われわれの経験のすべては「いま、ここ」以外にはない。しかし実存のうちがわから経験をみるとき、
いまここ、このこれとして、時点的に切り取られた記述として、人間的生の経験を示すことはできない。
かつて‐いま‐これから。あらゆる経験にはつねに時制が滲んでいる。
実体としての過去-現在-未来を流れる時間ではなく、
人間的生にとっての世界経験の意味的な秩序としての「かつて‐いま‐これから」。
そのことの了解のうえで、「いま、ここ」を出発点と捉えること。
そしてこのことを「世界の生成」という言葉に置き換え経験の本質をみること。
*
「世界のすべてを見通すのは全知のまなざし、つまり架空の物語です」
「はあ」
「人間にとって世界の全貌はつねに不可知というより、
世界の全貌という観念じたいが事後的に、人間の意識において生成するものというべきです」
「事後的?」
「はい。けれども、全体の動向についての小さな報告はあります」
「どこに?」
「例えば、季節のうつろいの繊細な表情のなかに潜みます」
「なんて?」
「正確には、〝世界〟とはボクたちの感受性において訪れ、告げられるものです」
「告げられるって、なにが?」
「故郷の花のさかりは過ぎぬれど 面影さらぬ春の空かな」
「ん?」
「新古今和歌集の歌です」
「それがどうしたの」
「ボクたちの意識経験の基底に響くメッセージ。その現われの一つです」
「はあ」
「わが心ながら、わが心にもまかせぬもの」
「もののあわれ?」
「世界はつねにある色づきとして目前にある。人の意思を超えて届くダイレクトコールともいえます」
「わからない」
「例えば、太郎くんは花子さんの前では、なぜか心臓がドキドキする」
「好きだからでしょ」
「好きと意識する以前に、好きという感情は太郎くんを襲います」
「まあね」
「前触れなく勝手に知らせは届けられる。そして恋しているじぶんに気づく」
「はい、はい」
「一つの神秘ともいえます」
「神秘ねえ」
「恋という経験の明証性は疑えない。けれども、その由来を説き明かすことはできない」
「そう?」
「いきなり人を襲う想定外の出来事、それが恋です」
「本能でしょ」
「本能という言葉は、説明できないものに貼り付けたラベルにすぎません」
「ラベル?」
「季節の情感は訪れる。しかしその訪れの起源はブラックボックス」
「はあ」
「この〈世界〉という経験は意識に先行して現象する。けれど、なぜ現象するかは汲み尽くせない」
「説明はできないけれど、心が動いていくということ?」
「世界ははじまりつづけている。心は目撃し、まみれ、動いていく」
「どういうこと?」
「世界は生成しつづけている、つねに、いま、ここに」
「もっとわかりやすく」
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