梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

珈琲と漫画

2010-08-31 08:26:02 | 日記
何時頃からか毎朝珈琲を淹れる様に成った、生まれは静岡なので東京に出るまではお茶だった筈だがいつの間にか外で飲むのも家で飲むのも珈琲が主になっている。珈琲を飲み始めたきっかけは良く憶えている、中学を下りて上京し臨時工として大手電機メーカーに入った頃だから恐らく16歳くらいだったと思う、寮に借り上げられていた民間アパートは江戸川区の外れにあった、目の前を用水路が流れ隣は銭湯で銭湯と同じ名前のアパートだったので恐らく同じ持ち主だったのだろう、トイレは共同、風呂の無い6畳の和室に小さな流しが付いていて此処に2人づつ住んでいた、少し歩くと大きな道路があって左に行くと新中川放水路と言う川が流れていて奥戸大橋と言う橋が架かっていた、この通りに面して本当に小さな喫茶店が有った、間口は一間で奥行きは3間位か、入って左側にカウンターが有って右の壁際に幾つかのテーブルが有った、カウンターは椅子がある訳ではなくマスターが珈琲を淹れるスペースが区切られていただけだった、この辺の記憶は少しあいまいで年齢が定かでない、細身の長身で眼鏡を掛けていた様な気がする、今考えると凄いのだが毎朝入口の前に七輪だったと思うがコンロを出し焙烙で珈琲を焙煎していた、この香りが素晴らしくて飲んだことも無いのに入ったのだった、この店に1年以上通ったのは其処から数軒離れたところに貸し本屋があって休みの日は借りた漫画をこの喫茶店で読みながら昼を取るのが多かったからだ。食べ物はトーストとサンドウィッチにホットドックが有った、どれも東京に来て始めて食べた、焼いたドックに野菜とソーセージが入っていてケチャップが掛かり少し辛子が付いていた物でホットドックが好きだった、いつも皮の部分が微妙に焦げていてそこが好きな処だった、熱くなるとアイス珈琲を出すのだがグラスに大きな氷を入れて其のまま上からドリップする今では見られない本格的なものだった、その後他の店でアイス珈琲を頼むとまるでジュースの様な感じがして飲ま無かった。漫画と言えば私は小さな頃から好きで恐らく最初の頃見たのは姉の持っていた漫画でなので少女物だった、確か「あんみつ姫」と言うものだったと思う、その他の漫画は友達と言っても田舎だから少し上の先輩だったと思うが借りたか見せて貰ったと思う、「冒険ダン吉」「のらくろ」「サイコロコロスケ」等だった。東京の貸本で借りていたのはいわゆる「貸本ボン」では無く少々マニアックの物が出て来ていた頃だった、月刊誌の「ガロ」と「COM」が主で此処に面白い作家が数多く出ていて私は宮谷一彦と言う作家が好きだった、その少し後に好きになったのはカリスマと言われた永島慎二だった、この頃から暫く活躍しヒッピー文化の最盛期には新宿歌舞伎町にたむろして居た彼らに混ざって朝まで飲んでいたりして此れが漫画になっていたりしていた。又その後漫画の方向が大きく変わった作家に「ずうずうしい奴」から成人漫画に行った「横山まさみち」が居た、その頃は純情なお下げの君との初恋を書いてた「ああ青春」と言う物だった16~17の私は憧れの漫画の一つだった、未だ書いている作家もいるがあの頃は今とは少し雰囲気の違うジャンルだったな

子供手当ての影響

2010-08-30 10:12:24 | 日記
子供手当ての反対給付で「扶養控除の廃止」があって此れが低所得者に影響を出している、控除廃止に伴って所得が多くカウントされると所得税が増える、所得税を基礎にしている地方税も増える、そして今度は公立保育施設の保育費まで上がると言う、政府は急いで法整備をしていると言うが保育園は地方自治が管轄しているので通達になる、この整備のためにどの位のコストが掛かっているのだ、所得制限無しで配布する手当ては平均年収の数倍の家にも行くが平均年収の家庭には保育費が上がるだけでも何処かに皺寄せが来る、いや民間に行かざるを得ないとすると子供を預けて出たパート給料は殆ど消える、それでも入れない待機児童が何十万人と居る、児童手当の予算で安く安心な保育所をいくつも作れる、品川区方式で廃校を使う、構造不況で空いた施設を改築する、此方に投資した金は地方の道路より有効に機能する、土木は大手ゼネコンに廻る、しかし区で直接発注すれば地方の中小工事会社に仕事が廻る、保育士資格も補助的な資格を設けて其処にも雇用を創出する事で金は有効に廻るだろう、原資は逆進性の高い消費税ではなく日本の資産の1/4を保有している富裕層から「資産税」として徴収して貰う、アメリカの富豪トップ200人が保有する資産の半分を寄付するという話題が有った、日本にそう言う話が出たと言ううわさは聞かない、本当に日本人は駄目になった、働いても々家賃すら払えない国民が居て飯も喰わずに納めさせた家賃が使い切れないほどの金利を生む、奴隷制度に近い状況だ、この状況で子供を生み育てようと言うのは無理だろう、子供手当てをばら撒いても子供達は行き続ける事が地獄では生まない方が良いと言うのは当然だろう、政府は未だ党内の主導権争いに終始している、どちらがとってももう纏まらないだろう、政治をやってくれ

死刑廃止論議

2010-08-28 08:27:44 | 日記
死刑執行の部屋が公開された、単独房と死刑囚の手記も出された、今までの秘密主義に比べて死刑が具体的に見えた感が有る、死刑が犯罪の抑制と言う事ならば今までより効果は有るだろうが実際死刑に該当する様な犯罪を起こす者はその時点ではそんなことは考えて居ないだろうと思う、だとしたら犯罪抑制よりやはり被害者の精神的ケアの面が強くなるだろう、何れにしても犯罪は割に合う訳が無い、まあ政治犯罪と経済犯罪は割に合う様だが、犯罪と合法が経済人、政治家と一般人は常識に差があるからな。それはそれとして死刑廃止論者は残された被害者家族のケアをどう考えて居るだろうか、殺せばいいと言う事ではないだろうが家族を理不尽に殺した犯人がそのまま生き続ける事に納得できないのは心情として十分理解できる。国際的に死刑廃止に傾いているのも国連が勧告を出したのも知っている、しかしその殆どがいわゆるWASPだ、白人でキリスト教、しかし世界はいろんな文化が有る、そこにはその文化の文化基準が有る、彼らは牛と豚は食う為に育てたのだからクジラやイルカとは違うと言う。しかし殺される牛や豚が自分は食われる為に生かされて居たのだから喜んで殺されよう、と達観しているとは思えない、論点がずれて居るのだ。第一白人は楽しむために野生動物を殺して来た、元々ゲームと言うのは狩りの獲物の事だ、仏教を根源とした東洋思想では生は繋がって育むものと言う思想がある、植物も含め命を戴いて紡いで行くと言う観念で感謝をする事が習わしである、野生動物は生きる為の餌以外に楽しみで殺すと言う事は無い、テリトリーに侵入した相手に対しても追い出せば終わりである、人間だけが自分の為だけに、或いは無意味に生命を奪う、これを罰するのは人間が手に入れた文明と言う物の暴走を止める手段として止むを得ないだろうと思う、死刑の是非は(白人)国際世論に迎合する必要はないと思う、白人達は家族を殺されても寛大な心で許すと言うならそれで良いだろうが日本人はそれほど寛大になれないと言う事だ、そしてそれは人間全体に普遍的に有るべき姿だと言うには文化が違いすぎる、アメリカだけかも知れないが終戦間際の民間人を狙った爆撃、一般市民を殺戮する為の艦砲射撃、そして原爆、これ等は戦争では無くジェノサイドだ、死刑は人間の尊厳に反すると言うならあの殺戮は何だった、今の犯罪は確かに解らない事が多すぎて死刑が効果的かどうか解らないが通り魔的に被害に会った者達をどうケアすべきか、その為には未だ必要な気がする。

最低賃金と最低生活

2010-08-27 10:06:08 | 日記
最低賃金法の見直しがでた、しかし地方によってはフルに働いても生活保護のレベルより低いと言う、所謂ワーキングプアである。賃金は支払う側と受け取る側の両方に関係する、生産拠点はこの円高で更に海外に向かう、その為3次産業や流通に人が流れる、相対的に飽和状態になると人件費のディスカウントが蔓延って来る、しかし零細企業はそうしないと少ないパイにありつけない、元来物の価格もサービスもコストの積み上げで決めなければ何処かに皺寄せが来る。しかし人間の最低生活保障が得られない処まで労働費を削るのは文化的な国家とは言えないだろう。景気刺激に金融緩和を言われているが中小企業以下では先の見込みが無いのに借金はしない、仮に金利ゼロでも返さなければ成らない、借りた金で収益が見込めなければ先送りするだけだ、少ないと言っても金利が有れば更に首を絞めてくる。最優遇貸出金利で借入れをした金融機関はそれで長期国債を買う、しかしそれはおかしい事になる、国から金利無しで調達し今度は長期国債金利で金を国に貸すのだ、つまり金融機関は数字を一旦書き換える事で資産を一切使わず貸し出し利益を得ている事になる、此れが出来るなら我々庶民は絶対にたいが当然銀行の貸出金利は国債より高い、しかも担保が無ければ貸さない、更に言えば此れは国債の金利として国民が負担するのだ、少なくとも金融機関が国債を買うのは日銀から借り入れた総額を超える事を条件にするか、或いは国債金利は此れに限ってゼロにすべきだがこうなると結局金融緩和は何の意味も無い事になるだろう、新たな雇用を作らなければ成らない、今税金を大きく投入しても必ず日本の為になる方法が必ずあるはずだ、日本丸が嵐に向かっているのに何もしない自民党政権にノーを出して政権交代を実現した筈なのに新政権は操舵する事より「誰が舵を握るか」だけに終始しているとしか思えない、今横波を受けたら船は転覆する、船を常に波の来る方向に向けなければ成らない、彼らは政権と言うが政治は権力ではない、責務なのだ、政権政党だと言う感覚ではなく政責正当だと肝に銘じて貰いたい

西瓜

2010-08-26 09:52:54 | 日記
昨日久しぶりに西瓜を食べた、カットフルーツに入った程度の物は食べた事は有るのだが、漫画や挿絵の様な櫛型に切った奴を食べたのは此処何年かどころか女房と思い返しても10年以上は食べていない、お袋さんが生きている頃は時々買って来たのだが亡くなった後は自分達でかった記憶が余り無い、子供達は余り好きでなかったかな?と女房に聞いたらそれどころか「一度1人で1個食べてみたいと言われて1人に1個づつかった事が有ったから嫌いじゃなかった」と言う、この事は私は憶えていないのだが会社を始めた頃の社員で同じ様な事を行っていたのを思い出した、「漫画で見たので父親に西瓜を果物の様に皮を向いて丸ごと食べたいと言ったら誕生日にやってくれたけどとても食べ難かった、仕方ないので裸になって風呂場で食べたけどとても食べ切れ無かった」と言っていたのを思い出した。子供の頃は庭の畑で胡瓜と南瓜の隅に西瓜を植えたが上手く出来なかったのは何故だろう、この間新聞で何処かで捨てた西瓜の種から勝手に伸びてきて結実したと言う記事があったのに、その分植わっていたのはまくわ瓜だった、今まくわ瓜その物は殆ど見ない、プリンスメロンがその系統だろうがあの形の物が出ている事がある、子供のおやつは大抵このまくわ瓜とトマト、胡瓜だった、笊に入れて沢の中に浮かべて置いて学校から戻ると此れを食べてから遊びに出かけたり、時には食べながら出かけた、大抵川に泳ぎに行くのだが村の川のあちこちには冷泉が湧いていて水温が低い、此処で冷やしておいて泳ぎ疲れる食べるのである、村で西瓜を作っている家は無く西瓜は子供の憧れのおやつだった、しかし東京に出て来て暫くすると夏の冷たい物はビールに取って代わりやはり余り西瓜を食べる機会は無かった気がする、昭和40年代八百屋で売っているのは切ってあってもせいぜい半分までで大抵は丸のままだったので独り者が買って来ても結局食べきれず、冷蔵庫も小さかったので入らなかった、その頃友人と2人で真夏に静岡の浜岡海岸にキャンプをした事があった、御前崎から暫く150号を進み途中から海岸に向かうと防砂林が有って小高い土手になっている、その手前に車を置いてテントを張った、国道と防砂林の間は砂地の畑で落花生か玉葱が植えて有るのだが夏場は西瓜が多い、此処で野良仕事をしている人から西瓜を買おうとしたら出荷を終えた種取りを残してあるだけだから適当に持ってゆけと言われて中位の奴を2個貰って来た、しかしが夏の晴れた午後だからとても熱くなっている、友人と砂浜に穴を掘って生めておく事にした、念の為流木を何本か立てて置く、この頃この辺りの水は未だ綺麗で首辺りまで入って行っても足先が見える、友人は山梨出身で東京で初めて海水浴をしたらしいが当時の材木座に行ったらしい、私も一度行ったが余りの水の汚さで2度と行かなかったが友人は水の透明度に驚いていた、胸位の所で足を使って砂を掘ると大きな貝が取れた、夢中で取っていて「そろそろ西瓜でも」と戻ってみたら目印の流木は流されてしまい何処だかまったく分からない、2人で暫く探したが結局諦めてしまった。西瓜を見ると良くこのことを思い出す