梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

たんたんと、あるがままに

2022-12-05 10:51:08 | 我が漂泊の記
気が付いてみると夫婦とも親兄弟親戚はほぼ居なくなった、少し自分史を書くのも一興かと思いこんなカテゴリーで書き綴ることにする

中学1年生の春、もう少しで春休みと言う頃にお袋が死んだ、中学校のすぐ近く、川沿いにある村の診療所の白い病室は良く晴れた陽射しがいっぱいでお袋の死とは場違いな明るさだった、
軍医上がりの時永先生と悲痛な顔の親父を床に座って膝の間から見ていた、その日のうちに親父が隣家から借りて来たリヤカーに布団を敷いてお袋の遺骸を寝かせ一里余りの村道を引いて家に帰って来た、
葬式までの事は断片的にしか覚えていない、集まったのは親父の兄弟達だけで隣家の人だけの葬儀だった気がする、
兄弟も連絡が間に合ったのは東京の一番下の兄と6歳違いの姉だけで連絡が取れなかったり、遠く住まっていて手元不如意で来なかったりと寂しい葬式だった
市の火葬場では何人かいた筈なんだが自分の思い出の中には誰も居ない、
ドラマのシーンでは無いがやはりよく晴れた青空に煙突から上がる煙と焼却炉の鉄の扉ぐらいしか思い出さないがその後何度も見送って来たのでその記憶と重なっているのかもしれない。
家の向かい側の低い山の中腹には村の「焼き場」と呼んでいた火葬場があった、
大きな椎の木のふもとは擂鉢状に掘り下げられていて此処に木を井桁に組んでその上に棺を乗せて焼却する、
木材の火力はそれ程高くないので完全に遺骨にするまでには一昼夜を超える、村の当番役がその数十時間を交代で焼き続ける、
その煙は村中から見え、夜になっても木の間からその火はちらちらと見えた、我が家からは正面の山なので夜間に外に出ると見えていた
お袋は「ああしてみんながずっと見送ってくれる、私が死んでもみんなが“はるちゃんが焼かれてる”って思ってくれるんだね」と言っていたのだが、結局この村で初めて市の火葬場に送られた仏さんとなってしまってささやかな最期の望みも果たせなかった、
それから何人送り出してきたのだろう、そろそろ自分の番もかんがえなければならないが
「今までは、他人の事だと思ったが、俺が死ぬとはこりゃあたまらん」と言う辞世の句は一休禅師だったかな