「みんな哀しくて、やさしい顔をしている」
(石牟礼道子『苦界浄土』)
めめしさ、感傷は、嫌ではない
嫌じゃない以上のもの
記述されざる海に根ざしている
すべての記述は記述されざる海に浮かんでいる
この仮構がことばの専制を抑止する
*
19歳の時に観た映画「大地のうた」
ほんとうに語るに値するものがある
けれど、いまもことばが見つからない
「みんな哀しくて、やさしい顔をしている」
(石牟礼道子『苦界浄土』)
めめしさ、感傷は、嫌ではない
嫌じゃない以上のもの
記述されざる海に根ざしている
すべての記述は記述されざる海に浮かんでいる
この仮構がことばの専制を抑止する
*
19歳の時に観た映画「大地のうた」
ほんとうに語るに値するものがある
けれど、いまもことばが見つからない
──河本英夫『臨床するオートポイエーシス──体験的世界の変容と再生』
「意識は選択の場所を開き、そこで注意を分散させることができる。
車の運転をしながら、隣席の友人と話しこんでいるときも、
眼前の信号が赤に代われば、とっさに反応できる。
意識は注意を分散的に活用するための場所を開いている。
これは意識の実践的働きである。
通常、知るという働きでは、意識は焦点化の方へ強いバイアスがかかってしまう。
そしてそれを志向性と呼んで、意識の本性が志向性だなどと思い込んでしまう
ところが意識は、それじたい注意の場所を開き、
そこに選択的は強さの違いをつけ、分散的に注意を活用することもできる。
ここでも意識はそれじたい実践的調整能力である」
「ながらく続いた意識研究の区切りや、少々予想外の帰結となった。
伝統的な反省能力に類似した能力はもちろんある。
これは知る能力の延長上の、みずから自身を知るという働きである。
だが意識の本性は、心の働きに隙間を開き、
選択を可能にするための遅延機能だという点で、
一つの落ち着きどころを迎えている。
反省能力の場合であっても、自己認識は一つの限定であり、
その結果それは本来一つの自己誤解でもあるので、
自己を知ることに力点があるとは思えない。
むしろ自分自身に対して隙間を開き、
自己の挙動を遅らせることに本来の働きがあると考えられる」
***
私(意識)にとって自由にならない「私」の作動がある。
「私」はつねに「私」にまみれながら「私」を目撃している。
そのことを詩人は「ぼくは一人の他者です」とつづった。
みずからの世界経験を一つの現象として捉える外部的な視線。
この視線をキープしながら、その本質を追い詰めると、
意識が介入できない〝不可視域〟(他者としての私)に出会うことになる。
*
情動と行為が直列状態のまま事態が進行するとき、
行為の自然性を貫くように、意識は行為領域の背景にしりぞいている。
たとえば、情動と行為がスキマなく直列に結ばれた状態──
情動と行為が一体化し、両者を媒介する何ものも存在しないようにみえるとき、
事態はある「因-果」的に〝定まった〟方角をめがけて動いていく、ようにみえる。
行為の帰結から行為をふりかえった後に、
「感情のままに」「衝動にかられて」という言い方をすることがある。
行為と情動が直列するように動いているとき、いわば夢中であるとき、
行為の進行のさなかに、意識の反省機能は出現の機会を与えらない。
みずからを振り返る意識は「行為の自然性」にとって〝ノイズ〟の位置にあるともいえる。
行為が出会う対象、環境との関係が定常状態として平穏に保たれているかぎり、
行為の定常運転に修正をほどこす必要、内的必然性は存在しない。
行為の側、環境の側、いずれかに定常性を破るようなノイズ、トラブルが発生したとき、
はじめてなんらかの〝修正〟をほどこすことの内的要請が湧き上がる。
すなわち、両者の調和的関係、整合的なからみあいに、なんらかの〝破れ〟が生じたとき、
そこではじめて「私」(意識)というものが召喚され、作動を開始する。
*
新たな行為パターンの獲得、行為領域を開くための契機──
定常性維持を困難にする、正負いずれかの〝破れ〟との遭遇。
そして、みずからに湧き上がるなんらかの修正要請。
そのために「私」(意識)は「私」の作動にいったんストップをかけ、
みずからに修正をほどこすための〝スキマ〟を開く。
*
定常状態でうごている「運動する身体」に、意識の視線は向かわない。
コーヒーカップをつかむ手の動きは定型的な運動パターンに準じて動くだけである。
ただ、たとえばトゲがささって痛みのためにうまく指が動かせないような局面で、
意識は事後的にふだん主題に上らない指同士の連携関係、身体組織間の接続関係に気づく。
このとき意識が動き、なんらかの修正や接続のし直しを促す〝スキマ〟が自動的に開かれる。
運動が自然に進行するとは「意識しないこと」であり、
その必要がないことであり余計なことである。
新たな運動形成の思考は身体と環境との再対話を可能にするスキマにおいて現われる。
いまだ獲得されていない新たな運動図式、フォーメーションの形成へ向かう動機。
たとえば自転車に乗れるようになること──
乗りこなすことで享受可能になる予期的なエロスの訪れ。
このエロスは「私」にとってポジティブな〝破れ〟を意味する。
この予期において、定常性を拡張するためのエクササイズが動機づけられる。
*
新たな危機あるいは予期的エロスの感知を引き金に、
みずからの修正可能性(存在可能)へ向かう根源的な動機の生成。
この一切の展開の場としての〝スキマ〟があり、
そこで既往の身体図式、世界図式はいったん解除され、
新たな定常性へ向けて結び直されていく。
そして、この位相が人間的自由というものの本質とつながっている。