梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

カチューシャと小海線

2017-11-21 08:57:18 | 昭和の頃
今朝浮かんできたのは“林檎の花ほころび、川面に霞たち、君今無き里にも春は忍び寄りぬ”と言う歌詞、中々何の歌か思い出せない、
ググればすぐ分かるだろうがそれでは情緒が無い、珈琲が落ち切った後で次の歌詞を思い出した、
”カチューシャの歌、はるかに丘を越え“で思い出したが果たして歌の名前が正しくそうだった不明だが当時はそのまま「カチューシャ」と思っていた、
これは合唱歌の様なジャンルで歌謡曲の様な「カチューシャ可愛や、別れの辛さ」と言うのもあった、
当時小学校だった私達は学校でこんな歌を音楽の時間に合唱した記憶が有るがどう言う訳か「ロシア民謡」と言うジャンルが多かった気がする、
“雪の白樺林夕日が映える”の「トロイカ」や“黒い瞳の若者が・・”などと言う歌もあったが後の曲は学校では無かったかもしれない、
当時若者向けに平凡と明星という雑誌が有って姉たちが買っていてそれに歌詞の小雑誌が付いてきていた、長い事家にあった気がするが当時小学生だった自分には1~2年は随分長いので実際は短い時間だったのかもしれない、
因みにこの頃の雑誌は未だ月刊で30年代後半には殆どが週刊になった、
はがきを横に切った程度の細長い本で質の悪い紙に単色でイラストと歌詞が書いてあると言う程度の物だが結構繰り返し見ていた気がする、
ラジオから流れるのは歌謡曲なのだが記憶の中ではこのような愛唱曲の様な歌詞が多かったのだが今考えると著作権のせいだったのかもしれない、
「高原列車」と言う曲の”汽車の窓からハンカチふれば牧場の乙女が花束投げる“と言う歌詞ページのイラスト(挿絵と言った方が似合う)が何となく覚えている、
この路線はJR国内最高地点のある小海線だと言われていて還暦を過ぎてから女房と乗ってみたが当然ながら電化・高速化していて“牧場の乙女”は花束なんぞ投げても吹っ飛ばされる、大体牧場も無ければ乙女なんぞもいる訳も無いのだが、
それでも窓からどうやら牧場らしき草原も、僅かながら白樺もあって満足は出来た、
しかしあんな所が何で小海線なんだと思ったら途中駅の観光案内にあの辺りに湖が有ったらしい、いつ頃なんで干上がったのかは覚えていない、
同じ様な曲名で「高原の駅よさようなら」と言うのもあったがこっちは完全に演歌歌謡で「しばし別れの夜汽車の窓よ、言わず語らずに心と心」である、
今の連中には「好きでわかれる」のは理解できないかもしれない、「諸般の事情」なんぞは理解の外と「ばっかじゃないの!」と言われそうだが東京新聞の中学生川柳なんぞを見ているとやっぱり本質は変わって居ないのが少しうれしい、
まあマスコミ報道は「犬が人に嚙みついてもニュースにはならないが人が犬に噛みつくからニュースになる」と言う事で出ている記事はレアケースなんだろうな、
しかしあまり過熱報道をするとそっちが多数ケースの様な印象を与えてしまう、それに倣うのは未熟な若者の致し方ないことかもしれないがいい大人だったら一歩踏みとどまって貰いたいものだ、
無論マスコミの功罪中“罪”をもう少し自覚すべきが一番ではあるのだ

微妙な話、

2017-11-15 10:01:07 | 雑記
毎朝同じ時間にバスに乗るので殆どが顔見知りである、おなじバス停で顔を合わせる間では時候のあいさつ程度の会話は有るが同じバスに乗り合わせる客同士は多分互いに知ってはいるが挨拶をすることも無い、
その中にどうやら若干障害のありそうな男性が居る、中肉中背より少し大きめな体格の30年代後半と見える男性で、ぶつぶつと独り言を言って居たりバスを降りると奇声を発したりするクラスの人だが毎日早い時間帯に同じバスに乗って何処かに出掛ける様なので普段の生活に問題はないと思うと言う方である、
先日雨の朝バスに乗り込んだら彼が二人掛けの椅子の真ん中に足を広げて前かがみに座っていた、
ちょっとマナー違反だなとは思っても(まあ、仕方ない)とも思わない程度で少し離れたところに立っていた、
次のバス停で見た目は60代前半と思える男性が乗って来たのだがすこし足を引きずっていて杖を持っていた、
彼はこの乗客をみたらごく自然に脇によってこの男性の座る場所を作った、男性は「すみません」と座ったのだがその時彼はふと私の顔を見て目が有ったら目をそらした、
私の中に(彼は承知で私に席を開けなかったのか?)と言う気持ちが湧いてきた、
彼の中にどういう判断基準が有るのだろうか、私は70に近いが多少元気そうには見えるがそれとは関係なく二人掛けを一人で座っているのはマナー違反だと言う事を理解できないのかと思っていたが足が不自由なら席を空けなくてはならないと考えるなら至極普通の判断力が有ると考えられる、だとすると別の基準が有るのかもしれない、
しかし、眼をそらした所を見るとある程度どころかかなり判断力が有りそうな気もする、
「身体に何らかの障害があると見たら席を譲る」と言う事は保護者や関わる方が教えたのかもしれないが一般的なマナーと言う事はどうなんだろうか、彼の中ではどういう判断基準になっているのか?
微妙な感覚のする出来事だった、念のために書いておくが決して彼の様な方に特別な感情が有る訳ではない、
判断基準がどうなっているのかなと考えたと言う事である

星空の昭和時代

2017-11-14 09:16:03 | 昭和の頃
六八コンビのヒット曲に「上を向いて歩こう」と言うのがある、
「上を向いて歩こう、涙がこぼれない様に、泣きながら・・」と言う歌詞で一世を風靡し海外でも随分売れた、
海外では恐らくメロディが売れたのだろうが当時の若者達にはこの歌詞が心に沁みた、
昭和30年代後半からの庶民生活は何時も「涙がこぼれない様に・・」頑張っていた、
(何時かもっと幸せになれる)と頑張って生活をしていたがだからと言って「今が不幸」かと言えばとりたてて(不幸な生活だ)とは考えていなかった気がする、
すくなとも自分は(自分は不幸だ)と具体的に考えていたことは無かったし一緒に働いていた連中もそんな話になったことは無かった、
同じ坂本九の歌にも「見上げてごらん、夜の星を」と言うのもあり、島倉千代子と守屋浩の「星空に両手を」でも若者は自分たちを星屑になぞらえて「ささやかでも星の一つ」と生活を営み、「きっともう少し幸せになれる」とその日を暮らしてきた
あの頃は確かに東京でも安アパートの建っている町では見上げれば未だたくさんの星と天の川も見えた、
小さな窓の明かりに帰り狭い6畳くらいの部屋にわずかなお勝手と共同トイレに洗濯機置き場の住まいでもそんなに自分たちが不幸だとは考えていなかっただろう、
しかし今の都会は明るすぎる、深夜になっても「見上げてごらん、夜の星を」とはならない、星屑になぞらえる事すら出来ない都会になってしまった、
若者には夢が無いと言うが今を肯定できなくてなんで夢が持てよう、隣の友人も同じような生活をしているのになぜ自分だけ不幸だと考えるのか
今の日本は社会的にも比喩的にも人工的な光量が多すぎる、そうなったのは何時頃からか、そうなったのは何のせいなのか、
「降る雪や明治は遠くなりにけり」は大正ロマンを産んだかもしれないが「昭和は遠くなりにけり」は夢を失った若者と先行きに不安を抱えた高齢者と一握りの高額資産家を生み出した
今上天皇が来年退位された後どんな時代が待っているやら

春でなくとも曙は

2017-11-13 09:05:49 | 雑記
6時頃、ごみを出しに外に出た、何度か行ったり来たりしながらだが漸く肌寒いと言う朝になって来たが未だ寝間着で寒いと言う処までには来ていない、
日の出も徐々に下がって来てこの時間の空はうっすらと明るくなりかけて青みがようやく見えてくる、
今日は好天気になりそうだ、東空の低い所に少し有るだけで殆ど雲は無い、雲の後方から朝日が当たって縁が明るいオレンジ色になっている、
私は未明から日の出にかけて車を走らせるのが好きである、同じ様に夕日が沈む時間も好きなのだが朝日はどんどんと開けて来て太陽光でいっぱいになって来る時間帯がなんとも言えず(さあ!がんばろう)と言ったポジティブな感じが良いのだ、
夕日が地平線に沈み家並みの灯りが浮かんでくるのも情緒的でいいのだがやはり寂しい気分になる、歳とともにだんだん暗くなるのは少々厄介だ
まあどちらの時間帯だとしても絵になる歳ではないのだが人の意見を無視してやはり未だ楽しみたい、
40代まで車はクロカンだったのだが70を越えての車はどんな奴が良いのだろう、
日本の車は確かに高性能で取り回しも楽だ、仕事でレンタルするのはもっぱらリッターカーで燃費も乗り心地も満足するレベルなんだがやはりあまり面白くはない、純粋に前記の様に楽しむならと考えると思い切り遊びに徹して乗ってみたい気がする、
マツダのロードスターを試乗したのだが私のウェストだと乗降りが大変だった、124スイダーも基本シャーシーが共通なので同じなんだろうな、
金に糸目がなければモーガンプラス4か、新車では800万位する、もう少しターゲットを下げ20代の頃憧れたオープンならMG-Bタイプなのだが流石に古い、Vで230万~程度だがFタイプなら今60~80万程度、BMWのZシリーズは最近あまり好みではなくなった、
最初にあこがれたのはホンダS800M、並行輸入車をフルレストアすると800万位になるらしいがあれは夢だったから一度は乗ってみたいと言うか所有してみたい気がする、
まあ経済的にはレンタカーが関の山だが未だ地平線の裾が少し白みがかるころからあの手の車を走らせてみたい気持ちは未だまだある、せめてアクセルとブレーキを踏み違えないうちにね
先日ラングラーがリニューアルすると出ていた、やはりあっちも若干未練が有る、

世界総資産の半分以上は7人で持っているらしい

2017-11-11 12:35:06 | 雑記
経済ニュースポストでこんな記事が出ていた、
1位:ビル・ゲイツ(マイクロソフト社創業者)
2位:アマンシオ・オルテガ(スペインの実業家。ZARA創業者)
3位:ウォーレン・バフェット(投資家)
4位: カルロス・スリム・ヘル(メキシコの実業家。中南米最大の携帯電話会社アメリカ・モビルを所有)
5位:ジェフ・ベゾス(Amazon.com創業者)
6位:マーク・ザッカーバーグ(Facebook創業者)
7位:ラリー・エリソン(オラクル創業者)
8位:マイケル・ブルームバーグ(前ニューヨーク市長)
報告書によると、上位8人の資産は合計で4.26兆ドルで、全人類の下位半分の資産に匹敵する。プレスリリースは、報告書について「大企業と超富裕層が税金を逃れ、賃金を下げ、政権に影響を与えることによって、いかに格差の広がりに拍車をかけているかを詳述している」1年前に発表された2016年の報告書では、下位50%の資産と同じとされていたのは富裕層トップ62人だった。今回のプレスリリースによると、新たにデータが加わったことで、前回の調査とは値が大きく変わったという。もし新しく加わったデータが前回も使われていたとしたら、富裕層の上位9人の資産が、世界の下位にあたる人数の資産と同等に当たる。
新経済論を引くまでもない、金はあるレベルを超えると勝手に増える、
「金が金を産む」と言うのは正しくない、金は金を収着するのだ、金が生まれる訳も無い、
金が勝手に生まれたらすぐに大インフレになってしまう、しかし富の集中は消費能力を衰退させその結果は現在の状況通りデフレスパイラルを引き起こす、
日本の資産家(アメリカ資産家はかなりアグレッシブだが)これだけの資産を持っていればリスクは限りなく少ない、
僅かな元手の者と莫大な者がポーカーをやってみれば簡単に分る、千ドルしか持たない賭手が破産するのにかかるのは相手が千ドル以上のレイズをされた時点で終了する、
日本の資産家の大半は国債を購入して安全な運用をしているだろうが国債の金利は国が支払っている訳だがそれは税金であることに変わりはない、
余った余剰金を国に貸し出して税金で更に資産を増やすと言う事になる、
日本で言えば10%以下の資産家に残りの90%が税金を吸い取られている訳である、そしてこの状況は改善する訳も無く更に富が集中する事は自明の理だろう、
他の記事ではアメリカの上位3名の資産が資産分布の50%を上回っていると言う、
「日本ではなんで暴動が起きないのか」と言う記事を見た事が有るが今回の発表に有ってもなんでアメリカは暴動が起きないのか不思議である、
トランプ大統領が「不公平な貿易で我が国の雇用が奪われている」と言うようなアジテーションで低所得白人層の支持を得たと言うが実際にアメリカの貧困層増大の主たる原因は恐らく「新自由主義」にあるだろう、
確かにアマゾンのジェフ・ベゾスとビルゲイツはIT企業であるが現在ではグローバル企業であり金融である、
そしてウォーレン・バフェットは間違いなく投資家である、日本では大正期まで経済的不均衡になると打ちこわしと言う小規模の暴動は有ったがその度ある程度政府がコントロールできていた、しかし小泉政権ころからアメリカ式新自由主義のせいか小規模のデモンストレーションですら高圧的に抑え込んでいる様な感がする、
おまけに「共謀罪」である、こんなブログを書いても政府がその気になれば逮捕起訴が出来ると言う法律らしい、どうしてと言う質問にも「特定秘密法」で教える必要はないそうだ、どんな不法行為に当たるか説明しろと言っても「秘密保護の観点から」教えれれないとしたら裁判の弁護はその体をなさないだろう、
本当に嫌な世の中だね、
再度言いたい!資産課税にしろ!あるやつから取ってくれ、