オウム事件の平田容疑者が出頭したが警察の対応が稚拙だったと問題視されている、
確かに交番や役所などに人相書きまで貼り出していて本人が名前を名乗っての上で出頭したと言うのに捜査本部のある警察署だけでなく桜田門まで玄関払いとは正しく「如何なものか」と言うところだ、対応の理由は「この手の悪戯が非常に多い」と言う事で(又か!)と言う気持ちになるのも解らないではない、嘘の自首、自白などが多いという事なのだが一体この連中は何を考えているのだろうか、「「愉快犯」と言う犯罪がある、世間が騒ぐのが面白いからと言う動機の犯罪だ、
嘘の出頭は顔を晒して行う訳だから少し内容は違うだろうが基本的な部分は同じかもしれない
私はこの様な考え方がどうしても理解出来ないのだ、暴走族といわれる連中も、盛り場で肩を怒らせている連中も、徒党を組んで特定の相手を集団で虐めると言う「虐め」も本当に理解出来ない
共通しているのは「相手が怖がるのが面白い」と言う事だ、「ないて謝るのが面白い」と言う所までエスカレートする事も有る、最近は「誰でもいいから殺してみたかった」と言う犯罪まである、社会学者や精神科の先生も色々な事を書いているが今ひとつしっくりと来ない、
環境なのか、教育なのか、家族の問題なのか、一体この様な形態が何時ごろから有るのか?全く無かったのか或いは急激に増えたのか、だとすれば何時頃からなのか、特徴的な生活形態が有るのか、そしてその分析から何か解るのか?対応が出来るのか、
この精神構造は若しかしたら今の政治家や官僚の根源的な資質と似通っているのではないか
震災の後「絆」と言う言葉が流行っている、しかしこんな事をわざわざ言わなければならないほど日本人は自己中心になってしまったのか、いや未だに来る世界中からの援助やメッセージは国内で目障りなほど書かれている「絆」などと言う所と全く違ったステージで動いているのではないだろうか、人間は本来不幸にして被害を蒙ってしまった者達に自然に手を差し伸べて共に泣き共に歩こうとする生き物の様な気がする、
しかし一方で「面白ければ他人が苦しもうが泣こうが関係ない、」と言う種類の者達が増えている、
自分の年齢は半世紀は過ぎたとしても僅かその程度の時間で日本人はこれ程変ってしまうのかと思うと暗澹たる気分になる
確かに交番や役所などに人相書きまで貼り出していて本人が名前を名乗っての上で出頭したと言うのに捜査本部のある警察署だけでなく桜田門まで玄関払いとは正しく「如何なものか」と言うところだ、対応の理由は「この手の悪戯が非常に多い」と言う事で(又か!)と言う気持ちになるのも解らないではない、嘘の自首、自白などが多いという事なのだが一体この連中は何を考えているのだろうか、「「愉快犯」と言う犯罪がある、世間が騒ぐのが面白いからと言う動機の犯罪だ、
嘘の出頭は顔を晒して行う訳だから少し内容は違うだろうが基本的な部分は同じかもしれない
私はこの様な考え方がどうしても理解出来ないのだ、暴走族といわれる連中も、盛り場で肩を怒らせている連中も、徒党を組んで特定の相手を集団で虐めると言う「虐め」も本当に理解出来ない
共通しているのは「相手が怖がるのが面白い」と言う事だ、「ないて謝るのが面白い」と言う所までエスカレートする事も有る、最近は「誰でもいいから殺してみたかった」と言う犯罪まである、社会学者や精神科の先生も色々な事を書いているが今ひとつしっくりと来ない、
環境なのか、教育なのか、家族の問題なのか、一体この様な形態が何時ごろから有るのか?全く無かったのか或いは急激に増えたのか、だとすれば何時頃からなのか、特徴的な生活形態が有るのか、そしてその分析から何か解るのか?対応が出来るのか、
この精神構造は若しかしたら今の政治家や官僚の根源的な資質と似通っているのではないか
震災の後「絆」と言う言葉が流行っている、しかしこんな事をわざわざ言わなければならないほど日本人は自己中心になってしまったのか、いや未だに来る世界中からの援助やメッセージは国内で目障りなほど書かれている「絆」などと言う所と全く違ったステージで動いているのではないだろうか、人間は本来不幸にして被害を蒙ってしまった者達に自然に手を差し伸べて共に泣き共に歩こうとする生き物の様な気がする、
しかし一方で「面白ければ他人が苦しもうが泣こうが関係ない、」と言う種類の者達が増えている、
自分の年齢は半世紀は過ぎたとしても僅かその程度の時間で日本人はこれ程変ってしまうのかと思うと暗澹たる気分になる