マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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小林町の牛話

2013年02月26日 09時06分17秒 | 民俗を聴く
かつて牛を飼っていた小林町のH家。

当時を思い出すように話しだす。

その様子を知りたいと申し出ていた県立民俗博物館の学芸員に伝えたところ聞き取りの場が設けられた。

「あんたも来てほしい」と願われて同席した。

1.飼っていた牛は貸し借りをしていた。

相手先は宇陀市の榛原や都祁村の白石だった。

牛は歩いて連れて行く。

裸足では痛かろうと編んだ草履を履かせた。

爪を剥がすから2足要る。

牛は四ツ足の動物やから8枚編んだという。

4枚は道中で傷む可能性があるから予備に持っていった。

榛原や白石は東の山間。

山のほうでは先に働いていた牛が居る。

離し飼いしていた牛は放牧された土地の草を食べていた。

宇陀榛原が出里のSさんはその地を国中(くんなか)と呼んでいた。

逆に小林町などの盆地部を平坦(へいたん)と呼んでいた。

平坦を「ヒロミ」と呼んでいたのはHさんだ。

平坦から見れば山間は「ヤマガ」と云う。

「ヤマガ」はおそらく山側であろう。

牛が平坦に居るのは5月から6月にかけた2ヶ月間。

「しもうたら山へ送っていく」と話す。

牛小屋は「ウマヤ」と呼んでいた。

牛は親戚筋の家と共用で1カ月ずつ交替する。

これを「預ける」という。

その時期は「ムギをしてた」そうだ。

牛の糞を素手で掴んだ。

これを「クマシ」と云う。

ムギを撒く。

田んぼで小水するおしっこは桶に入れて蓄えた。

当時は木の桶の「肥えたんご」があった。

聞いていた私にとっても懐かしい響きである。

肥えたんごは牛がおらんようになって潰した。

肥えたんごにムギを入れたら温かくなる。

5月になれば白石は田植えをしていた。

5月初旬のことであった。

藁は牛の餌にしていたと話す。

2.カラスキは手綱(たづな)でもって「チャイ チャイ」と云いながら引っぱった。

左に向かわせるときに使う言葉だ。

右に向かわせるときは「チャイ チャイ」はなくて手綱を引っぱるだけだと云う。

牛は「ドウド ドウド」で停まる。

「シットレ」が行けという合図だ。

手綱で牛を叩けば再び「歩きだしよる」がムチは使ったことがないと云う。

10歳から20歳ぐらいの牛はよく働く。

若い牛はいうことを利かんと云う。

黒牛はいうことをよく利く優しい雌牛。

チョウセンウシと呼んでいた雄の赤牛は気性が荒いので怖かったそうだ。

発情期は特に気が荒いから働き牛にはならなかった。

百姓屋の牛は長生きする。

牛が死んだとこを見たことがないという。

牛の場は小林町の北部側にあった。

モウモウと鳴いていた。

博労が持って帰ってくる若い小さな牛と交換した。

痩せた牛はお金はいらん、働く牛は金がいる。

博労が競りで落とした牛を連れてきたようだ。


3.宇陀の榛原には赤牛がいたというSさん。

粘り強い牛だったようだ。

伐採した材木を曳く牛車は繋いでいたロープを外したらさっさと家に戻ったという。

牛のハナギは子牛のときに付ける。

焼きヒバシで穴を開けたと思っていたがそうではなかった。

Sさんの姪御さんの嫁ぎ先は稲戸のⅠ家。

昨年までは牛を飼っていた。

生まれた一年牛のときに千枚通しのような道具で穴を開けたそうだ。

ハナギは割れることもある。

柔らかいヤナギの木だった。

ヒノキの曲がった木でもよかった。

道具で穴を開けたら血がじゅるじゅる出たそうだ。

舌でペロペロしてたから可哀そうだと思った。

牛は涙を流すことがある。

涙を流せば作業をしない牛。

牛の顔を見れば健康状態がわかるそうだ。

4.ムギは皮を剥いてぺしゃっとして柔らかくした。

正月にウシのモチを搗いていたS家。

コジキのモチも搗いていたそうだ。

Sさんの実家では「ブトクスベ」をしていた。

ボロギレとワラの紐だった。

夏場は火取り。

ソラマメの莢(さや)を火ばちの上でくすべていた。

人が起きているときにしたという。

よう乾いた藁が牛の餌。

藁は竿に掛けて乾かした。

濡れたらあかん。

乾かした藁は納屋で保管した。

牛を繋ぐイトナワ(糸縄)は青色だった。

細い糸縄だが親指よりも太い。

カラスキにも繋げていた。

「お」(麻の緒)であったら牛の身体が傷つく。

「お」が切れたら博労さんに付け替えてもらう。

県北部で見られた牛を連れて参るノガミさんはなかった。

博労さんは突然にやってくる。

博労の家では何頭も常時飼っていて、連れてきた一頭を交換してくれる。

牛が風邪をひけば博労さんが瓶ビールを飲ませた。

博労さんが処置できる範囲内で注射することもあったようだ。

5.牛の貸し借りに行く博労さんにはソラマメを袋に入れて持たせた。

天理の岩屋や米谷辺りでおち合った。

当時は砂利道だった。

交換しあったあとの帰りはバスと電車で戻った。

着いた先で相手方が来るのを待っていた。

その際には牛を木に結わえていた。

昭和12年生のHさんは二十歳頃に牛を連れていったそうだ。

牛の餌のカイバ(飼い葉)の桶。

それは桶屋で売っていた。

小泉にアラモン屋があった。

そこでは牛の鞍も売っていた。

小泉は庚申さんの道筋。

当時は出店がたくさん出ていたそうだ。

小林の博労以外に生駒の博労さんもいた。

そこでも常時3頭から5頭も飼っていた。

秋には3頭ほどが牛のヘタレの対応で増頭したそうだ。

朝は涼しくて牛はよく働く。

暑くなれば動かない。

もう一軒の家が夜遅くまで牛を働かせていたら翌朝は動かなかった。

牛は毎日交互に使っていた。

1軒だけで牛を使っている家はなかった。

2軒の共同利用である。

昭和39年に嫁いできたときには家には牛はいなかったと話すSさん。

昭和35年に小林に嫁いだHさんの奥さんは牛がいて飼っていたという。

H家では昭和40年初めまで飼っていたという町最後の牛であった。

最後のほうの牛はまだ小さかったそうだ。

飼っていた牛には名前を付けていなかった。

ウマヤ(厩)は門屋の左側にあった。

右側はイネヤ(稲屋)だった。

ウマヤ建物が今でも残っているというのはK家だそうだ。

6.杵築神社の奉納していた絵馬。

小学5年生になれば当村では子供が一団に組んで奉納した。

トラの絵馬とかの絵は西田中に住んでいた絵描きさん。

ガクも作っていたそうだ。

絵馬はマツリの前に奉納していたと話す。

来年の1月初めに杵築神社の建て替えがある。

本殿下の長床や座の建物も壊される。

そこに掲げてある珍しい絵馬はどうされるのか。

この時点で尋ねておけばよかったと思ったが遅しである。

小林町には面塚と呼ばれる地がある。

その周囲の田んぼはH家の所有地。

稲刈りするときには歩道沿いに刈った稲を置いていく。

墓地と同じ扱いなので免税されているという面塚に天から降ってきたと伝わる翁の面がある。

その面を被って翁の舞いを演じていたのは郡山市内の柳町住民。

JR郡山駅から西へ通る商店街。

昆布屋さんがあった。

薬園八幡神社の少し手前。

外堀手前ぐらいの処に住んでおられたご主人が亡くなってからは舞いも消えた。

翁の舞いは小さい子供は怖がって見ていたそうだ。

Sさんが話すに2歳か3歳の頃の光景。

昭和40年の初めぐらいだったようだ。

7.牛は田んぼの盛り土を歩く。

暴れるのは初めてウマヤを出たときのこと。

手で掴んだハナギを持って歩いた。

ハナモチがおらんと急に暴れ出す。

カラスキを引っぱっていく牛。

ぐいと土にめり込んで折れてしまったそうだ。

牛が逃げて他の田んぼに行ってしまった。

見かけた隣の畑の人が捕まえてくれた。

牛はじっとしているときは草を食べているとき。

逃げもせずにススキの葉を食べていた。

牛に子供を乗せたこともあったが乗り物ではない。

牛を刷毛で背中をふいたら美しくなる。

ウンチがついたら水で流してブラシで洗った。

牛の維持費はぬか代だけ。

朝、昼、晩の三食食べていた牛。

当時は16、17万円もした耕運機が出現してから牛にとって替った。

耕運機は気を遣うことがない。

いつなんどきでも使えてラクになったと思ったが耕運機は売れない。

牛はその点で売れた。

安かったら10万だったが売れれば金になるのが牛だった。

牛から耕運機に代わってもシロカキをしているのは駅の西側の小泉町住民のKさん。

8.雌牛は角があった。

腰を突いてきよる。

鞍を付けるときには頭をもってくる。

その際に腰を突くそうだ。

稀には角で人間を突き飛ばすこともある。

牛のツメキリをしたことがない。

それをするのは博労さん。

前爪を抱えて小さな鎌で削るようにツメキリをしていた。

その鎌は今でもH家にあるという。

土瓶のような大きな銅製の茶瓶。

天井からつらくって竃の火で沸かした。

予めに作った米のとぎ汁をムギを混ぜた。

湯だけのときもあったが、それを牛の餌にしていた。

「牛にドウズやれ」と云われて米のとぎ汁を牛に与えた。

ドウズとは米のとぎ汁である。

それを藁に掛けたらえー臭いがしたそうだ。

鍋は一番大きいので竃で炊く。

イネワラを食べた牛は美味かったと話すSさん。

葬儀の日にの最初はシロメシ。

次がイロメシ。

三角アゲやゼンマイを味付けして煮ものにした。

それをゴッツアゲと呼ぶ。

広陵町ではユタテメシと呼んでいるそうだ。

他にもタタキゴボウやカラシアエもあったそうだ。

(H24.10.16 EOS40D撮影)
(H24.12.18 記)