梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

あの頃の遊び、「エス」

2012-11-29 15:03:25 | 雑記
子供の頃“エス”と言う遊びが有った、無論サドでもビアンでも無い大勢でする陣取りゲームの一種である、
その頃私の田舎ではこの遊びを小学校の学年全体で男女区別無く遊んでいた、
自分の子供の頃は実にポピュラーな遊びでどこに行ってもこのゲームは有ると思って居たのだが聞いて見ると殆ど皆知らない様だ、若しかしたら私の育った山の中だけの遊びだったのか、時代が過ぎた今では恐らく分らない、それも今でも有るかも分らない
学校ではドッジボールとソフトボールが主だったのだが下校すると道具も平らで広い場所も無い、少しの広場に線で陣地を書くだけで出来るこの遊びが一番手軽だった、
ルールはシンプルで適当に参加人数に合わせた大きさでアルファベットの「S」の模様を書く、上下の輪になった部分が互いの陣地である、
輪の切れた所が出入り口でこの位置から一番遠くに更に丸か四角を書いて此れが「宝物」である。
Sから出たら行動は片足立ちで移動しなければならない、東京で言う「ケンケン」であるが我が故郷では「チンチン」と言っていた、
男子のシンボルは「○○棒」か「○○コ」と言うのでこの言葉には何の抵抗も無く女の子も使っていた、
因みに女性の名前は「ツンビ」、女の子は「オツンビ」と言っていたが此れはどうやら今昔物語に京から坂東に向うと言う話に掛川が出て来てその中で女性器の事を「開」と書いて“つび“と言っていたらしいからその流れかもしれない、
脱線した、Sの中にある宝物を相手方に踏まれれば負けで、ラインを踏んでもアウト、Sの外で両足を降ろしてもアウトである、
攻撃と守備に分かれて攻撃手がケンケンでSの字に沿って相手陣地に向う、相手からは攻撃手に向ってこちらの攻撃手が戦いを挑む方法と逆方向から相手陣地に向う方法が有り、守備と攻撃のバランスを考えて作戦を立てるのだ、
陣地の線を踏まなければSの字の中から相手の攻撃手を引っ張って引き込むか倒せば其れも可なので敵陣近くで戦う事は余りしない、入り口付近で互いの守備陣営がラインをはさんで居るので突っ込んでくる攻撃に気を取られていると横から引き倒されたりするので油断が出来ない、
ローカルルールで入り口から離れた所に「島」と言う場所を作る事もあって此処は陣地と同じ扱いで両足で立つ事が出来るのだが2~3人で一杯の大きさなので外から体当たりで弾き出すと言う戦法もあったりして結構夢中になる、
真冬だとすりむいたりする事はまま有るが怪我をすることは殆ど無かった、
長幼入り混じっての戦いなのでどう配置するかも作戦で幼いから混ぜないと言う事は無いが最初に「泣いたら次から混ぜないからな」と言う事を言い聞かせての仲間入りである、
村の中学校は3つの小学校が一緒になる、その中でも1年生くらいはこの遊びをやっていたから山奥の我が小学校地域だけでは無かった様だが2年を過ぎると大抵この遊びを卒業してソフトボールやサッカー(未だ少なかったが)になってしまったが自分は(エスをやりたいな)と思うのだが多分やろうと言う奴は居そうも無いので口にした事は無かった

離合集散、何が小異で何を持って大同とするのか

2012-11-28 16:20:35 | 雑記
ダブル占拠である、両方とも任期を勤め終えての選挙ではない、全く勝手な物だが両方ともさっさと辞めて欲しかった事は間違いないからそれはそれで可としなければならないが兎に角どちらも進んで推奨できる様な顔ぶれが無い、
離合集散を繰り返し「野合だ」と言う意見に「小異を棄てて大同につく」と言っているが確かに此れだけ乱立すれば「小異」はありすぎるくらい有る、
兎に角殆ど同じ様な旗印なんだからそうなっても仕方ないのだが果たして何が「小異」で何が「大同」なのか2~3党の合流ならある程度分るだろうが四つも五つもくっついていけば各々同じ主張もあれば反対な主張もある、
AとBは同じだがAとCは違う、BとCは同意権だがAは少し違う、などと言う範囲を超えてくっ付く前の論旨とくっ付いた後の論旨が正反対な事なぞ当然の様に起きる、
様は政権をとりたいと言う一点でくっ付くのだから当たり前だ、確かに少数野党では何の力も無い事も確かだろうがたとえ与党になってもその後党内が紛糾する事は間違いないだろう、
しかし自民党の安定政権は少々長すぎた、長期の政権運営は現実的に安定的な事はあったかもしれないがやはり傲慢になってしまい、安保以降の様などろどろとした政権運営を経験しない議員が首脳となってくると同時に社会も長い安定時代とバブル時代の怠惰のせいで政治批判の能力も失われてしまっていた、
しかし自民党総裁が3人も二世議員が襲いしかも全て政権途中で投げ出すと言う醜態を演じその結果反動的に現政権に転がり込んで来たがやはり経験不足に加え気負いすぎた前のめりの運営で更に醜態を晒すことになった
今度の選挙で民主党を押す有権者は殆ど居ないだろう、しかし自民党に政権を渡せばそれこそ「禊は済んだ」どころか「自民党の政権運営は間違い出なかった」と言う意識が台頭すると言う事は火を見るより明らかだから其処にも行くまい
最後の3総裁が又揃って首脳に付いている所からどう見ても前回与党の座を失った反省は全く感じられない、
都知事選でもこの「小異」が自分にとって実に悩める所である、猪瀬氏は確かに他の候補から見ても現実的だが私の中でどうしても納得が出来かねるのは「オリンピック招致」だ、
あの金があれば貧困家庭の手当てや少ない保育所の充実、小学校の耐震化や下町防災にまわす方がずっと有意義だと思うし第一前回の選定でも「庶民のコンセンサスが見られない」と言う評価だったはずだ、一部を除いて反対意見のほうが多いと思う、少なくとも自分の廻りで「東京オリンピックは是非見たい」と言う人間は見られない、
松沢氏は自分にとっては論外の候補者で都知事は都民からを望む、笹川氏も自民党の古い体質をそのままと言う感じが否めない、
最後の宇都宮氏が今の所一番支持できるが政見のなかで自分には「国旗掲揚と国歌斉唱を自由にする」と言う意見はどうしても納得が出来ない、自分にとっては「小異」と切り捨てるのは難しい条件なのである

富裕層に資産課税を

2012-11-27 10:37:31 | 雑記
日本の富裕層(純資産1億~5億円)と超富裕層(純資産5億円以上)は併せて81万世帯、資産総額は188兆円だそうだ、
23年度の消費税収は10兆1990億円、逆算すると消費額は21兆9800億となる、
つまり日本の消費全体の8.5倍の資産を81万世帯が持っていると言う事になる
日本の世帯数は平成22年で凡そ5195万世帯、世帯数の僅か1.5%が消費全体の8年半分を保有している事訳だ、
この81万世帯の純資産に1%の資産税を課したらその金額は18兆8千億円、消費税の倍近くの税収になる、0.6%で全消費税収に該当する、
支出の内国債の利払いに9兆9500億を支出している、21兆円の消費税収から更に富裕層に利払いと言う形で“搾取”されていると言う事に他ならない。
国債の利回りは0.73%(11月26日)である、0.6%の資産税を払っても金融資産に振り向けておけば0.1%のプラスとなる訳である、
消費税を上げなければ国政が破綻すると言うが資産税にする事でこの問題は解決する筈だ、
しかも此れには準富裕層(純資産5千万~1億)の世帯と企業の内部留保は含まれて居ない、企業の純資産に課税するつもりなら0.01%でも国家予算は全て賄える、
富裕層1.5%が持つ資産は金が金を生む構造を利用して更に膨らみ続けるだろう、
消費が経済の根幹なら消費全体を押し上げる方策をしなければ景気は上向かない
車の動きが悪いからと荷物を更に載せる愚行はしてはならない。
消費税を上げる前にこの資産格差を是正できないなら資産課税に踏み切るべきだ

すいません、

2012-11-26 12:00:41 | 雑記
最近気になる言葉が有る、言葉と言うより文字と言うべきか、テレビ放送の中でわざわざ文字に書いて映し出す「すいません」」と言う文言だ
此れは「すいません」ではなく「すみません」と言う、元々この文言は「済まない」と言う言い方があり陳謝の言葉だから丁寧に「済みません」と言うのが言葉の意味だ、
一寸した失敗に親しい仲では「すまん!」と言うが「すいません」では「すあん!」になる、
最近これもテレビで「あたらしい」と言う言い方は「あらた(新た)」が変化した物だが現在では此方の方が市民権を得てしまい「あらたしい」と言う言葉は無いと言うのは確かに納得が出来る、
又「だらしない」と言う言葉も元来仏教用語の「しだらく」と言う言葉から出たもので「ふしだら」をひっくり返して使っているうちそちらが一般的になったものだと言う、
言葉は変化すると言うのは分るがそれは結果であって間違って変化する時に立ち会ったら正すのが当然だろうと言いたい、
「すいません」は発音の問題でそれでも通る事は確かだがわざわざ文字にしてテレビ画面に大写しする事は有るまい、子供達はそのまま正しいと思いかねない、マスコミの責任と言う物は結構重いと理解して貰いたい
数年前まで良く聴く言葉で聞き苦しい言葉に「なにげに」と言う言い回しが有った、流石にニュース読みのアナウンサーは使わなかったがタレントが放送で良く使っていた、
この言葉は「何気なく云々」と言うのが本来で「悲しげに」とか「楽しげに」と言う様な形容詞の中で「何となく、格別目的も無く」と言う意味で「何気なくそちらを見たら」と言う様な使い方をする、「なにげに」では全く意味が通じない、
ついでに今若い世代では略市民権を得た「チョー・・・」と言う言葉も本来文字通り「超える」と言う言葉だ、
比較で最高或いは最大を更に上回ると言うときに使うはずで「超大型」とか「超高速」と言う様に使うのだが今は「凄く」と言う様な意味で使っているらしい、此れが世の中全体に広がってしまうと大宅壮一氏ではないが「一億総白痴化」と言う様な言語社会になりそうな気がする、
「だらしない」とか「あたらしい」とかの様に言い換え程度なら未だ元々の意味を知った上での粋がりだろうが今の変化はまるで日本語の意味を考えていない、情け無い話しだ
小学校1年から英語教育等と言うより最低限の日本語をしっかり教える方が先決だろう
日本語が理解出来ない人間が英語に訳したら其れこそ訳の分らない英訳になり誤解が誤解を生む結果になるだけだ。


幼い頃(写真)

2012-11-25 08:09:20 | 雑記
幼い頃の写真が一枚だけ有る、一枚だけというのは若干違うがこの写真以外は全て学校で移されたものだけである、
私が幼い頃と言うと未だ昭和も30年に届いていない頃の事であり都会はともかく私が住んでいた山間の村ではカメラという物自体持っている家は殆ど無かった、
少くとも自分の知っている家で持っている家は無かったと思う、写真が撮られたのは多分自分が小学校3年生位だと思う、来ている学生服は泥だらけでボタンは一番上としたから2番目の2個しかない、となりの家にいた自分と4つ違う初ぼうと言う子供が見たところ未だ学校に行っていない様だから恐らくその頃だろう、
真ん中にお袋、周りに居るのは村の娘達である、おふくろを含めて全て和服である、
お袋は和裁が得意で市内から4里も山奥に住んでいるのに市内からわざわざ以来いがある位だったので村の嬢さん達が農閑期になると和裁を習いに来ていた、
何年か続いていたのだが一度だけその「お針子さん」達と写真を撮す事になり市内から写真店の人を呼んで写した写真だったと記憶しているが何枚写したのか残っているのはこの一枚だけだ、
実はそれ以外にその時期前後に一枚だけ写真を撮してもらった記憶があるがこれは見たことは無い、私の村にはかなり古い温泉宿が一軒あった、今では4軒に増えているが子供の頃は真砂館と言う小さな宿だけだったがそこに来ていた客がなんの気まぐれか自分ともう一人いたと思うのだがバスを待つ間に会話が有って「写真を撮ってあげる」と言う事になった、記憶では若いカップルだったと思うのだがこれは少々自信はない、
子供の頃見る大人の年齢は若い大人、おじさんおばさん、爺婆程度の区別しかないので「比較的若い大人」と言う区分に入っている、
恐らく現像して笑い話で棄てられただろうが見てみたい気がする、
東京で働いていた次兄が戻って来た時にカメラを持っていたが結局撮してもらった記憶はない、カメラが趣味になった頃思いだしてみると当時最新式の二眼レフカメラだったのでおそらくマミヤかヤシカだっただろう、ゼンザブロニカの6×6とヤシカの6×4.5を持ったことが有るが6×6の縦二眼レフは使った事はない、
今の子供達は生まれた時からの写真が一杯有り恐らくVTRも有るだろうが自分達の頃は写真といえばモノクロでそれも殆ど無い、
学校で撮った物も入学時と3年生の集合写真位、あとは遠足の写真が数枚有るくらいだが逆に思いは深い物だ