった御幣が大和神社の分霊とされる。
頭屋家では門神さんと呼ばれるヤカタを置いて御幣を祀る。
ちゃんちゃん祭に出仕されて神さんは大和神社に戻っていく。
およそ一週間の住まいになるヤカタであるが、長柄町はそうでなく一年間なのである。
長柄町以外の大字では門飾りと呼んでいるヤカタは玄関前にある。
長柄町ではヤシロを設けることなく御幣を挿すだけで、ヤシロは外に出さず、屋内で祀っているのだ。
大和神社の御幣は戻されたが、祀っているヤシロは大和神社へ戻ることなく、頭屋家でその後も祀られていた。
長柄町の氏神さんは白堤(しらとり)神社であるが、分霊を受けることもないと云う。
兄・弟頭屋、それぞれの家で一年間祀られたヤシロは白堤神社に戻ることなく、次の兄・弟頭屋に受け渡されるのである。
頭屋家から頭屋家へ渡っていくヤシロ。
このような仕組みは奈良市大柳生の廻り明神と同じ形式だ。
長柄町は西、北、中に出垣内の四垣内。
それぞれの地区に大神宮の石塔がある。
西垣内は家屋の外庭にあったが、その他の垣内は仕切りを設けた場である。
それぞれの形態が異なる丸塔、四角塔などだ。
公民館前に建之されていた中垣内の大神宮塔には「慶應三年(1867)歳□丁卯十二月吉日」とある。
いずれもそれぞれの垣内単位で行われている行事は7月16日。
県内各地で見られるダイジングサンの行事である。
その日は御供を奉じるそうだ。
前述した白堤神社も立ち寄った。
神社の旧社地は現在地から南方の西堤上であつたが、戦時中の昭和19年に飛行場を建設することによって白鳥池を埋め立てて、小学校々庭に遷された。
その後の昭和21年10月に現在地に遷ったそうだ。
境内に建之された数々の燈籠。
そのうちの一つに「白鳥大明神灯 元禄二年(1689)」の刻印が見られる。
江戸時代は白鳥大明神と呼ばれていた白堤神社である。
境内参道に「冨士大権現」を記銘した燈籠もある。
「講中」とあることから長柄町に富士講があったという証しである。
16時ころ、兄頭屋は自宅で祀っていたヤシロを車に積んで公民館に移した。
それより前の時間帯は弟頭屋がヤシロを移していた。
両頭屋はヤシロだけでなく、講箱、トーニンゴ(唐人児)の装束・烏帽子などを収めた箱も運ばれる。
兄頭屋が預かっていた昭和22年11月に新調された講箱には「長柄 大和講祭器 兄當家」と墨書していた。
今でこそ「頭屋」の漢字を充てているが、かつては「當家」であったのだ。
もう一つの祭器は木製の行燈。
ヤシロを受けた頭屋は火を点けた行燈の灯りで足元を照らしたそうだ。
この夜の行事名は「ダンゴ盛り」。
名前の通りにダンゴを盛るのではなく、ダンゴ汁に入れるダンゴを弟頭屋(オトヤ)が調達する。
この年の弟頭屋は、餅屋で商売していたこともあって、上新粉を水で練って作ったダンゴを持ってきた。
「旦那さんは丸めるのが上手いんや」と云う奥さんの褒め言葉。
手作りのダンゴは一つ一つ味わいのある手こねの丸型。
ヤシロを上座に据えてテーブルを広げる。
ヨバレに来られる人たちの人数分のパック詰め料理膳も配っておく。
定刻時間に集まってきた関係者は大和神社の年預(ねんにょ)総代と神社総代に区長。
ちゃんちゃん祭に出仕したトーニンゴ(唐人児)。
お稚児さんとも呼ばれる二人の子供はいずれも借り子。
親がついて参会である。
ちゃんちゃん祭のお渡りに出仕されて人足の人たちも参会する。
一同が揃ったところで始まった神事。
葉付きニンジン、ダイコン、キュウリ、シイタケ、スルメ、コーヤドーフ、巻きコンブに洗い米、シオなどの神饌を両頭屋のヤシロに供える。
御酒口を立て、燭台のローソクに火を灯す。
ヤシロ前に座った年預総代が二礼、二拍手、一礼する。脇についたトーニンゴも見習って頭を下げる。
長柄の神さんに向かって一同も恭しく頭を下げる。
神事の作法はそれだけである。
年預総代の挨拶は頭屋受け並びに「ダンゴ盛り」の意味合いを話される。
次は下座についた弟頭屋がお礼を述べる。
前年のダンゴ盛り行事の日より一年間も神さんを祀ってきた兄・弟の両頭屋。
大切な長柄の神さんを預かっていた。
毎朝供える都度、手を合わしていた。
預かっている以上、何らかのことが生じてはならない。
緊張する一年間であった。
この日を迎えてほっとしたと口上される。
区長の乾杯で直会が始まった。
お酒を注ぎ回るのは兄・弟頭屋の二人だ。
しばらくすれば弟頭屋がダンゴ汁の椀を席に配っていく。
今年収穫された新米。
それで作ったダンゴを汁椀でよばれる。
ちゃんちゃん祭で豊作を祈願した。
豊かに実ったお米は神さんとともに慶び合い、収穫を祝ってちゃんちゃん祭を締めくくる儀式である「ダンゴ盛り」の行事。
ちゃんちゃん祭に出仕されていた渡御人たちをもてなし慰労する頭屋ふるまいの饗応の場でもある。
公民館ができるまでは、ダンゴ盛りの行事は弟頭屋の家で行われていた。
場は替ったが、ふるまいも摂待も費用負担もすべてが弟頭屋の役目。
今ではパック詰め料理の膳になったが、かつてはカヤクゴハンにダンゴ汁だけであった。
行事名は「ダンゴ盛り」であるが、ダンゴを盛ることなく配るダンゴ汁椀はすまし汁だ。
「ダンゴ盛り」が始まってから1時間半後。
受け頭屋になる兄・弟頭屋の二人は白装束姿で公民館下に待っている。
決められた時間にやってくるのだ。
長柄町は280戸の集落。
新町は含まない旧村としては規模が大きい村であるが、すべての家が頭屋を受けるわけではなくおよそ20戸。
9年間で一巡する。
受け頭屋が決まったのは3月に行われる御幣挟みの日だ。
御幣ができあがってから行われるくじ引き。
アミダクジで選ばれるのであるが、三方に乗せたクジを引くのはトーニンゴ。
箸で摘まんで引くという。
その方法も特殊であって、兄頭屋にあたるトーニンゴが引き当てるのは弟頭屋。
弟トーニンゴが引くのは兄頭屋の交互が作法をするらしい。
直会に居られた渡御人は手分けして兄・弟のヤシロ・道具類・神饌を運んで階段を下った。
一同が揃ってヤシロは兄・弟の受け頭屋に手渡すが、決して言葉を発してはならない無言の作法である。
兄頭屋のヤシロは受け兄頭屋。
弟頭屋のヤシロは受け弟頭屋である。
渡御人はそれぞれの講箱やトーニンゴの衣装箱を抱えている。
そのまま無言で両頭屋家に向かう一行は分かれていく。
暗闇の集落を無言で歩く人たち。
ついていくのもご法度である。
そういえば年預総代が挨拶の際に述べた神さん。
大和神社の分霊(わけみたま)であると云っていた。
撮ることはもってのほかとご指示があったことに納得する。
(H25.11.23 EOS40D撮影)
一年間も分霊を自宅で祀っていたヤカタ(長柄ではヤシロと呼ぶ)を受け頭屋に引き継ぐ。
ヤシロ(仮社祠)は神さんを祀っているので写してはならぬという約束で取材にあたる。
頭屋受けの儀式をされる日は決まっていた。
11月の25日であったが、今では20日辺りに近い土曜日か日曜日にされている。
大和神社郷中となる旧村は9カ大字。
長柄町をはじめに岸田町、成願寺町、萱生町、三昧田町、新泉町、中山町、兵庫町、佐保庄町がある。
いずれの町内ともちゃんちゃん祭より一週間前、大和神社に参って宮入りをする。
授かった御幣が大和神社の分霊とされる。
頭屋家では門神さんと呼ばれるヤカタを置いて御幣を祀る。
ちゃんちゃん祭に出仕されて神さんは大和神社に戻っていく。
およそ一週間の住まいになるヤカタであるが、長柄町はそうでなく一年間なのである。
長柄町以外の大字では門飾りと呼んでいるヤカタは玄関前にある。
長柄町ではヤシロを設けることなく御幣を挿すだけで、ヤシロは外に出さず、屋内で祀っているのだ。
大和神社の御幣は戻されたが、祀っているヤシロは大和神社へ戻ることなく、頭屋家でその後も祀られていた。
長柄町の氏神さんは白堤(しらとり)神社であるが、分霊を受けることもないと云う。
兄・弟頭屋、それぞれの家で一年間祀られたヤシロは白堤神社に戻ることなく、次の兄・弟頭屋に受け渡されるのである。
頭屋家から頭屋家へ渡っていくヤシロ。
このような仕組みは奈良市大柳生の廻り明神と同じ形式だ。
長柄町は西、北、中に出垣内の四垣内。
それぞれの地区に大神宮の石塔がある。
西垣内は家屋の外庭にあったが、その他の垣内は仕切りを設けた場である。
それぞれの形態が異なる丸塔、四角塔などだ。
公民館前に建之されていた中垣内の大神宮塔には「慶應三年(1867)歳□丁卯十二月吉日」とある。
いずれもそれぞれの垣内単位で行われている行事は7月16日。
県内各地で見られるダイジングサンの行事である。
その日は御供を奉じるそうだ。
前述した白堤神社も立ち寄った。
神社の旧社地は現在地から南方の西堤上であつたが、戦時中の昭和19年に飛行場を建設することによって白鳥池を埋め立てて、小学校々庭に遷された。
その後の昭和21年10月に現在地に遷ったそうだ。
境内に建之された数々の燈籠。
そのうちの一つに「白鳥大明神灯 元禄二年(1689)」の刻印が見られる。
江戸時代は白鳥大明神と呼ばれていた白堤神社である。
境内参道に「冨士大権現」を記銘した燈籠もある。
「講中」とあることから長柄町に富士講があったという証しである。
16時ころ、兄頭屋は自宅で祀っていたヤシロを車に積んで公民館に移した。
それより前の時間帯は弟頭屋がヤシロを移していた。
両頭屋はヤシロだけでなく、講箱、トーニンゴ(唐人児)の装束・烏帽子などを収めた箱も運ばれる。
兄頭屋が預かっていた昭和22年11月に新調された講箱には「長柄 大和講祭器 兄當家」と墨書していた。
今でこそ「頭屋」の漢字を充てているが、かつては「當家」であったのだ。
もう一つの祭器は木製の行燈。
ヤシロを受けた頭屋は火を点けた行燈の灯りで足元を照らしたそうだ。
この夜の行事名は「ダンゴ盛り」。
名前の通りにダンゴを盛るのではなく、ダンゴ汁に入れるダンゴを弟頭屋(オトヤ)が調達する。
この年の弟頭屋は、餅屋で商売していたこともあって、上新粉を水で練って作ったダンゴを持ってきた。
「旦那さんは丸めるのが上手いんや」と云う奥さんの褒め言葉。
手作りのダンゴは一つ一つ味わいのある手こねの丸型。
ヤシロを上座に据えてテーブルを広げる。
ヨバレに来られる人たちの人数分のパック詰め料理膳も配っておく。
定刻時間に集まってきた関係者は大和神社の年預(ねんにょ)総代と神社総代に区長。
ちゃんちゃん祭に出仕したトーニンゴ(唐人児)。
お稚児さんとも呼ばれる二人の子供はいずれも借り子。
親がついて参会である。
ちゃんちゃん祭のお渡りに出仕されて人足の人たちも参会する。
一同が揃ったところで始まった神事。
葉付きニンジン、ダイコン、キュウリ、シイタケ、スルメ、コーヤドーフ、巻きコンブに洗い米、シオなどの神饌を両頭屋のヤシロに供える。
御酒口を立て、燭台のローソクに火を灯す。
ヤシロ前に座った年預総代が二礼、二拍手、一礼する。脇についたトーニンゴも見習って頭を下げる。
長柄の神さんに向かって一同も恭しく頭を下げる。
神事の作法はそれだけである。
年預総代の挨拶は頭屋受け並びに「ダンゴ盛り」の意味合いを話される。
次は下座についた弟頭屋がお礼を述べる。
前年のダンゴ盛り行事の日より一年間も神さんを祀ってきた兄・弟の両頭屋。
大切な長柄の神さんを預かっていた。
毎朝供える都度、手を合わしていた。
預かっている以上、何らかのことが生じてはならない。
緊張する一年間であった。
この日を迎えてほっとしたと口上される。
区長の乾杯で直会が始まった。
お酒を注ぎ回るのは兄・弟頭屋の二人だ。
しばらくすれば弟頭屋がダンゴ汁の椀を席に配っていく。
今年収穫された新米。
それで作ったダンゴを汁椀でよばれる。
ちゃんちゃん祭で豊作を祈願した。
豊かに実ったお米は神さんとともに慶び合い、収穫を祝ってちゃんちゃん祭を締めくくる儀式である「ダンゴ盛り」の行事。
ちゃんちゃん祭に出仕されていた渡御人たちをもてなし慰労する頭屋ふるまいの饗応の場でもある。
公民館ができるまでは、ダンゴ盛りの行事は弟頭屋の家で行われていた。
場は替ったが、ふるまいも摂待も費用負担もすべてが弟頭屋の役目。
今ではパック詰め料理の膳になったが、かつてはカヤクゴハンにダンゴ汁だけであった。
行事名は「ダンゴ盛り」であるが、ダンゴを盛ることなく配るダンゴ汁椀はすまし汁だ。
「ダンゴ盛り」が始まってから1時間半後。
受け頭屋になる兄・弟頭屋の二人は白装束姿で公民館下に待っている。
決められた時間にやってくるのだ。
長柄町は280戸の集落。
新町は含まない旧村としては規模が大きい村であるが、すべての家が頭屋を受けるわけではなくおよそ20戸。
9年間で一巡する。
受け頭屋が決まったのは3月に行われる御幣挟みの日だ。
御幣ができあがってから行われるくじ引き。
アミダクジで選ばれるのであるが、三方に乗せたクジを引くのはトーニンゴ。
箸で摘まんで引くという。
その方法も特殊であって、兄頭屋にあたるトーニンゴが引き当てるのは弟頭屋。
弟トーニンゴが引くのは兄頭屋の交互が作法をするらしい。
直会に居られた渡御人は手分けして兄・弟のヤシロ・道具類・神饌を運んで階段を下った。
一同が揃ってヤシロは兄・弟の受け頭屋に手渡すが、決して言葉を発してはならない無言の作法である。
兄頭屋のヤシロは受け兄頭屋。
弟頭屋のヤシロは受け弟頭屋である。
渡御人はそれぞれの講箱やトーニンゴの衣装箱を抱えている。
そのまま無言で両頭屋家に向かう一行は分かれていく。
暗闇の集落を無言で歩く人たち。
ついていくのもご法度である。
そういえば年預総代が挨拶の際に述べた神さん。
大和神社の分霊(わけみたま)であると云っていた。
撮ることはもってのほかとご指示があったことに納得する。
(H25.11.23 EOS40D撮影)