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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

人生と言う賭場

2012-01-07 17:02:35 | 雑記
私はあまり賭け事はしない、しかし永い事生きているとやはり色々と良くない遊びも覚える、
私は何を取っても実に弱いのだがゲームとして面白いので麻雀に随分はまった、その頃は町には雀荘と言う場所が彼方此方に有って仕事帰りにサラリーマンが深夜まで溜まって遊ぶのが普通だった、街によってサラリーマン、学生、商店店主等集まる人種が違いルールもレートも違うのであまり混ざり合う事は無かったが中には腕に自信のある者は繁華街の「1人でも打てます」と言う所に行く猛者も居たが其処から生活がアウトローになる事が多かった、
サラリーマン達は会社で申し合わせてから人数を揃えて繰り出す事が多かった、人数が足らない事を「メンツが足らない」と言うがこの言葉は今でも通用している様だ、麻雀でもブリッジでもポーカーでもあらゆるゲームは勝と負けの差が余り大きくなると成り立たなくなる、麻雀で言えば1人が完全に勝ち上がり残りの3人が箱割れをして借りがどんどん膨らみリーチ棒まで借りなければ出来ないという状況だと買っている方は嵩に掛ってどんな乱暴な手でも打てる、或いは手が悪ければ完全に下りてしまえば良いのだ、こうなるとゲームは面白くもない、
しかし、麻雀には「半チャン」「イーチャン」と言う期限が有る、一旦其処で清算し又全員の点箱を再配分して次に進む、無論負けは残るがゲームは最初から進めるのだ、ポーカーもブリッジも一度毎に清算し同じ条件でのゲームになる。
今の経済状態はすでに1人勝ちに点棒は集まり残りのゲーマーは借金だらけで点棒どころかゲームを維持する体力すらなくなっている、半チャンどころかイーチャンも通り過ぎて居る、一度清算した方が良い、此れではもうゲームは進めない、勝ち組が幾ら勝っても回収は出来ない、
その筋の雀荘では無い、しかし恐らく今の勝ち組は負け組の布団すら剥がし、子供の食費まで持ってゆくだろう、しかもこのゲームは生まれたら必ず参加させられるゲームで持たされる点棒は両親の点箱なのだ、少なくとも新たにゲームに押し込まれる人には最低の点棒は持たせなければ公平なゲームでは無い

日本人は変ってしまったのか?

2012-01-06 08:38:25 | 雑記
オウム事件の平田容疑者が出頭したが警察の対応が稚拙だったと問題視されている、
確かに交番や役所などに人相書きまで貼り出していて本人が名前を名乗っての上で出頭したと言うのに捜査本部のある警察署だけでなく桜田門まで玄関払いとは正しく「如何なものか」と言うところだ、対応の理由は「この手の悪戯が非常に多い」と言う事で(又か!)と言う気持ちになるのも解らないではない、嘘の自首、自白などが多いという事なのだが一体この連中は何を考えているのだろうか、「「愉快犯」と言う犯罪がある、世間が騒ぐのが面白いからと言う動機の犯罪だ、
嘘の出頭は顔を晒して行う訳だから少し内容は違うだろうが基本的な部分は同じかもしれない
私はこの様な考え方がどうしても理解出来ないのだ、暴走族といわれる連中も、盛り場で肩を怒らせている連中も、徒党を組んで特定の相手を集団で虐めると言う「虐め」も本当に理解出来ない
共通しているのは「相手が怖がるのが面白い」と言う事だ、「ないて謝るのが面白い」と言う所までエスカレートする事も有る、最近は「誰でもいいから殺してみたかった」と言う犯罪まである、社会学者や精神科の先生も色々な事を書いているが今ひとつしっくりと来ない、
環境なのか、教育なのか、家族の問題なのか、一体この様な形態が何時ごろから有るのか?全く無かったのか或いは急激に増えたのか、だとすれば何時頃からなのか、特徴的な生活形態が有るのか、そしてその分析から何か解るのか?対応が出来るのか、
この精神構造は若しかしたら今の政治家や官僚の根源的な資質と似通っているのではないか
震災の後「絆」と言う言葉が流行っている、しかしこんな事をわざわざ言わなければならないほど日本人は自己中心になってしまったのか、いや未だに来る世界中からの援助やメッセージは国内で目障りなほど書かれている「絆」などと言う所と全く違ったステージで動いているのではないだろうか、人間は本来不幸にして被害を蒙ってしまった者達に自然に手を差し伸べて共に泣き共に歩こうとする生き物の様な気がする、
しかし一方で「面白ければ他人が苦しもうが泣こうが関係ない、」と言う種類の者達が増えている、
自分の年齢は半世紀は過ぎたとしても僅かその程度の時間で日本人はこれ程変ってしまうのかと思うと暗澹たる気分になる

社会保障は増税より先にすべきだろう

2012-01-05 09:03:20 | 雑記
昨年からの持ち越し議案で「税と社会保障の一体改革」と野田総理が盛んに訴えている、
報道の内容を信じれば「野田総理が」であって「政府」でも「与党民主党」がでもなさそうだ、「通らなければ解散も視野に入れて」と言うほど力を入れての政策方針だが当初与党になる前には消費税を上げなくとも「埋蔵金と徹底的な削減」で維持できると言うのがマニフェストの内容だったのではなかったか?
マニフェストを全て取り下げて更に正反対の方針に変更して「政治生命を賭して」増税をしなければならないなら僅か1年半でその信念は変わってしまったと言う訳だ、
それ程簡単に信念を変えられる人間の「日本の将来の為に政治生命を賭して」と言う文言をどうして信じられると言うのだ、
政権の座に就いたとたん全ての前言を反故にする人間が今「税と社会保障の一体改革」と言った所で増税が通れば「社会保障の改革」を反故にしないと言う事を誰が信じると言うのか、
国民の殆どは日本の国家経済を増税無しで建直すのは難しい、不可能かも知れない」と言う事は解っているだろう、しかしその前に官と民の格差、大きくなった経済格差、富裕層の優遇を解決すべきだと言う事も共通認識だ、年収が億を超える高額所得者層に10%の増税をするだけで税収は大きく増える、累進税率を最高だった最高75%に戻せば消費税率3%分に相当すると言う、それでも年収1億ある納税者には7500万残る、一般所得者の20人以上になる、
個人が汗水流して或いは危険を冒して稼いだ金の訳もない、昔の言い方で言えば「不労所得」である、
年収が平均650万以上で年金の半分を税金で補助されている公務員、人口3億以上のアメリカより多い国会議員、
仕分けで炙り出したはずの特殊法人と巨額な税金を吸い込み続ける天下り官僚、最低限これ等の改善策を法制化し国会を通過させることが増税の最低条件だ
解散はやむを得ないだろうがその為に又国会の空転と巨額の税金が消費されるのは止めてもらいたい物である

大女優

2012-01-04 11:21:00 | 雑記
大女優と言う言い方が有る、どんな女優を「大女優」と言うのだろうか?役者と言うジャンルで男優、女優と言う言い方は映画でしかしない、いや舞台女優と言う言い方も有るから舞台役者も「女優」と言うのだろうが舞台に立つ女優は「役者」と言うほうが相応しい気がする、
男優に関しては「大男優」と言う言い方は余りしない、其れより「大役者」と言う方が多い、
基より歌舞伎から派生した舞台は女役者と言う者は居なかったが掛け小屋や旅廻りには女性も大勢居たらしい、しかし映画が全盛になると女性の人気が大きくなって女優の看板で呼ぶ客が増えてきて看板女優と言う言い方が出来、その大きさから「大女優」と言う言い方になったのではないだろうか、
しかし、人気だけで「大女優」と言うのも何か変な気がする、やはりそれには人気だけではなく実力、言わば役者としての内容も充実していなければ只の人気者でしかないのではないだろうか
吉永小百合と言う女優が居る、10代からずっと銀幕のスターとして輝いている女優である
しかし私はこの女優の作品は殆ど観ていない、観ていないから女優としての魅力や実力は話しようが無いのだが作品その物もそれ程多い事は無い気がする、有名な物としては「キューポラのある町」だがその後何に出ているのか思い出せない、「伊豆の踊り子」「潮騒」位は思い出すが両方共有名な文学作品であり、多くの女優が演じている、他の女優に比べて特筆すべきだと言う評価は聞かない気がする、どちらかと言えば大人気の女優が文学作品を演じると言う話題性の方が先行していたような気がする
吉永小百合だから出来たと言う作品と言うのが有ったのだろうか?有ったとしても一部の熱烈なファン以外にどの程度膾炙していたのか知らないのは自分だけなんだろうか?
私が10代の頃同僚が日活撮影所の見学に行った時偶々合うことが出来て写真を写して来たと言う物を見せて貰った事がある、長い髪と白いセーターにスカート姿で植え込みの木に寄りかかって微笑んでいる写真は確かに誰しもを魅了する美しい清純その物の姿だった、しかしその頃自分は洋画に夢中だったので「綺麗な女性だな」と言った程度の感想だったし邦画は松竹か大映の方が多かった、どうもあの頃の日活路線は「何とかガイ」と言う男優を使ってギャング物とヤクザ物をミックスした様なものが多く見る事は殆ど無かった、
その中で音楽の名前から観る気になったのが「黒い傷跡のブルース」と言う映画で小林旭主演のアウトローヒーロー映画だったがその主人公の妹役に吉永小百合が出ていたが未だそれ程売れていない時期だったと思う、15~17歳位の役回りだったんじゃないかと思うが封切り直後では無かったと思うがやはり余り印象は残っていない、
最近はCMでよく見るのだがあの頃の輝く様な雰囲気は無く綺麗だが妙に地味な印象が有る。
まあ年齢からして派手な必要は無いのだがどう言ったら良いか所謂「華」が無いのだ、今風に言えば「オーラ」と言う事だろうか此れは画面から、或いは紙面からは判らないものかも知れないが他の女優には只居るだけで華やぐと言う「華」を感じる人が何人か見る事があるが彼女に其れを感じないのは自分がファンで無いだけなんだろうか

正月の浅草

2012-01-03 06:00:05 | 雑記
交通の便が良いんで良く行が人がすごいと言うので今まで正月には行った事が無い、大抵何処かに出掛けて居たのだが此処2年不景気で家に居るので時間を持て余す、で覚悟して行ったのだが此れは確かに凄い、
10時半頃だったのだが地下鉄の駅から地上に出るのに雷門口は規制寸前だった、仲店は敬遠し観音通りを上る、雷門通りが車両通行止めの規制が掛かって居たので此方の方が行きやすい、雷門通りから白髭橋方向を見るとスカイツリーが良く見える、規制が有る今日しか撮れないアングルなのでカメラに収めて来た、




伝法院通りのひとつ前で木札を売る店が有って漢字の物も作ると言うので孫3人を頼んで来る、仲店通りを苦労して突っ切り伝法院通りに出る、実は年末新聞で見た「昭和の歌」の常設劇場がこのあたりに有った筈だと探しに来たのだ、場外馬券売り場の屋台酒場はもう満席、寄って見たい気も有るがどうも二人とも昼酒が苦手なので通り過ぎて六区座の方に出る、ROXの前に出たら幟を見つけた、
「虎姫劇場」と言うらしい、名前は出がけにネットで調べておいた、どうやらROXの4階が常設らしいが今日は1階に掛かって居た、しかし13時からは「エノケン・笠木シズコ」で流石にこの辺りは記憶には無い、見たかった「シャボン玉ホリディー」は夕方だ、時間が有りすぎるので今度の連休にしようと言う事にして店を冷やかす事にした、新仲見世通りや仲見世に並行するすしやとおり等拾って歩く



、最近は「もんじゃ」の店が増えて居るな、カツの店も多い、天丼の大黒屋と蕎麦の十和田は大行列、まあ殆どの店が大繁盛だ
暫く楽しんでから(若しかしたら)念の為河童橋通りに行ってみたが案の定見事に開いて居ない、路地を2本も過ぎると全く人通りが無い、大きな浄土真宗東本願寺東京本院と言う寺が有るが此処も人は殆ど居なかった、
戻る途中で珈琲を飲んでから駅に向かう、時間は2時過ぎになっている、混雑はピークに差し掛かった様で大変な事になっていた、雷門から仲見世通りに入る所は完全に規制がされて居て入場制限までかかっている、
駅に出るのに暫く掛かってやっと帰って来た、まあ予想通りの混雑で恐らくもう行くまいがそれなりに結構面白かった。