https://www.youtube.com/watch?v=Saziu2WcFww
「知」はそのままでは新たな経験のモードを形成しない。
メモリに情報を刻み、設問群に対応する「解」を増やしていくことはできる。
ここでは経験のモード(知的いとなみ)の形式的同一性は維持されたままである。
「知」の量的拡大において経験のモードは変化しない。
変化しないことが線形的な量的拡大を可能にする条件でもある。
ある生きられる経験のモード選択がデフォルト化しているとき、
「知」の獲得は選択された経験のモードを強化することになっている。
いいかえると、このとき学習(知の獲得)は、
経験のモードの妥当性を補強するものだけを選ぶように展開していく。
***
「知」そのものは経験のモードのあり方を決する〝最終の法廷〟を構成できない。
「知」的にどんなに上昇しても経験のモード(ゲーム)は変化しない。
ある経験のモード(ゲーム)が求める「知」はすべて、
必然的に、ゲームの枠組みに収まるように選択されるからである。
経験のモードを書き換える条件は「知の獲得」そのものとは別のところにある。
いいかえると、経験のモードが書き換わる動機はゲームの外からやってくる。
それは単に、サッカーを選ぶかベースボールを選ぶかということではなく、
新たなゲーム創発の可能性を秘めた「ゲーム選択の位相」として訪れる。
経験のモードチェンジはプレーモードの全面的な書き換えとして展開する。
その契機は、ただゲームの多様性と多数性との出会いを起源として現われるように思える。
ゲーム選択の位相が消えると、プレーヤーが生きるゲームは一つになる。
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