本日サッカーの試合を観て感じたことと少し重なりました。
うまいと感じる選手はどんな動作や激しい局面でも、
独特の間合い、「タメ」(ゆっくり感)があるように感じました。
(この「うまい」と感じる理由の基底には、そのプレーを観る側に、
選手のゲームする喜びや享受する洗練された姿への共感がある気がする。
生命的共感(?)――直接生産と結びつかない、ただ「観ること」に、
これだけの資源を惜しげもなく投入する動物は人間以外に存在しない。
この一見非生産的なゲーム観戦という行為において、
人間というシステムはどんな報酬をそこから引き出しているのか。
「観ること」で、何を求め、享受し、何が変化していくのか。
「うまい」と感じる選手・プレーへの憧れや期待、特別な敬意へと転化する
行為としての「観ること」――
そこに埋め込まれた基底的な志向性は、じつは一流選手のプレーだけでなく、
ふだんの日常的な他者との関係でも常に持続しているようにみえる。)
「タメ」があることでプレーの選択肢が自然に開かれて、
そこに創造性のスキマができている、そんな感じでしょうか。
逆に、チームの決め事や定石に忠実で一所懸命な選手なほど、
そうしたアソビや自由度が少なく、ちょっと息苦しそうな印象をもちました。