梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

布川事件と死刑

2010-07-31 21:32:53 | 日記
布川事件のニュースを見た、宇都宮事件より酷い、もしかしたら同じ程度かもしれないが今回はかなりはっきりと証明された、誣告罪どころか全くのでっち上げである、担当警察官を裁かなければならないと思う、密室で多数に強権的に責められてしかもその自供ですら編集すると言う悪質さだ、彼らは法の持ち主と思っている様だが彼らは法の番人でしかない、一方で死刑廃止論が盛んである、こうなると確かにそれも致しかたないかとも思ってしまう、本来自分は死刑存続論者だがもし布川事件が死刑判決であったら、宇都宮事件の死刑が早かったら警察のでっちあげで二人は死んでいた、死刑には幾つかの断面が有る、大きく分けて被害者の感情だ、死刑廃止論者の言う「人道的見地」と言うのは被害者の感情を全く配慮していないと思う、死刑を受ける者はその犯罪で何の罪のない人間の将来を奪ったのだ、まさしく非人道的な行為をしたのだ、「人道的見地」外の行為だと思う、もう一方で犯罪抑止効果と言う意見が有る、しかし最近の犯罪には「自殺する勇気が無いから死刑にして貰う為」と言うものが出て来た、「弁護も裁判もいらないからさっさと死刑にしろ」と言う、そうなると死刑は抑止効果どころか犯罪の動機になってしまう、最近は死刑は廃止しても仕方ないのではないかと言う考え方になって来た、しかしそれには仮釈放が前提の無期懲役では余計にだめだ、終身刑やアメリカの様に全て刑期加算式にするべきだろう、あらゆる犯罪者も更生の機会をと言う「知識人」の意見があるが凶悪犯罪の再犯率は「更生は期待出来ない」と言う事を数字的に物語っている、奈良の幼女強姦殺人事件の犯人は自ら「出所したらまた同じことをする、死刑を望みます」と言っているのだ、確かに過ちで犯した犯罪もあるだろう、それをしっかり判断するところまでを踏まえて結論を出さないとならない、全ての犯罪者が更生すると言うのは余りに楽観的で理想主義すぎる、性悪質論者ではないが性善質論者でも無い、人間の本質が善であると言うのは大事かもしれないが本当に善の人々が被害にあうのだと言う事を十分に考慮しないとならない

貯蓄税

2010-07-30 10:12:26 | 日記
今朝TVで「消費税より貯蓄税を」と言う放送をしていた、大賛成である、このコメンテーターの表現通り「死に金」なのだ、消費する事に課税すると当然市場は冷える、持っているだけで課税されるなら消費に廻ると短絡的に考えるのは多少無理が有るかも知れないが少なくとも後押しにはなる、世界的にこの資産保有税が行き渡ればヘッジファンドの考えも多少は変わるだろう、貨幣は血液だ、どっかに溜まってしまえば国と言う体は弱ってしまう、血液を溜めている部分も国と言う体全体が弱ってしまえば血液その物の意味は無くなる、もう流行らないが「瀉血」と言う治療方法がある、溜まった血液を抜き取ると言う物だ、現代医学では使わないが国の経済には大きな効果が期待できるだろう、兎に角景気を持ち直させなくては成らない、物を流動させなければ所得も増えず、税収も増えない、そして何より希望と意欲が衰えてしまう、子供を育てる意欲は将来の希望が有ってこそだ、早急にやって貰いたいものだが法を決める連中はかなりの資産家だろう、恐らくかなりの抵抗が出ると思うが反対するなら国民の納得する理由を公共放送で発表して貰いたい、その直後に解散総選挙で信を問うて貰いたい、内閣不信任を国民総意で行う方法は無いのだろうか、私は勉強不足でその様な方法があるかどうかが解らないがどう見ても今の政治家が自らの資産を減らしても国民の為に何かをしてくれると言う様には見えないのだ、次の選挙まで待てと言われてももう待てる時期は過ぎた、国民自身もそうだが今の状況を次の選挙まで続けたら国際的に破綻しかねない、消費税を上げる為にあらゆる無駄をと言うが資産課税にすれば年収数千万の渡り鳥天下りも残した資産に課税される訳だからやがては全て無くすとしても取り敢えず税の負担を負わせる事が出来る、再三言うが死んでしまえば使えない資産を余生残り少ない連中が抱え込んで居る事は国民経済の腫瘍だ、相続が有るからごまかす奴も出てくる、相続は原則限度額内で残りは国が没収する、そして資産税を掛けて行けば日本はもっと暮しやすくなる。人が一生に使える金額なぞそう多くは無いだろう、しかし一方で明日の食事、住まいも覚束ない人達が多く居る、発展途上国の話ではないのだ、余りに情けない国の状態を恥と思って欲しい

大弛峠

2010-07-29 10:09:10 | 日記
ジムニーを(良いな)と思ったきっかけになったのは山梨から長野の川上に抜ける林道を走った時だった、恐らく24~25位の頃だったが今より林道規制が煩くなく関東近県の林道は殆ど走っただろう、このコースは未だ初めの頃で多分普通の2輪駆動だったと思う、塩山の先、牧丘から金武山と瑞垣山(実際の字は違うが返還しない)間の大弛峠を越えるコースで塩山出身の友人と超える事にした、春先の3月頃トライしたのだが果樹園の直ぐ先でアイスバーンが道を覆い、諦めて返って来た、再度トライしたのは多分7月頃だったと思う、前回引き換えした所から直ぐに荒れ道となる、切通しになった路面は雨水の流れた後が深い溝になり切通しも両側から崩れ落ちているのでU字溝かV字溝である、白茶けた路面は崩れ落ちた砂で走りすぎた後は凄い砂煙が上がる、直線部分は殆ど無く傾斜もきつい、暫く上って九十九折を繰り返す道路が左にカーブした所を曲がり始めたときに上から降りて来たのがジムジーだった、フルオープンでこの頃珍しいロールバーを付けてフロントをボンネットに倒してある、シムニーは切通しの傾斜が緩くなった崖を斜めに駆け登る様にカーブに突っ込むと猛烈な砂煙を立てて通過、バックミラーからは直ぐ消えたが直線路になって見下ろしたら砂煙を巻き上げながら勢いよく下りて行くのが見えた、「カッコいいよな」と友人と話しながら(買うか!)と考えたのがそもそものきっかけだった。林道は峠で左右に分かれる道がある、右に曲がると「夢の庭園」だと看板がある、友人が「是非見たほうが良い」と言うので寄って見る、そこは大きな岩が落葉松の間に無数にあり遊歩道が間を走って居る所だった、こんな山の上に有るのに滑らかな大石は確かに庭石のようにも見える、設備は何にも無いので短時間で此処を離れる、其のまま川上村におりて直ぐ別の林道で昇仙峡に下りたのだが最近の地図は林道が書かれていないのでどの道だったか解らない。その後ジムニーを暫く検討したのだが、如何にしても非力すぎて都内から高速に乗るのは少し怖い、友人と出かける事も多くなったのでマツダのボンゴ4WDを買った、パートタイムだったので効果は大きいが4WDステアロックはかなりキツイ、風雨がきつい時は走りが安定するので助かったが4WDを外すのに前輪のフリーホイルハブを手動操作で外し、数メートル後退しないと外れない構造だったので少し面倒ではあった、サンルーフが非常に大きく開くので気持ちが良い車で未だ元気だった義母を乗せて桜見物をしたときは大変喜んでくれた事を思い出す

憧れだった車

2010-07-28 09:35:48 | 日記
免許を取る前から車は好きだった、子供の頃憧れたのは関谷ひさしの漫画に出て来た「ジャガーEタイプ」だった、実際は「Type E」と言うらしい、何の漫画だったか覚えていないが同じ本にオープンタイプの写真が載っていてそのスタイルに引き込まれてしまった、運転が出来る様になるとホンダの「S500]から始まって「S600」、「S800」と続いた、ずっとオープンだったがどう言う訳かフェアレディには余り憧れなかった、その後「フェアレディZ」になったが「此れも良いな」と言う程度だった、フェアレデイは1600から始まって2000になったのだが前後してスカイラインが2000になってその後GT-Rが出た、日産のレーシングカー「R380」(だったと思うが)のエンジンをベースにしたものでスペックは凄かったが結局自分が憧れていたのはやはりオープンだった、アメリカ映画やヨーロッパ映画の車は大抵オープンでアメリカの大型オープンよりヨーロッパタイプの物が好きだった、デザイン的にはイタリアとイギリスが好きでフィアットの小型が850程度の物が有ったが此れはオープンではなかった、特に好きだったのはイギリス車でトライアンフのTR-7とTR-4が好きで一度中古で出ていたので買おうかと思ったことも有る、しかしシリンダーのガスケットが劣化していてオイルが浮き出していた、もうトライアンフ自体かなり厳しい状況でパーツが手に入るのは不可能に近い、手作りだとするとかなり掛かりそうだったので格安だったが諦めた、しかし本当に好きだったのはMGのBタイプだった、スペックはかなり評判が悪いが何としてもデザインが良い、AタイプやミニもあったがどうしてもBタイプが欲しかった、しかしその頃は子供が居てセカンドカーと言う訳にも行かず断念、その頃アウトドアに傾倒し始めていたので次に考えていたのは三菱ジープ、J58と言う奴だった、此れなら何とか4人は乗れるし女房も面白がっていたのでいいかなと思ったのだが試乗してみて(此れは無理だ)と諦める事にした、「鉄の馬」と言うとおり、乗り心地は最悪で、トラックの荷台でもこれほど酷くは無いだろう、ヒーターは昔ながらのラジエターの湯を使うタイプでクーラーなどは考えるべくも無い、山は良いだろうが旅行は不可能だ、じゃあセカンドにとスズキジムニーを考える、しかし此れは見事に非力だ、日本の狭い林道には実に良い車だが東京からそこに辿り着くまでが大変な苦労になる、それでも安いし維持費も楽なので悩んでいたら製作中止になってしまった、中古に出てくるのはマニアが乗り潰した残骸で「走るのか?」と言った物しかなくなってしまって此れも諦めた、子供が成人して孫と何処かに行くには子供の車が使える頃になって又最近考え始めたのだが残念ながら経済的に手が届かなくなってしまった、しかし持ち直したら今度はモーガンでも買ってみるか

庭の記憶

2010-07-27 19:22:00 | 日記
私の上に2人の姉が居たので初めの内は親子5人だった、家の前に少しの畑が有り自家消費の分だけ野菜を作っていた、その為色んな野菜を少しづつ作る、夏の野菜は瓜が多い、胡瓜と白瓜、ここらでは「じばい瓜」と言った、胡瓜は竹で棚を作ってぶら下がるように作るが白瓜は藁床を敷いて横に広げて作る、まくわ瓜、、トマト、この辺りは子供のおやつでもある、笊に入れて沢水に晒しておくと程よく冷えて居て学校から帰ると皆で食べた、胡瓜は味噌をつけてトマトは塩を付けて食べる、私は未だ緑色の所がある硬い青臭い奴が好きだったが最近東京で売っているトマトはやたらに甘くなってしまい余り食べなくなった、白瓜が出ていたので買って来たが漬物以外には余り使えないな、茄子と南瓜も作った、後トウモロコシも作ったな、此れだけ書くと凄い面積に見えるが実際は100坪程度のしかも段々畑だった、それでもやたらに取れる、出荷する訳ではないから一時に蒔くので出来る時期が重なってしまうのだ、それでも5人居た頃は捨てる事も無く残ったものは糠漬けにして食べたりしていたのだが、姉2人が中学を降りると就職で家を出てしまい、母が亡くなってしまうとそんなに出来ても仕様が無い、畑はいつの間にか花壇になって来た、今考えるとおかしな父親だったかもしれない、元々庭と畑の境目が余りはっきりしていなかったのに花壇になったら川原から漬物石くらいの石を運んできて花壇らしく設えていた。花は母が好きだった菊と芍薬位で菊の廻りにクロッカスを植えたのは母だ、父は野草を採って来て花壇風にする、春は漬物石で囲まれた中に畦道から取ってきたたんぽぽを隙間無く植えた、此れが時期になると見事な黄色の膨らみになる、春の内に山百合を球根から採って来て群生するように植え込んだ、此れも纏まって咲くので匂い立つ程咲いて見事な景観になった。もっとも此れは後で球根を食べる為でもあった、その頃ユリ根は結構な値段で売れたので小学生の頃は小遣い稼ぎに採った事もある、しかし母が作ってくれたゆり根の羊羹は美味しかった、小豆の羊羹と並べて紅白にして近所に配ったりしていた。話が彼方此方に行く、二人暮しになった年に父が何処から花の種を貰ってきた、「コロンブスと言うらしい、和名はアメリカ立ち葵と言うそうだ」と花壇の隅に蒔いたのだが大変に強い花で最初から見事な真っ赤な花を一杯につけた、背が家の屋根より高かったので恐らく3m近かったのではないか、株立ちで茎は濃い茶色で斑点がある、葉は尖った八手風だが柔らかい、オクラの葉に似ていたかな?花はハイビスカスのおしべが無い様な感じだったが色は非常に目立つ赤色だった、葉は地面から1,5m位の所から繁生し、その先端に花が無数に咲く、村には無い花で背が高くしかも色が派手なので結構目立っていた、しかし3年目の春先に家を捨てて村から出たのでその後はどうなったか全く解らない、暫く廃屋になっていたようだが浮浪者が入り込んだり子供が遊びに入ったりと無用心だと言う事で取り壊されたらしい、その後は何処かの金持ちが別荘を建てたとか聞いたが暫くして帰ってみたらあの頃の面影はすっかり無くなっていて当然「コロンブス」も見当たらなかった