───E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷・木田訳)
「われわれはどこから手をつけてみても、次のように言わねばならない。
わたしにとっても、また考えられるいかなる主観にとっても、
現実に存在するものとして妥当しているすべての存在者は、
主観と相関的であり、本質必然性において、主観の体系的多様性の指標なのである」(48節)
フッサールは意識が経験する世界の現われは、
そのまま主観(わたし)の生の主題(欲望)が描き出した姿であり、
それ以外ではないと語っている。
さらに、世界の現われのさまざまな姿は、
「主観の体系的多様性」すなわち(わたしの)世界経験の諸相をを示している、と。
主観の外に主観とかかわらない「客観世界」が実在する、
という確信の意識はゆるぐことなく人間世界において共有されている。
しかし、現象学的観点からは、「客観(世界)」は、
主観が主観に働きかける「主観の一様態」(ニーチェ)、
主観内に生成する個と個を結び合わせる関係項、間主観的生成物を意味する。
(主観は主観の外に出ることができない──絶対的原理)
なぜそのことの認識が重要な意味をもつのか。
それは、関係項としての「客観」の用法、その適切な取り扱い方にかかわる。
第一には、客観の実体化、本体化による「個」(実存)の抑圧的用法の解除。
すべての悲劇の基底をなしてきた、「個」に先行するものとして用いられる「客観」、
真理および正義を根拠づける超越項としての「客観」、
そうした関係世界における個と個のまじわりの作法、関係項(ことば)の用法の変更。
解除するには、確定記述された実体としての「客観」ではなく、
客観の本質、すなわち客観の〝生成性〟へのまなざしを必要とする。
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