梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

「戦友」と言う歌と敗戦、アイデンティティの立ち位置

2017-04-20 09:17:21 | 雑記
「ここは御国を何百里離れて遠き満洲の」日露戦争時代の歌で太平洋戦争前に広く歌われた歌である、軍歌と言うより厭戦歌の印象が強く太平洋戦争時には禁止されたのも理解できる、「
お国が見えなくなった時玄界灘で手を握り、なお名乗ったがはじめなり、・・・
身の上話繰り返し」と言う歌詞から最後の「行燈の陰で父母が・・」と言う歌詞にその光景が目に浮かぶ、
私が小学校に上がったのは計算すると昭和29年、未だ敗戦の残渣は田舎の村にも残っていた、我々世代の親達は出征経験者がほとんどである、5年生だったから昭和34年の夏林間学校で近くの山にある合宿所に一泊する事になった、偶々この日に記録的な豪雨がこの地方を襲いキャンプファイヤーは合宿所の中でアセチレンガス灯のなかでのミーティングとなりその時に友人の一人がこの「戦友」を歌いだした、先生の他に引率手伝いとして父兄が10人ほど付いてきていたが図らずも親たちの合唱になってしまった、
そして歌の中盤から親達は涙を流し始め嗚咽を交えた歌になってしまい子供達はいつもの厳しい父親の泣く姿に言葉を失い分けもなく泣いた記憶が有る、
中学の教師は今考えると概して左翼系の発言が多かった気がする、若い先生でも当時20代後半、古手は50代だった、20代後半と言えば昭和10年前後の生まれで多感な時期を戦前の教育で育ち青春時代を戦中時代で過ごした年代だ、
それこそ「教育勅語」で育ち竹槍と防空頭巾を経験し、親兄弟を徴兵された経験の有る人達だろう、それが敗戦で叩き込まれた価値観が突然180度変わる、
それはイデオロギーとアイデンティの崩壊でもある、戦中戦前の教育に疑問を持っていた人達は左傾化し、何の疑問もなく国の教育を信じていた人達は「自由と責任範囲」を受け入れる事が出来ず「自由は責任が伴う」事が理解できず、その子供たちの世代がそのまま伝わってしまった感が有る、
クレーマー世代、なんでも「ハラスメント」にする時代、それにSNSで拡散し日本の民族品位をどんどん下げている気がする、
「水は低きに流れる」少し方向性が強引だが「悪貨は良貨を駆逐する」と言う事か、
ブラック企業も人間性低下の一方だが仕事を働く前から「あまり働かなくてもいい企業」を「働く場所の選択肢」の先頭に持って来ることもやはり民族性低下と言えるんだろうな
森永氏がラジオで言っていたが「就職して1~2年は一人前になる為の教育期間でその時から残業が嫌だと言うのでは会社も大変だ、残業を制限するのではなく全て残業代を払うと言うのが本当でしょう」と言っていたがその通りだと思う、会社は社員が稼いだ分で維持しているのだから稼いだ分の一部は還元するのが当然だ、しかし稼がなければその金は他の社員の稼ぎを廻すしかない、戦後、高度成長期の働く人達はそんな事は知識以前の常識だった、
働けよ!若いやつら、「企業は人なり」と言ったのは確か東芝の会長だったかな、皮肉なもんだが時代は残酷だ。

共謀罪と教育勅語と玉音放送

2017-04-18 15:35:30 | 雑記
「教育勅語」を菅官房長官が「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」と答弁した、
私は戦後生まれで教育の場で教育勅語を聞いた事は無い、しかし村の農家には先代、先々代の写真の他明治天皇の額が飾られている家も何軒か会った、
親達は天皇の名をもって発行された召集令状によって家族と仕事を全て手放して銃を持たされ、船に押し込められて南方や北満に人を殺しに行かされた、その半数以上は故郷の地を踏むことは無かった、多くの他国の人の命を奪い、また多くの命を失って来た
だれも救わず皆が不幸になったのがこの戦争だった、そして全ての戦争はそうだろう、
召集令状を受け入れる素地を作り上げたのも幼少期から内容も分からず読まされた教育勅語にその一端が有ると言うのは否めないだろう、
前述のとおり私はその現場にいたわけではないが敗戦後多く作られた映画ではこのシーンは何度も見る機会があった、「私は貝になりたい」を上げるまでもなく「二等兵物語」や「新二等兵物語」は日本の反戦映画なんだろう、
下町の床屋や八百屋、農民が赤紙で徴収され古参の一等兵に娯楽代わりにいじめられ、「体を軍服に合わせろ!それがわが日本帝国軍兵士だ、“恐れ多くも天皇陛下”から承った軍歌に足が入らんとは忠誠心が足らん」と言われ食事が足らず差し入れのおにぎりをトイレで泣きながら食べ、「雪の降る世にふんどし一つで」捧げ銃をして暗い船倉に押し込められて戦地に赴いた普通の国民はこの状況がおかしいのではと考える、
それが広がらない為に破防法は作られた、普通の国民に対して軍部の人数はわずかであり彼ら自身も恐らく徴兵制は理不尽な事を内包している事を認識し、庶民が話し合えば大きなうねりになる事は危惧されたのだろう、その為の破防法であり特高警察だった、
それはナチスのゲシュタポやイタリアのファシスト党の模倣かも知れないが「大衆の力」は火がついてしまえば消すことは困難なことを十分に理解して種火のうちに消してしまう事を目的に作られた法だ、農民一揆は繰り返されたが封建制の中では代官や外様をスケープゴートにして何とか維持してきたが明治以降の政府では全国的な一揆にになりかねない、
テロは確かにイスラム過激組織の様にただ破壊と殺戮を目的としているとしか思えない状況が広がっている事は否めない、しかし破壊と殺戮の先には何の結果も無い、
ロシア革命やフランス革命はテロ組織ではなく虐げられた絶対的多数の一般人が立ち上がったからこそ成功したのだ、テロを壊滅させることは一般人が巻き込まれる事を避けるためには重要な事である事は確かだが発言の自由を監視する為の共謀罪要件は戦前の「民は生かさず殺さず」に戻る危惧を感じる、
明治天皇の名で出された教育勅語、昭和天皇の名で出された「玉音放送」、教育勅語をまた出すならあの時の天皇陛下が人間に戻る為になした「無条件降伏」と「堪え難きを絶え凌ぎがたきを凌ぎ」国民の万世を祈った文も教えてもらいたい、
教育勅語の効果はこの玉音放送を聞いた多くの人を自決に追い込んだ事を安倍政権は理解しているのだろうか

男女共同参画推進法

2017-04-15 08:04:50 | 雑記
「政治分野における男女共同参画推進法」が成立したそうだ、あくまでも努力目標だが海外から日本に言われることの有るクウォーター法の様な女性議員の定数法はどうもおかしいのではないか、
この法だと支持が低かろうと能力が無かろうと人数を合わせなければならないと言うことになる、女性は能力がないという意味ではない、あくまで評価は男女平等と言う事に準じればと言う意味である、現政権の女性大臣が本当に能力があるのかと疑問が呈されているのは周知のことである、これも恐らく国際的に「忖度」した結果じゃないかと言いたくなる、
全議席の25%を必ず女性にしなければならないとなればその分得票を得て議席を得られない男性が出るということになる、これは有権者の権利を犯すということになるのではないか、男女共同参画と言うなら今の「衆参二院制」を「男女二院制」にしたらどうか、
今の衆参制はどう考えても機能していない、良識の府と言われる参議院も衆議院に最終決定権があるのなら現政権のように参院の或いは有権者の意見など数で押し切る政府には何の意味も持っていない、男女二院制なら男院議員選挙と女院選挙になり性別により不公平も出ないだろう、憲法でも性別による優位性は否定されているのだから何方かに決定権を持たせる事は出来ない筈、揉めれば時間はかかるがそれこそ「拙速」な結論をだすよりましだろう

磐井神社

2017-04-10 12:33:19 | ぶらり
久しぶりに雨が上がった、早めの昼を取りタブレットの位置情報を確認しようと街中をうろうろと歩き回る、3種類くらいの地図アプリをいれているのだが一長一短だ、正確に位置は出るのだが書き直さないと変わらないやつ、数十秒単位で急いで追っかけてくる奴、リアルタイムで移動するんだが右に左に、行ったり来たりの不安定な奴、一番性格だったのは地図データをダウンしないとならないアプリだった、
アプリを見ると京浜急行のガード脇に都営住宅が有る、道端に桜の古木があったがどう言う訳か一番下の枝だけ白い花をつけている

ガードをくぐり第一京浜国道にでる、今は国道15号線だが本来の東海道はこの通りをジグザグに交差している、と言うより曲がって通っていた東海道を広くまっすぐにしたのだが少し東側からこの辺りは海だったので鈴ヶ森の処刑場前から山王の台地に上がってゆくのだが江戸時代の後半は既にこの辺りは埋立地だったらしい、此処から六郷の渡しまではどうやら今の京浜東北線沿いに(言い方が反対だ)通っていたらしい、梅屋敷が名所だとされていたのだから京急の線路沿いが東海道だったのだろう、
磐井神社と言う古い神社があった、由緒ある神社だが今は殆ど人は来ない、正面に向かい狛犬が据えられているがこの狛犬の石工はこの辺りの神社ではかなり見掛ける、本門寺の裏も道々橋八幡もこの獅子と同じ顔をしている、私の知る限りでは山手通りの代々木公園北側の神社の狛犬もこの顔だった、阿形の狛犬は子犬を連れているんだがこの磐井神社の阿形は石が砂岩らしく崩れている、
丁度満開を少し過ぎた感じの桜が有ったので写してきたがどうやらソメイヨシノではなさそうだ、
色の白さは山桜みたいだがそれほど葉が出ていないので違うのかもしれない、それほど散ってはいないので未だ2~3日は見ごろかも知れないな、空を覆う様な桜もきれいだが一本だけ立っている桜も趣がある、

神社から離れて国道に出たらすっと立った樹勢に真っ赤な花をつけた木が有った、色は櫨の様だが枝ぶりを見るとどうも違いそうだ、

天気予報では「雨は上がるが気温は下がりそうだ」と言っていたがやはり春が来ているのは間違いなさそうだ、これで懐ももう少し温かくなると良いんだがまあ年齢は秋口を過ぎてしまったし
届く判事でのんびりするしかないか、手の届く範囲で間に合わせればそれなりに楽しめる

馬込の辛夷

2017-04-02 14:34:30 | 雑記
国道一号線を下り新幹線と交差する処の交差点を左に曲がる道は馬込台地の尾根道である、
馬込は古い地名で範囲も広く東西南北に中まである、大正から昭和初期に多くの文人墨客が住んでいたので馬込文士村の愛称も付けらている、曲がってすぐの信号角が馬込八幡でその先を左に降りると梶原景時と愛馬磨墨の墓のある万福寺、更に先の交番前後の路地を右に降りると急な坂で馬込に幾つもあった谷戸になる、
この辺りから南西の谷地に当たる所に3月頃になると一際目を引く背の高い辛夷の木が有った、この辺りは一種住専のせいで高度制限があるうえバス通りから少し距離が有るのであまりマンションが無い、大抵古い2階建ての家である、その中に周りの家々の倍くらいの背の高い辛夷が真っ白な花をつけているので馬込の坂の上からだと一際眼に留まる、
十数年前カメラをもって写真を撮らせてもらおうと花を頼りにそのお屋敷に行ってみた、





三本の背の高い辛夷の木が冬枯れの庭から空を覆う様に白い花を咲かせていた、前の道路は4m程度か、そこから枝を見上げる様に何枚か写して居たら年配の上品な女性が顔を出した、眼が有ったので「素敵な辛夷ですね、失礼かと思いましたが写真を撮らせていただきました」と挨拶をしたら「有難うございます、死んだ主人が大事にしていました、御気に入って頂いたのでしたらどうぞお入りになって」と言う言葉に甘えさせていただいて何枚かうつしたのだが話を聞いたら子供達は別に所帯を作り今は彼女一人で住んでいると言う、「年寄りが居てはと家を建てたのですけど」と言う通り真新しい2階屋が建っていたが無住の様だった、「一緒に住もうと言ってくれますがその後はここを処分したいと言うので主人との思い出のあるこの庭を無くしたくなく一人で住んでいます、私が死んだらこの木も無くなってしまうんでしょうね」と言う話だった、
今年になってふと気になってバスで行ってみたら未だあの辛夷は白い花を咲かせていたがあの十数年前とは花の勢いが大分違う、花の季節を外したのか樹勢が衰えたのか、



あの時朽ち果てた感じの門扉が洒落た物に変わり庭は見えなくなっていたが未だ辛夷は残っていた、あの女性はもう居ないんだろうか?通りすがりの暇人だから改めて聞くような事でもないが少し後ろ髪を引かれる様な思いで後にした、
辛夷の木は自分の田舎である遠州にはない、基本的に寒い処の木の様だ、初めて見たのは東北だったか甲州だったか、千昌夫の北国の春の歌詞で覚えたのが先か、枯れ木の山の中に咲いているのを見たのが先か、最近は都内でも随分見掛けるが背があまり高くなく近くに行かないと白木蓮と区別がつかない事が多い、都内であれだけ背の高い辛夷はあの馬込の木が一番ではないだろうか、