「よい/わるい」「きれい/きたない」「うそ/ほんとう」
〈世界〉との遭遇のたびに透明な無数の切れ込みが入れられ、
ただちに「意味」と「価値」のランドスケープが開かれる。
一定のパターンにおいて世界に切れ込みを入れるコードの集体、
それは「個性」あるいは「人格」と呼ばれている。
考えるより先に世界は自明性と非自明性の織物として開かれ、
その明証性のグラデーションがおのれの「欲望」の形式を写像している。
一次過程はつねに作動している。
「世界の到来」としての一次過程を消去することはできない──
いいかえると、「世界経験」の原的な所与性としての一次過程からすべてははじまる。
われわれは世界を知的に経験するより先に、価値的(エロス的)に経験する。
原的直観は意識の経験に先行して、意識に〈世界〉を与える。
世界経験の根源的な装置としての「身体」──
感情や情動という身体が発するメッセージは、
世界経験をめぐるあらゆる思考の原的リソースであることを意味する。
どんな意匠や真理をまとった言葉であっても、
つねに価値的エロス的に文節された〈世界〉=マトリクスから生成している。
言語的に一般化された〈世界〉をめぐる世界経験を「二次過程」と呼べば、
「二次過程」は「一次過程」に原理的に先行することができない。
どんなにそれが醜く嫌悪すべきものであるようにみえても、
心的体験として訪れる「情動の到来性・不可避性」
世界経験の第一次の原理をさかのぼって否定することはできない。
たとえば、他者に対する批判・否定は、
他者が経験している第一次の原理自体に向けられても何の意味もない。
しかしここには循環する回路がある。
一次から二次へ、二次から一次へ。
その絶えざるリカーシブな展開において、
回路全体には質的に遷移していく契機が内在している。
一次過程は意識に対して「自律的に」作動している。
意識の関与できる可能性はつねに二次過程のなかにある。
たとえば、なんらかの合意あるいは相互的な了解(納得)をみちびくには、
相互の一次過程を受けとめながら、自と他が構成する「メタ回路」、
二次過程の探索へと突き進む以外のルートはないように思える。