梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

大晦日

2021-12-31 11:00:51 | 雑記
大晦日だが特に何にもない、
子供達が来ることも無いし公営住宅の狭い住まいだから来られても困る
孫も一人を残して働き出しているのでお年玉は無い、
無いとなったらこっちも来ない、現金な物である
いつもより2時間ほど遅く家を出て何時もと同じ様に30分位歩いて事務所に向かう
少し雲は有るが良い天気で気持ちが良い
流石に人も少ないし車の通りも少ない、
呑川の脇に初詣の幟が出ている、「北野天満宮」の様だ、
そう言えば少し川を下ると右手に古い神社が有ったな
ショートメールが来た、「資料が整ったが何時送れは良い」と言う内容だった
「毎日事務所には寄るからいつでもいい」と「来年も宜しく」と返事を送る、
昨日京浜蒲田の駅通りで北原ミレイのCDを買って来た、
「石狩挽歌」が流れて来た、何年か前に糖尿の合併症で逝ってしまった先輩が好きで良く歌っていた曲だ、
親兄弟だけではなく友人もボロボロと欠けて行く、寿命100年時代と言ってもそろそろそんな歳になった訳だ、
フェイスブックにそんな友人達の子供達が繋がってくる、
良い時代かもしれない、これがリアルに顔を合わせればお互いに気を使いかえって疎遠になるが此れだと「おじさんも元気でね!」とか「そんな歳なんだな~」と言った軽いやり取りが続けて行ける
しかし当の奥さん達はSNSなんかが苦手の様で本人よりこっちの方が近況の顔なんかを知って居たりする、
今年の締め括りは歳末福引特賞と言う締め括りになったがさて、新しい年、どんな年になるやら、


二宮尊徳は小田原城の脇にある報徳社に祀られている
小学校の庭には必ず薪を背負って勉学に励む「二宮金次郎の像」が有ったものだが大人たちは「本が読める位なら後2~3杷は背負える」と言ったものだった
第一山道は危なくて歩けたもんじゃない、

裏山の竹藪中には紫蘭が良く咲いていたが薪を担いでこんな道を歩いた、
風呂を沸かすには山に入って枯れ枝を集めて焚き付けにして乾かして割った薪を延々と1時間くらいくべる、ずっと窯の前にいるのだが真っ暗だからここで本を読むことは出来ない
もっとも読めたとしても漫画だったろうがね
昭和の人間は金は無くても随分生活は楽になった、周りと比べれば貧しいかもしれないが随分楽な生活である
上を見ればきりがない、下を見ても切は無い、後何年生きるか解らないが不満を持たずに行けばいつ死んでも「終わり良ければ総て良し」と言う事だ、
在るがままに淡々とを座右の銘とするか

天竜の山の上

2021-12-28 11:32:06 | 雑記
太陽光発電の地主さんに年末の挨拶に行く
この冬一番の寒気で北國街道は大雪、関ヶ原で新幹線は大遅れだが遠州は快晴、
それでも懐山は標高350m位で気温は3度しかない

晴れ渡った空に白い風花が舞う
少し早く着いたので周りをぶらつくと大きな棕櫚の木が有って埋もれる様に花が咲いていた

今年で4年が過ぎる、半分が寺の敷地なので檀家総会を開いて何とか許可を戴いて設置したのだが結果的には毎年檀家総会に現金が入る事をみんな喜んでくれている様だ、
残り半分の地主と無住の寺を管理している世話役に毎年挨拶に行くのだがそこそこの年齢なので失礼な話だが何時まで元気でいてくれるか気にはなるところではある
4年前檀家総会をやった時は70所帯弱だった筈だが「今は30数軒になった」らしい
「残っているのは年寄りばっかり」で歩いて30分位の所にあったバス停も廃路線になってしまったそうだ、
今は「何件か纏まるとバス会社がタクシーで迎えに来てくれる」そうだが生活必需品の運転免許も多くは返納し「若い連中は皆出て行ったが今更街に降りる気もない」と言うが悲壮感はない、
この寺には「おくない」と言う正月行事が有って県の無形文化財だが「継ぐ人間は居なくなって部落外の人の方が多いが何時まで続けられるか」と言うお二方はもう80歳の後半だ、
後十年もしたら此処も廃村になってしまうんだろうな、
冬晴れの山に日本の現在と未来が有る


運を小出しに使う

2021-12-25 14:45:09 | 雑記
年末の福引で大当たりを引いた、
それ程良く行く店では無いのだがサッカーで袋に荷物を入れていたら年配の女性が「私はこの辺ではないのでよかったら」と補助券をくれた
そう言えば何枚か持っている、先日少しまとめて買物をしたら挑戦券と書かれた福引券をもらっていたがその他に補助券が何枚かあった筈だ、
ポスターを見たら今日が最後の様だ、(折角だからやってみるか)と入口の抽選場に行った
「3回どうぞ」と言われテーブルの上にあるタブレットに触る
(今ではあのガラガラではないんだな)と思いながら画面をスワイプしたらなんといきなり“特等”が出た、

2枚目“3等”である、最後の1枚は流石に“参加賞”でお約束のポケットティッシュだったがこれまで入賞したらシャレにならない
特等は3万円の商品券、3等は千円の商品券となんとも効率の良い福引だった、
私はこう言う福引と言う奴には結構ツキが有る、何十年も前、日立製作所亀戸工場に勤務していた時毎年秋(多分11月か10月だった)「稲荷際」と言う名前の創社祭が有り従業員社員全員に福引が配られる、
15歳の9月に入社し19歳まで4回の稲荷際で1等が2回3等と5等を当てて同僚から「俺のも廻してくれ」と言われて廻したら4等か5等を当てた事が有る、
しかし宝くじはかすりもしない、どうやら欲をかいたらダメらしい、
娘が高校か短大の頃クリスマスプレゼントをねだられて川崎の駅ビルに買物に出掛けてやはり4~5枚の福引を貰い、その内1枚が1等の胡蝶蘭にあたりもう一枚商品券が当たったことがある、
かみさんは素直に「すご~い!」と喜んだのだが娘は何と「そんな風に小出しに運を使うから大きな運がこないんだよ!」と宣った、
そんなこと言ったって「運をじっくりためておいて一気に」なんて出来るわけもない
「第一お前は当てた事あるのか」と聞いたら「一回もない」らしい
「素直に喜べ」と言ったら「胡蝶蘭は上げるから」と商品券を奪われた
今回は久しぶりの大当たりだ、帰って直ぐ商品券を開けてみたらどうやらこの商店ビルだけしか使えない商品券らしい、

実にローカリーで全て同じ500円券で枚数だけ違う、
3等は2枚、特等は3万円分60枚が封筒に入っている、分厚い、壮観である

期限を見たら来年の1月一杯だがこの店は基本的に生活消費物の店である、
要するに万単位の商品は無い、肉・魚・野菜・調味料が殆どだ、
我が家は古希を過ぎた後期高齢者の2人暮らしである、どう考えても1か月で3万1千円の買物はないだろう、
しかし幸いの事に酒類が置いてある、「よし、抓みと酒だ」となったんだが何しろ家庭的なスーパーである、
この際だから思い切り高級な奴をと考えても一番高いのがサントリーのVSOPだがこれもこの店特価で2800円(税別だが)である
結局ウィスキー・ブランディー・バーボン・焼酎と乾物とナッツをしこたま買うのだが何しろ重すぎて一回にはそれほど買い込めない
結果として未だ半分ほどの商品券が財布に有る、財布は尋常ではない膨らみ方だが万札なら1枚の重さである
まあ、贅沢を言うなと言われるだろうがね

年末雑感令和版

2021-12-24 09:27:07 | 雑記
「三界に帰る家も無し歳の暮、浮世世間に鬼は無くとも」
12歳の春にお袋が癌で亡くなって親父と二人の生活になったので学校から帰っても「お帰り」と言う言葉は聞いた事はなかった、
中学を卒業して上京し翌年親父は結婚した姉の家に住むことになったがその1年後に脳溢血で亡くなった、
お袋が入院をした11歳からずっと「ただいま」と帰る家は無かったがこれで完全に無くなった訳だった
15歳から務めていた日立製作所は長い正月休みがあるが帰る所はない、
暫くは田舎の親しい友人の家にお世話になったが20代の頃には“やはり家族以外は居るべきではない”事に気が付き始めた、多分そんなころだっただろう、日記の隅に書き込んでいた、
自分には寂しいと言う感覚が乏しいと思っているがこの頃はやはり少し寂しく感じたんだろう、
まあ、寂寥感と言う様な大げさなものではなくもっと現実的な話で昭和40年代では年末晦日から三ヶ日は殆どの店が休んでしまう、
大晦日の年越し蕎麦が過ぎれば寿司屋しか開いていない、三食寿司なんぞは経済的に無理である、
未だコンビニなんかは無いのでインスタントラーメンと餅が主食となってしまう、
友人達も殆ど帰省していないし深い意味ではなく「帰る家のない寂しさ」と言うより「生活困窮」という訳である
帰る家がないと言うのを語呂合わせ「女三界に帰る家無し」と言う言葉を思い出したので並べてみたが周りの人達は優しいのは間違いないので礼を欠かない様にと書いたらこうなった、
もっとも今の今まで人に見せるつもりはなく独り言なんだが、本当に親切にしてくれた人には心底感謝している、
しかし、強がりではなく今まで自分が不幸だったと思ったことは一度もない、
“それが当たり前で人とは違うのは仕方のない事だ”とすら思わないで淡々と生きて来たつもりだ
36歳の時に今のかみさんと一緒になって突然家族が4人出来て自然に「ただいま」と言える環境になったが不思議な事に自然に言葉が出てきた気がする
ひとりの時は“此のままのたれ死ぬかな”と考える事もあったが苦しくなければ“まあいいや”位に生きていたが家族が出来るとそうもいかない
女房子供と言うが子供は既に50歳に喃々としているので残るは女房が困ると言うより寂しがるだろうなと言う所で頑張っているが先に看取る事が出来たら橋の下か山奥で野垂れ死ぬのも良いかなんと時々思う、
妙な話、自分には最後は橋の下で一人で野垂れ死ぬのに憧れの様なものがある
かみさんと一緒にならなかったらもっと早い時期に浮浪者になって野垂れ死んでいたかもしれないとも思う時が有る

ナバロンの要塞とローマの休日

2021-12-23 09:40:22 | 映画
子供の頃駅の在った掛川の街には映画館が3ヶ所あった
掛川座が日活専門、映劇が東映専門で中央劇場が松竹・大映・東宝である
小学生の頃歳の離れた姉たちに初めて連れて行ってもらったのが「雪崩」と言う映画だったので中央劇場だった筈だ、
村の万屋に映画のチラシが貼られていてその裏に掲載礼として「ビラ裏・ビラ下」と言う鑑賞券がついていてそれを時々貰って見に行ったのは大抵チャンバラだった、
初めて洋画を見たのは姉が働いていた浜松だった、
掛川には邦画映画館はあったがこの辺りでは静岡と浜松しか洋画館は無かった、
その時見たのは「ナバロンの要塞」と言う戦争映画問より冒険映画の様な奴だった
Wikiで見たら1961年となっているから13歳の頃、中学2年生の筈だ
絶壁に掘られた難攻不落の要塞を登山家の大尉他が雨の中、絶壁をよじ登り爆薬を仕掛けると言う内容で感激したものでそれからすっかり洋画フアンになった、
これもWiki を見て知ったがグレゴリーペックとデヴィット・ニーブンだった
西部劇の印象が強いがやはり彼は「ローマの休日」だ、
ヘプバーンの王女と新聞記者のグレゴリー・ペックのおとぎ話の様な淡い恋物語
最後の記者会見で王女と記者として再会するが王女の最後の回答は正確には覚えていないが最後を締めくくるにふさわしい台詞だった、
真子様の問題、王女の覚悟と平民の矜持、比べるには無理が有るができれば格好よく「プリンセスの悲恋」と締めくくったら株も上がったろうに