梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

除夜の鐘を前倒し

2016-12-22 14:48:09 | 雑記
最近除夜の鐘を年越し時からずらすと言う話題があるらしい、一つは寺院が建て替えられて場所が替わったら近隣から「除夜の鐘がうるさい」と言う意見が出たと言う、もう一つは「深夜は寒いから未だそれほど冷え込まないうちに除夜の鐘を鳴らそう」と言う事らしい、
先の「突然隣に寺が来たかが除夜の鐘は迷惑だ」と言うのは解らないでもない、しかし「初詣が寒いから年が変わる前に鐘を鳴らそう」と言うのはあまりにおかしいだろう、百八つの煩悩を浄めて新しい年の迎えると言う本来の「除夜」が全くないではないか、年の終わりに本年の諸々な穢れを浄化すると言うのに寒いから早めに済ませようなどとはとてもじゃないが浄化される訳は無い、寒いのが嫌なら炬燵にでも潜り込んで「ゆく年くる年」でも見てれば良い、
手前の横着を棚に上げて除夜の鐘を前倒しにしろなんぞは新年を祝う価値もない、がどうもこれは寺が言い出したらしい、こんなことを言ってるから「寺は葬儀屋だ」とか「日本には宗教が無い」とか言われる、
そういえばテレビで「能」を外国の人が新しい形で紹介すると言う企画をしているらしい、川を浄化したら水の神が喜んだと言う内容らしいが本来「静」の芸能の「能」が子供が被り物をして仕手の周りを跳び回ると言う演出で呆れたのだが、
彼はそれだけではなく普通の演を翻訳する仕事もしていて、「成仏」と言う言葉が翻訳できないと言っていた、結局「魂が救われる」と訳したそうだが絶対一神教の中で生まれ育った人に「成仏」を理解させるのは難しい、仏教の言う「成仏」は文字通り「仏になる」のである、まあ宗派によって若干違うが基本的に大乗仏教では人は現生は仮の姿で本来「仏」になり現生の行いによって来世は六道の何処かに生を受けるがおこないの良い魂は仏になる為の修業に入ると言うのが根っこにある、
現世の名前は仮の名前でこれから仏の修業を始める名前が戒名と言う訳だがその現世のよごれを歳毎に浄めると言う「除夜の鐘」を前倒しとは呆れた坊主である、
鎌倉鶴岡八幡では大晦日には大祓を行いそれから新年を迎える初詣になる、まあ神社なんで除夜の鐘は無いが日本人ならもう少し日本の文化を大事にして貰いたいものだ、
自殺する勇気がないから死刑になるため誰でもいいから殺すとか、自ら腹を痛めた子供を苛め殺すとか、「苛めは娯楽だからなくならない」とか
日本はこれからどうなってしまうんだろう、政治の暴走を止めるのも焦眉の問題だが、だんだん腐りかけている日本人と社会を何とかしなければならないだろうな


教師?凶師か狂師?

2016-12-08 09:06:56 | 雑記
避難住民の子供が学校で苛めにあっているという、「放射能がうつる、黴菌」と言う様な苛めだという、放射能と言うものは存在しない、第五福竜丸の頃広がった言葉だが何を指しているか解らない、「放射能汚染」と言う言葉はあるらしいが正確には「放射性物質」による汚染と言う事になる、
放射性物質は一種の埃だ、セシウムとかストロンチウムとか言う物質がα線とかγ線とかを常に放射しながら分解してゆく、この放射線が生物の細胞に傷をつける、それが強度になると火傷のようなケロイドを起こす、そこまで行かなくとも曝された細胞が破壊されるのがいわゆる「被爆状態」である、放射線を出しながら分解してゆくが完全に安定する時間が放射線量が半分になる期間が半減期でその間蓄積の危険があると言う、今回の汚染物質は非常の細かく放射性自体はそれほど強くはない、体に付いても叩き落とせば殆ど後遺症は残らない、問題は体内に取り込まれ滞留し長期間にわたって内蔵や体内の重要器官を被爆させることで細胞のDNAや染色体に影響を及ぼす事だ、しかも半減期が永く影響は長期間にわたる、
特にセシウムは甲状腺に集まると言う、蓄積して被爆の程度が大きくなると細胞のDNAに影響が出て異常増殖をするようになる、これが癌である
体が放射性物質に汚染されても手で払えば何の影響も残らない、福島原発で作業員が着ていた防護服も単なるビニール製である、
例えていえば放射性汚染塵と言うのは「火の粉」の様なものであり汚染した当人は軽いやけどをおう事はあっても急いで叩き落とせばそれだけのものである、彼らがその後他に影響を及ぼすと言う事は絶対にない、
こんなことはすべて新聞に書かれている事である、社会面は「東京電力の責任」と政府御対応を非難する記事になっているので確かに「汚染被害者をどうするのだ!」と言う論調で書かれているが同時に解説欄で放射性物質の発生メカニズムや影響の科学的根拠及び範囲、影響は繰り返し書かれていた、私の様な素人でもこの程度の事は知ることが出来る、
多少の曲解はあるかも知れないが放射性汚染に関しての本も出ているのでそれほど違っているとは思えない、
何を言いたいかと言えば今回の苛め事件に現役の教師が同調する様な行動があったと言う事だ、教師である以上この程度の記事は読み込んでほしい、特に避難児童を受け持っているとすれば尚更だろう、
教師でなくとも「自分が彼らの立場だったら、自分が避難者で自分の子供がそんな理不尽な言葉を受けたら」と言う考え方すらできない事が非常に恐ろしい、もしかしたら家庭で無知な親が「避難者が居るんだって、放射能がうつったらどうするの」と言う様な会話もあるかも知れないがそれは誤解で彼らは被害者であっても汚染と言う物は病原菌とは全く違うと言う事を学校と言う教育組織でフォローすべき問題なのに肝心な教師が「〇〇菌」と呼ぶと言うのでは教育ではあるまい、
盗撮、下着泥、痴漢、など教師の破廉恥な話は枚挙にいとまがない、その前の大学生は女性を泥酔させ輪姦に及ぶ、こういう輩が教師になるのだから推して知るべしかも知れないがそんな連中が子供を教育すると言うなら日本の将来は真っ暗だ、
私の知る限り教師の半分以上は世間の常識とはかなりかけ離れた常識で生きているように見える、それはベテランに成ればなるほどディープになる、坊ちゃんの赤シャツに近い教頭先生や地位と退職後の名声のみに汲々とする校長先生などそれこそどこにでもきくはなしである、
彼らは大学を降りるとそのまま教職に就く事が多いだろう、彼らの社会では教室では子供に教えると言う立場であり非常に強権の立場になる、言っては申し訳ないがこれは「ガキ大将」である、ガキ大将になり損ねた教師は子供のグループでその立ち位置を失う、父兄参観を経験してその威厳の無さにあきれ果てた事も何度かある、
職場での大人の社会は狭い社会の上下関係しか経験出来ない構造だろう、教職者と言う社会と一般社会の常識、他者への相互理解を身に着けてもらう必要が重要だ、
その為には教師に数年に一度一般職の経験を義務付けた方が良い、一種のインターン制度になるが前述の教頭先生や校長先生もぜひお願いしたい、現状のガキ大将のままでは日本の将来は暗澹たるものだ、今の彼らでは「教師」では無く「狂師」もしくは「凶師」としか呼べない

百田氏の発言に「人種で優劣を言うのは日本人の心とはかけ離れている」

2016-12-02 08:26:39 | 雑記
百田直樹氏が大学生の強姦事件に関して「犯人はおそらく在日外国人ではないかと考えている」とツイート、それに関して「ヘイトだ」とReツイートがあった、それに関して今度は「相手を特定していない、そう考えると書いてもヘイトか」と反論した、
「相手を特定しない」と言う事は「日本人は特別だ」と言う趣旨の発言になる、
自分(自国)が他人(他国)より特に優れていると考えた時点からそれは傲慢と偏見に陥る、百田氏の発言を聞いているとまさしく「偏見に満ちた傲慢さ」そのものだがそれが彼個人と言うより「我が大和民族は」と言う様な裏打ちから「私は日本人の代表的」と言うがごとくの発言が傲岸不遜なイメージをほうふつさせている、
どの部分をどう言う様に解釈し「優れた日本民族」と考えているか知らないが日本人の優秀さ(特性)として古来から言われている「葉隠」に代表される武士道もそれを紹介した優れた文書にも「日本人の謙虚さ」はかなり多く書かれていると思う、
謙譲と言うのは例え勝っても自らの力を誇示せず相手を称え自らの未熟さを自覚するという事で何の根拠もなく自分が他人より優れていると思うこと自体武士道とは正反対の考え方である、「永遠のゼロ」で特攻を美化しているらしいが特攻に赴いた彼らは本当に自らの意思だったとは思えない、例え時代の風でそう思ったとしてもそれ以前にあの愚かな命令を下したこと自体が問題になるべきで決して美化する話ではない、
知り合いの父親は当時海軍の兵で(将校ではなかったそうだ)上司から「特攻に行く兵の選択」を命令され、苦しみながら若い兵のリストを作成していたそうだ、流石に申し渡しは将校からされたらしいが彼が若い兵に死の順番を決めなければならないという立場に置かれたそうだ、その事は最近まで妻にも話さないで自分が印をつけた兵の家を行脚し頭を下げて廻っていたそうだ、
いったい何といって家族に会ったのか考えるだけでも恐ろしい、既に余命が限られた時に初めて彼にその事実を書いた物を渡したという、
戦争は少数の軍人に拠ってはじめられ死んでゆくのも殺すのも自らの意思を無視された庶民たちだ、最初から戦争を職としたいわゆる「職業軍人」は銃を撃ちことも無く前線に立つこともない、それでも終戦後は「軍人恩給」と言う手当てを貰い続けた、百田氏も安倍氏もこう言う事実を知らない訳も無いだろうが「一部の人間」になれると言う計算もあるのだろうか、
百田氏は知らないが安倍晋三氏は子供が居ないらしい、乃木希典は203高地の戦闘で真っ先に我が子を前線に送った、少なくとも明治の軍人はその程度の矜持は持ち合わせていた、無論戦争そのものは「愚かな選択」であるがそれなりの覚悟が大和魂や葉隠にはあった、自由と言うのは「我が思う儘に」するという事ではない