梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

初恋、たぶん

2015-06-24 16:19:05 | 雑記

仕事で生まれ育った村の近くにちょくちょく行く機会が増えた、実質1~2時間の仕事だが結局1日潰れてしまうのでその度に生まれた村を見に寄ってくる、何と言う事もないのだが時間つぶしとやはり近くに来たからと車でぐるりと走って来るのだが平日の昼間は誰も居ない、十回以上そうしているのだが人の姿を見たのは2、3回だ、

私が生まれた家のあった場所は小さな家が建っている、ずいぶん前に聞いた話では何処かの人の別荘だそうだが自分としては(こんな所で)としか思えない、しかし何はともあれ自分が生まれた場所にはもう立つ事が出来ないのは間違いない、だから故郷に戻ってみたと言っても結局は村の中を見て回るだけになる、

当たり前だが随分変わっている、細かった県道は舗装されて広くなり、曲がりくねった所は直線に付け替えられて遊んだ山道も分らなくなっている、同級生の家も数軒は無くなっているが近くに立派な家があるので道の移動とともに引っ越したのかもしれない、時間の関係かもしれないがとにかく人は見えないので分らないがまあちょくちょくと知り合いに会う事になったらそれはそれで行かなかっただろうなと思う、

通った学校から家まで4km位ある、その間に3軒ほどあった店はもう一軒もない、学校そのものも小学校は残っているが中学校は無くなって市の施設になっていた、

無くなった中学校の手前から県道は別れて西の方角に行くと当時仲のよかった級友の家がある、中学を降りて東京に出た翌年に市内に引っ越していた父親が死んでしまい帰郷すると言うと級友の家に世話になっていた、そのせいか田舎の思い出ではどちらかと言えば友人の家の方が多い、我が家での思い出と言えば殆ど家事の思い出で遊んだと言う記憶がないが彼の家ではのんびりできた、

実を言うとそれ以上に楽しい思い出になっているのには理由がある、彼に4歳下の妹がいて自分が東京に出た時に中学に進学したのだが自分は末っ子だったのでこの妹が本当に可愛かった、と言っても16、17となって来ると妹と言う感情から別の感情に変わってくる、彼女もたぶん同じ様な幼い恋情の様なものを抱いていたと思う、それは友人もそしてその両親も認めるような関係で彼女が就職してもしばらく続いた、

友人が結婚た時彼の新婚旅行を見送った後彼の家に泊まる事になり(上京した後はずっとこの家に泊まっていた)両親から「次はお前たちだな」と言われていたのだが踏ん切りがつかないまま自分が30歳を超えたころ彼女は知らない人と結婚した、

自分が36歳になって遅い結婚をした後級友の奥さんから「彼女が亡くなった」と連絡を受けた、ずっとその罪悪感を抱いていた、彼の家の所に行ったがすでに級友は市内に家を建てて両親を引き取ったのでその場所は空き地になっている、

とそこに立って見ると(こんなに狭かったのか)と言う位の空き地である、家の前には狭い道路が通っていて道を渡ると小さな畑が有る、その先に狭い川が流れていてそこから大きく湾曲し家の脇に回り込む、だから家のすぐ前は手すりもない木の橋だった、

当時は結構幅があると思ったが今見ると沢に近い、彼女はよくその川で洗濯をしていた、

そこから少し奥に行くと神社がある、此処には彼女との記憶が有る、神社だけは全くあの頃と変わっていない、大きな樅の木もそのまま立っている、木の前で写したモノクロームの写真がある、

くすんだ神社の板壁も灰色に褪せた瓦屋根もここだけは40年前と変わっていなかった、おかしなものだ、生まれた場所には何の感慨もないのだが此処に来たらふと(ここで一晩寝てみようか)と思った、もし彼女の亡霊でも出てくるならそれでも会って見たい気がする、


モヤイとユリと思い出

2015-06-23 18:32:51 | 雑記

            

蒲田東口駅前ロータリーにだいぶ前から石造りの像がある、たしか新島だったと思ったが伊豆七島の加工しやすい石で造られていると思ったが、イースター島のモアイ像をもじって「モヤイ」と名付けられたと聞いた、これが長年の間にいい風合いになってきている、少し苔むしてきた感じが良い、確か此処だけではなく立っていたはずだが思い出せない、

広場を挟んで小さな花壇があるがここにはヤマユリが咲いている(山百合ではないかもしれない)周りには色とりどりの花が植えてあるのだが私はこちらの方が好みに合っている、山百合は故郷の山にはずいぶん咲いていた、結構香りが強く花粉も衣服に付くとなかなか落ちないのであまり家には飾らないが田舎の事で花なんぞを家に飾る家自体なかった、しかし市内では結構人気があって中学の頃はいい小遣い稼ぎになった、

山の中である、小遣い稼ぎは山や川で採ってくる、大人がやると金額もシャレにならないので問題だが子供の稼ぎは大したことはないしまあそんな事をするのは貧乏人に決まっている、実はそれで家計の足しにしたりしていた、大体田舎にあるのは食糧品を主にした雑多店しかないので使う先もなかった。

初夏は山百合の蕾が付いた形の良いものを朝採って町の花屋に卸す、仕掛け針で鰻をとり村に2軒あった温泉旅館に売る、これは結構いい金になるが形の良い鰻はそうはとれない、秋口に良い蔓を見つけておいて晩秋に掘り出す山芋が結構金になる、

更に冬になると真竹の枝が竹箒の枝を拾って竹箒屋に卸す、こちらもいい金になるがとにかくがさばるのが難点だったが、それでもありがたい収入源だった

何しろ新聞配達や牛乳配達と言う子供の仕事は山奥ではありえない、ほとんどの農家が牛を飼っているし、鶏やヤギも飼っている、新聞なんぞはほとんど取っていない、市内の子供達のアルバイトはない替わりに山では結構割りの良い小遣い稼ぎがあったのである

沢に行ってセリや三つ葉を採ってくる、田んぼでは田螺をとり、野蒜と酢味噌で和える、春は蕨やゼンマイがある、考えると結構金は掛かっていなかったかもしれないな、


鴉が喧しい!

2015-06-17 08:21:29 | 雑記

此処数日、やたらにカラスがうるさい、未だ暗い時間から十数羽が近所の家付近で大きな声で鳴き交わしている、大体鴉は「鳥目」じゃないのか?生ゴミの日だったからかと思ったがそうでもなさそうだ、とにかくsの鳴き声が大きい、何しろ目が覚めてしまう位なのだ、

鳴き方を聞いていると会話になっている様な感じがする、野太い声で低めの鳴き方をするとそれを別の鴉が同じ声で鳴く、すると少し離れた処で同じ鳴き方をすると言うのが伝言の様に続く、又今度は違う鳴き方で遠くで鳴くと段々今度は近づいて来る、かと思うと一斉に飛び立ったらしい、甲高い鳴き声で旋回する、遠のいたかと思ったら又近づいて来る、そんな状態が小一時間続くが6時半くらいになると跡かたも無く居なくなる、

16~17年前、住んでいる家の前に児童公園が有り此処に松の木が2本あった、「馬込の月」に良く似た姿のよい松だったが其処に鴉が毎年巣を作る、今自分はと抱卵の時期で鴉は非常に神経質でかつ攻撃的だ、我が家は一段高い所にあり丁度玄関の高さが巣の高さと同じ位にある、直線でも数十メートルしか離れて居ないせいで玄関を出て眺めているだけで鴉の攻撃意を受ける、この時は「児童が攻撃の対象になる」と言うので区に頼んで撤去して貰ったのだがこのあたりにそんな様子はないし大体営巣はツガイ単位で集団では無い、この数日の大騒ぎは一体何なんだ!


なぜ戦争が出来る国にしたがる

2015-06-16 19:15:47 | 雑記

日本は憲法によって「戦争が出来ない国」となっている、自衛隊の解釈はともかくとして「国家間における紛争を武力で行えない」国である、

「戦争が出来ない国」がどの位あるか知らないが大きな戦力(矛盾するが)を保有してある程度継続して戦える経済力を持った国としては他にはないだろう、

「国家間の紛争を武力で行わない、その起因性格のいかんを問わず平和的手段による解決を求める」と言う事は全人類究極の法だと言う事は異論はあるまい、しかしその法を策定し,全ての国が批准する事は非常に難しい、何処かの国が批准しなければ意味を成さない法律であることは間違いない、

しかし日本国憲法はその成り立ちに恣意的なものがあったとしても「戦争が出来ない国」になっている、日本にとってと言うより地球全人類にとって奇跡のような状態だ、

しかし、いま安倍政権はそれをわざわざ「戦争が出来る国」にしようとしている、「戦争が出来ない国」と「戦争が出来る国」それぞれのメリットとデメリットを並べる以前に「あらゆる国家間の紛争はその起因、性格のいかんを問わず平和的手段を持って解決する」と言う事は社会の理想だと思う、

人間以外の動物は種族間、異種間の紛争は生きる為の手段になる、共通の言葉を持たない生き物は「力」をもって解決するしか方法はない、それは獣と言う生き方の運命だが思想や権力、宗教文化を持たない争いだから一日の飢えがしのげれば事足りる、

人間はその知恵ゆえに際限のない欲望の求るままに対立を起こし紛争とし、それを力で押し切ろうとする、知恵がある故に「理不尽」な事は言葉では屈伏させられない事を十分に理解しているからこそ武力をもって解決ようとする、しかしそれは(決してそれは解決ではない)

人類社会として世界的にも稀有な憲法を変える必要は無い、現実的でないと言うなら現実しを理想に近づける努力をするのが日本国民の役割だ、

政府は国民の声を聞けと言って来たが聞き流すなら「政府は国民の意見に従え」と言いなおそう、政府とは国民の総意を実行する組織なのだから


ツイスト&チーク

2015-06-10 17:36:15 | 雑記

新京成線の高根木戸と言う小さな駅を降りて桑畑かそれとも梨畑だったか覚えていないがそれほど背の高くない木が生い茂った中を通り過ぎてだらだらと下りてゆくと赤土を削り取った中に日立製作所高根木戸独身寮があった、食堂と大きな風呂のついた棟と置き廊下で繋がった二階建ての建物が少し高い位置にあった、

新聞募集で静岡から上京した時は新小岩の駅近くにあった借り上げアパートの一室だったが1カ月もしないうちに小岩駅から少し歩いて中川放水路に近い所にある2階建てのアパートに移動した、住所は江戸川区上一色町だったが後でオウム事件で似かよった住所があって驚いたがあちらは「上九一色」で少々数字が大きい、

2棟建てで民間のアパートを借り上げているのは新小岩と同じだったがこちらはかなり新しい、風呂はないが目の前が銭湯だったので不便ではない、ここに2年ほど住んだあと引っ越したのが習志野の高根寮だった、

日立には男子寮はあったが女子寮というものは無い、しかし亀戸駅の反対側にセイコー社の錦糸町工場と言うのがあり此方は女工さんが大勢いる、亀戸駅近くで飲んでいたり喫茶店に入ったりすると知り合う機会が多い、自分は知らない女子に声を掛けるような勇気はないのだが友人にそういう事の得意の奴がいる女子にも同じ様なリーダー的な子がいる、一対一は何かとハードルが高いのだがグループ同士と言うと一気にハードルは下がる、

私はこういう時準備をして実行する様な事が結構好きである、

当時は今ほど遊ぶところはないがダンスパーティと言う形式の今でいう「合コン」をやる、

どこかの飲み屋でと言う訳にもいかないのは亀戸付近では我々は未成年であると言う事は知られている、店は構わないのだろうが会社の総務や組合は具合が悪い、「健全なパーティ」と言う名目で近くのスナックを借り切ってダンスパーティーを企画した、

この頃ダンスと言えばまだツイストの時代である、音楽は何でもよい、リズムの早い音楽だ、自分が持ってい「聖者が街にやってくるツイストバージョン」が好きでこれを掛けていたのでたぶんクリスマスパーティーと言う事だったのだろう、

ツイストも盛り上がるには都合が良いのだが本当に皆が楽しみにしていたのは終盤の「チークタイム」である、スイストアンドシャウトではなく、ツイストアンドチークだ、明かりを暗くしてと言うよりほぼ真っ暗にしてくっついて只〃揺れているのである、それでどうなるかと言えば殆どの連中は「それだけ」なのだが純情な10代が堂々と女性と触れ合うのはフォークダンスとチークダンス位だ、チークタイムが終えて解散になると自分と何人かはその日のうちに片づけて支払いを済ませなければならない、女子のリーダー達と片付いたあと改めての見直しだが何しろ新京成の山の中である、あまりゆっくりとは出来ないので「お疲れさん!またね」と言った所だったが何とも達成感がよかった、あのままあそきにいたらどんな人生を歩いていたやら、波乱万丈と言った今の人生の方が面白い事は確かだがちょっと考える事もあるな