───河本英夫『臨床するオートポイエーシス』(2010、青土社)
意識は選択の場所を開き、そこで注意を分散させることができる。
車の運転をしながら、隣席の友人と話しこんでいるときでも、
眼前の信号が赤に代われば、とっさに反応できる。
意識は注意を分散的に活用するための場所を開いている。
通常、知るという働きでは、意識は焦点化の方へ強いバイアスがかかってしまう。
そしてそれを志向性と呼んで、意識の本性が志向性だなどと思いこんでしまう。
ところが意識は、それじたい注意の場所を開き、そこに選択的な強さの違いをつけ、
分散的に活用することもできる。
意識の本性は、心の働きに隙間を開き、
選択を可能にするための遅延機能だという点で、
一つの落ち着きどころを迎えている。
自分自身に対して隙間を開き、
自己の挙動を遅らせることに本来の働きがあると考えられる。
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「法の正当性」を根拠づけるものは法の中には内在しない
(一般意志は法の外から法に正当性を与え、修正の契機を保持する)
法の正当性を検証し、なんらかの修正を導く拠点は法の内部にはない
法内部では法の正当性は自明なものとして不問に付され
ただ内部における命令と運用だけがある
法が法として「妥当する/妥当しない」という視線は法の外にある
ある社会体の本質を問う視線は社会体に内在しない
社会体(関係のゲーム)が「生きるに値する/生きるに値しない」という視点
この視線は社会体がいとなむゲームの外から訪れる
内部にありながら内部に包摂されない外部の視線が生成する拠点──
この心的スペースが消えるとき、たとえば悪法は悪法のまま放置され
関係のゲームを照らし修正をもたらす契機も失われる
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