梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

波乱万丈と言うほどでもないが、退屈する暇はなかったな

2024-07-31 17:13:35 | 昭和の頃
物心がついた頃は昭和は27~28年頃だった筈で未だ敗戦の後遺症が色濃く残っていたが朝鮮戦争のおかげで世の中は好景気に沸いていた
神武景気・岩戸景気と好景気はが続き中卒は「金の卵」と言われ仕事は幾らでもあった、
重電メーカーだった日立製作所は「三種の神器」が飛ぶように広がって白物家電から3Cと家電メーカーとして景気を謳歌し、亀戸では未だ自動化されていない工業製品を製作していた
亀戸工場は中卒新人だけでは足らず全国規模で臨時工を募集し、名古屋に居た私も履歴書を送っただけで採用されることになった
1年程職工として働いて正規登用の簡単な試験を受けて晴れて天下の日立社員になれた
臨時工の時総額8800円程度の給与は労働組合の力もあってどんどん上昇していって昭和40年頃東宝に移った頃は4万円弱になっていた
40歳に喃々とする頃世の中はバブル景気に舞い上がり、不動産の高騰は日本国内に多くのビルを建てて建築ブームに乗って未だ黎明期のCADに出会い、恐れを知らぬ性格と更に太っ腹の女房のおかげで暴挙、立ち上げた会社が一時は年商1億を超えた事もあった、
しかしバブルで立ち上げた会社だけあってバブル崩壊と運命を共に泡と消え、残った借金を齢75になった時、取れる訳のない借金は棒引きとなったおかげで細々と年金便りの生活を送る現在だが元々無一文で地位も名誉も縁のない無学の途が良い夢を見せてもらった人生はそれなりに面白かった
まあ、人生100年だとすれば「だった」とか「かった」と過去形にするにはまだ早い
「終わりおよければすべてよし」と言うが自分が終わるとき何をもってよかったと言うのかちょっと理解の外、
残った連中に迷惑を掛けない事を旨としたら象ではないが死期を悟ったらどこか誰も居ないところで野たれ死ぬのも悪くない
しかしそいつも子供にとって迷惑な話だろうから大人しくしているしかないか
女房殿がどう考えているのかは解らない、文句を言われたことは無いが諦めの境地かも知れない、改めて陳謝と感謝をしておこう

基礎体温が低いのが

2024-07-30 08:52:01 | 雑記
暑い!言っても始まらないがつい口に出てしまう
37℃と言えば体温より気温が高いので風を送れば余計に暑いと言う事になる
糖尿病対策として食事コントロールと年齢の関連で毎朝血圧と体重、それに体温を事務所についた時点で記録をしている
そこで自分の体温が平均で36.2℃程度である事を知った、日によっては36℃を割る事もある
基礎体温がかなり低い様だが一般的にはどの位なんだろうか?
かみさんに聞いてみたら「36.7℃」位が基礎体温の様だ
それでかみさんが暑さに強いのかと思ったが其れが医学的に正しいのかはわからない、
解らないがこの位の気温だと理屈から言って耐性温度が違うのは理屈から有っているのじゃあないのか
つまり私は気温が36℃を超えると扇風機の風は逆効果になるのだがかみさんは37℃近くまで扇風機の風は効果が有ると言う訳だ
但し、(36.6℃でも扇風機で耐えられる)かと言えばやはり厳しいだろうし、老人は熱中症になってしまうだろう
昨夜の最低気温は28℃、その前は30℃だった、流石にこの位だとかみさんもクーラーが要るのだが一般的に言う熱帯夜の最低気温は25℃以上の夜だ
従がってかみさんは通常の熱帯夜だと寒いと言う、何とか頼み込んでクーラーをつけて寝るがしっかりとタオルケットにくるまって寝ていたが基礎体温の差だろうと納得した
今朝は8時前バスを下りたら既に31℃になっている、いったい何時まで続くんだろう

カンナと夕立

2024-07-27 15:56:34 | 昭和の頃
公園や道端にカンナの花が毒々しい程鮮やかに咲いている
子供の頃、掛川城公園の前を流れる逆川にいっぱい咲いていた、
どうも一年中咲いているような気がするのだがどういう訳か自分には夏の花である
カンナと百日紅、そして夾竹桃の花を見ると(暑い!)と言う気持ちになる

   
特に夾竹桃は暑い上に埃っぽいと感じるのは樹勢のせいか、(夾竹桃は画にならないので画像がない)
暑さにも環境にも頑丈の様で高速道路の植え込みにはあちこちに植えられているがこの木は毒が有るらしい
バーベキューをした時に箸が足らなくてこの枝で代用をしたら中毒死したと言う話が有ったがどうやら都市伝説の一種らしい
昔車で営業をしていた頃住宅に大きく道に張り出した夾竹桃が有ってその下に車を止めて昼寝をしたことが有る
未だカークーラーなんぞは営業車にはついて居なく窓を全開にして昼寝をした
午後の陽射しは結構の速さで移動する、寝すぎる事のない丁度良い場所だったがあの頃は左程駐車違反にはうるさくなかった
江戸の夕立は馬の背を分けると言われたが遠州地方でも夏の夕立は本当にくっきりと降る、
くっきりと降ると言うのはおかしいがまるで円柱のような雨足がすごい勢いで走って来る
大急ぎで何処かの家先に駆け込んで通り過ごすとほんの数分で走り去って又元のカンカン照りの陽射しが戻って来る
昭和の田舎道は未だ未舗装で、炎天下で真っ白に乾いていたその上を夕立が通り過ぎると乾ききった道路は水溜まりは出来るがしみこむことはない
夕立が通り過ぎると巻き上がった土誇りの臭いがする、一時的に打ち水のような効果で涼しくなるがその後は蒸し暑さが戻って来る
そろそろ陽が落ちると言う時間なら夕方が楽になるのだろうが夕立と言う割には2時か3時頃の時間が多いのであまりその恩恵には授かる事は無かった
先日練馬で降った豪雨は今では「ゲリラ豪雨」と言う様だ、昔の夕立の比ではないのか川が氾濫した様だがもう一つはあまりに人工的になった街の地表のせいかもしれない
あの時練馬では1時間で一気に12℃も気温が下がった、大田区、品川区では遠く遠雷が聞こえ(ダブった)稲光が有ったがほとんど降らなかった
(こっちも下がってくれたら)と言うのは愚痴か、まあ~暑い!








蝉と夏休みと

2024-07-25 16:55:28 | 昭和の頃
朝コーヒーを淹れながら「今年は蝉の声が聞こえないな」と気が付いた
去年までは梅雨が明けるころ朝から結構うるさく泣いていたのだが陽が上がっても全く聞こえない
団地の中庭にある桜の木が減ったせいかと思ったが伐採をしたのは一昨年の秋だったから去年と木の数は変わっていない筈だ
(関東大震災の時、蝉が一斉に鳴き止んだ)と言う話を思い出して(もしかしたら・・)と考えたが暫くしたら細々と鳴き始めたがすぐ鳴き止んだ
去年か一昨年ブログに書いたのだが此処10年程でこの団地の蝉はアブラゼミからクマゼミに入れ替わってしまった、
引っ越した頃はアブラゼミだったが少ししたらクマゼミのシャンシャンと言う声が混ざって来たなと思ったら去年あたりからシャンシャンに占められてしまった
私の生まれ育ったのは遠州なので基本的にクマゼミである、真夏になると喧しいくらい大勢で鳴きわめく
障子をすべて外して濡れ縁間際に裸で寝転んで汗をかきながらこの声を聴きながら昼寝をした、
クーラーどころか扇風機もない時代の事である
夏休みは朝から川で泳ぎ、帰ってくると裏の沢水で冷やして置いた胡瓜を半分に切って種を掻き出し、船形にして塩を擦り込んで食べる
そして畳に仰向けになって昼寝である、当然宿題は夏休み最後の3日間で必死に片付ける、いや片付いた事は無かった
夏になると風呂は沸かさない、暑くて竈の前に座っていられない、子供の仕事だが親もそれは大目に見てくれて行水を使う
尤も子供たちは川で思い切り泳いでいたので使う事は無かった
考えると理科の教科書に載っていたゼミはアブラゼミだったな、「ミンミンゼミともいう」と書いてあった記憶が有るが紙の教科書だから声が聞こえるわけではない
イラストの蝉はアブラゼミと書いてあるがクマゼミとほぼ同じだからずっとシャンシャンと鳴くのはアブラゼミだと思っていた、東京に来てからあの「ミーン、ミン」と言う鳴き声を聞いた(なるほどミンミンゼミだ)と感心したのだが
ある時「ドクタースランプ」と言う漫画で作者の鳥山明が「漫画の中で夏のシーンを書くと蝉の声をシャンシャンと書いていたが東京では通じなかったのか」と書いていた、
確かに彼の漫画では入道雲にはシャンシャンと書いてあった、彼は名古屋から動かなかったのだ、
クマゼミが箱根を越したのはいつごろか?今では江戸を乗っ取っているみたいだが日比谷公園や皇居の蝉はなんて鳴いているのだろうか

荒城の月と城下町、

2024-07-23 10:57:00 | 昭和の頃
荒城の月と言う曲を思い出そうとするとどういう訳か「松風騒ぐ、丘の上」と言う歌詞を思い出してしまう
三橋美智也が歌って一世を風靡した(おおげさか)「古城」と言う曲の歌詞だった、「春 高楼の花の宴、廻る盃影さして」滝廉太郎と土井晩翠に失礼なはなしだが、
私の生まれた掛川と言う街も城下町で街の北外れに小高い城山があった、
当時は「掛川城公園」と呼ばれ、堀替わりの逆川と言う川を渡りセメントで補強された石段を上がると20m四方位の台上に火の見櫓と観音像が建っていた
いつ行っても殆ど人のいない公園だったが15㎞も山奥の村から一番近い都会に出てくると必ず登る城跡は私の中では街のシンボルだった
観音像は日露戦争勝利の時に記念に建てられて「戦勝観音」と言われていたのだが敗戦の後「平和観音」と改名した
「古城」の歌詞では朽ち果てかけた大手門や天守閣が有る様だが荒城の月は建物は無いようで恐らく跡地だけのような印象だったが
掛川公園も残っていたのは小さな「太鼓櫓」と言う建物と本丸跡に大書院が残っているだけで公園には城の面影はまったくなかった
天守閣が有ったと言う観音像の広場に立つと南に街並みが駅まで続くのが見え、東側に二の丸跡の寺院と高等学校の森がみる
北側には東海道を挟んで田園風景とその先はなだらかな山が続いている、
梶光男の「青春の城下町」の歌詞「流れる雲よ、城山に、登れば見える君の家」の方がぴったりくる景色だった
しかし現在は城山公園では無くその場所に昔のままの工法で復元された城が見事な雄姿を見せている
現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に日本初の「本格木造天守閣」として「東海の名城」と呼ばれた美しさをそのままに復元されたものです。
https://kakegawajo.com/movie/kakegawajo_60s.m4v
今ではこのお城が掛川のシンボルだが自分にとってはやはりあの誰も居ない、観音像の立っている砂利敷の場所がシンボルだった
故郷を離れた人間にはノスタルジーだがずっと住んでいる人にとってはリアルなんだからしかたないのだが甘酸っぱい思いは記憶の中しかないのは残念でもある