梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

殺してみたいから殺してみた

2015-01-31 16:45:36 | 雑記

理解を超える事件が又起きた、「人を殺してみたかった」と言う理由で殺す、「殺したい人は居ないが殺してみたい人は一杯居る」と言っていたらしい、半年ほど前には高校生になったばかりの少女がしたいしい友人を殺した、やはりその理由は「殺してみたかった」と言うものだった、

神戸幼児殺人事件も「殺してみたかった」と言う理由だったが平行して境遇から来るコンプレックスが有ったと言う記事もあったが今回の2件はそういう複合的な理由は無い様だ、

身勝手な考えから、幼稚な感情の爆発から理不尽な殺人や傷害事件もある、秋葉原殺戮も友人が居ない、仕事がうまくいかないという社会からの疎外感と言う理由付けもされている、無論正当化できるわけも無い理由で「何を身勝手な、どうして其処から無差別殺戮になるのだ」と言う理解し難い心情である事は間違いなのだが、唯「人を殺してみたい」と言うのは完全に理解の外だ、

こんな考えをする人間は昔からいたのだろうか、若しかしたらニュースにならなかった、或いは周囲が理解出来ず想像から理由をでっち上げたと言うのか、

或いは「殺してみたい」と思っても結局実行に移せず外観的には普通の生活を過ごして生涯を終える人達が一定の割合でいたのだろうか、

憎悪とは関係なく唯々純粋に(違和感は有るが)「殺したい」と思っても「それはやってはいけない事だ」と理性で制御して人生を終えたのか、

一定の割合で(それが極々わずかだとしても)存在し、顕在化しないで生涯を閉じているだけなのか、

それを制御していた何かが外れたのか、外れ始めたのか、それとも突然変異的に現れたのか、現実的な社会にそう言う人間が居ると言う事も恐ろしい事だが発生し増加してくると言うならその理由がわからないのが更に恐ろしい、

人を傷つける事はいけない事だと言う事は理屈ではなく言い換えれば生まれ付き持っている痛みの神経のようなものでなければならない気がする、そうでなければいけないと思う、今の自由主義を突き詰めれば恐らく殺人も「自由」の範囲に入るのだろう、それが自由主義の強者の理論だ、弱者が居たら皆が喰らいつく、経済活動はあくまで自由だから負けたのは自己責任だというのが根本にあるように見える、

それを煎じ詰めれば「弱者を殺すのは、(或いは見殺しにするのは)理にかなっている」と言う所に行き着くだろう、

しかしそれにはやはり「欲望」が絡みつく、しかしこの事件にはそれすらない「殺してみたかった」だけだと言う、「殺したときを想像する」時に「殺される事を想像」しないのだろう、何かをして相手がどう思うが、どう感じるかを出来るのがやはり人間の知性だろう、いろんな情報を集め殺す手段を考え整えて実行する事を考えれば知性が無いとはとても思えない、逆に知性的弱者は本能に従順だ、痛みや死の恐怖には敏感である、過去の事件の中では確かに「ネロ皇帝」の様な話もある、日本にも権力者がその様な事件を起こした事もある、しかしそこにいたる過程には何らかの動機のようなものがある、がこの「殺してみたかったから殺してみた」と言うのは理解の範囲外である、

阿部総理が「戦争をしてみたいからけんかを売ってみる」と言うのは事故権意欲か優越感かわからないがそれでも解りやすいがこの事件は理解しがたいだけに恐ろしい

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福祉予算と生活保護

2015-01-28 08:29:45 | 雑記

福祉関連予算が削られる、正確に言えば他の予算が増えた割に殆ど増えない、消費税の上昇割合より低い、「自助を求める」と言うが自助が不可能だから生活保護に頼るしかない、
年金も減らされる、介護保険料も上がる、「年金支出、介護関連、福祉の目処が立たない」から消費税を上げる」と言うのが政府の言い分だったと記憶するが税金は上がるがこの関連予算は軒並み下がる、マニフェストの意味は日本では昔からの「選挙公約」と変わらない、誇大広告どころか不当表示だ、「効果が無いのに薬効を誤解させる表示」処か薬効その物を謳い売れてしまえば知った事ではないと言うのが日本の政治家だ、政治家が全てどうかはわからないが戦後の殆どを自民党が担って来てその間に「政治家の公約は守られた事はない」と言う認識を植え付けた、「そんなことはない、努力したが到達できなかった」とか「解釈の違いが有った」とか色んな事を言ったがそれでも有権者の声には対応してきたが現政権はそんな事は完全無視の体だ、生活保護を受けるのにはかなり勇気がいる、本当に生活が困窮していても孤独死する人も居る、窓口まで言っても受け付けて貰えない人も居ると言う、窓口では未だ「面倒を見てやる」と言う意識が有るらしい、そこに座って居るのが自分の親だったら、或いは子だったら、自分だったらと言う思いが出来ない、そしてそうしているのが国であり政治だ、1億2千万のなかの僅か517人、上級官僚と言われる連中をいれても千人に満たない連中に国は牛耳られているがこの連中が過去にわたりその近辺に生活保護を受給しなければ生きられない家庭は有るまい、しかしその人数は彼らの数100倍存在する、その事を理解させるのは針の穴に像を通す程難しい、となれば彼等も一度体験してもらう必要があるだろう、今学校では体験授業と言う物がある、一度貧乏を体験してもらいたい物だ、貧しいと言うのは状況ではない、本人にとっては社会で有り世界そのものなのだ、確かに不正受給の問題は有るがその殆どは不可抗力でそうなっている、貧富の差は大きくなり割合も極端になって来ている、貧しい家庭に生まれれば競争社会の能力を育てられる環境は与えられない、不自由な肢体や能力を持って生を受けるのは自己責任とは程遠い、しかし経済は数字である彼らに生活を享受する事は難しいと言うより不可能だ、獣なら弱肉強食だが社会的動物である人間として「不幸にして」その境遇になった人々に手お差し伸べるのは「人間の条件」だろう、教育を機関に委ねるのは高度の知識には必要だが「生きる条件」位は親から子になすべきだろう、
政治家にうまれ、官僚に生まれた家系にこそこの教育をなすべきだと思う

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イスラム国

2015-01-27 11:31:25 | 雑記

ルカによ福音書には有名な「汝の敵を愛せよ」と言う文言がある、敵を愛し憎む者に親切にせよ、あなたの頬を打つ者には残りの頬も向けてやりと言う、ヨハネによる福音書では娼婦に石を投げて居る民衆に「貴方がたの中で何も罪を犯した事の無い者だけが石を投げなさい」と言ったというくだりが有ると言う、
仏教には全ての人を救うと言う菩薩が居る、親鸞の歎異抄では「善人縁もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言うのが有る、
古事記に出て来る神々は常に民を重んじ人間共が豊かに暮らしていける様に気を配る、その民にあだなす者が有れば荒ぶる神として表れるが常には民を守り自然をも納めている、
此処に言う「敵」も「悪人」も確かに「信ずる者」と言う枠は有るだろうが「我を信じない者が「敵」で有り「悪人」で有ると言う事は出て来ない、そこで有るのは「我を信ぜよ」或いは信者の言う「彼を信ぜよ」と言う教化である、
神と言う存在は「許す」存在であり神でない庶民は何時も「許す」事が出来ずそれをイエスも釈迦も「許せ」と説いていると思っていた、無論イエスは神ではなく伝達者であり「神」は信者の「父」と言う存在でやはりその姿は描かれる事はない、
イスラム教徒、彼らの信仰はこの二つの大きな宗教感からするとかなり違う感じがする、何かの本で彼等は「イスリム」と自らを称して宗教と言うより「生き方」と言えるそうだ、
今の「イスラム国」や「アルカイダ」は少数だと言う、少数だとしても影響は甚大だ、
「神」とは何だ、言葉か、信念か、理念か、他を認めないのはなぜだ、他の信徒を教化しようと思わないのか、テロで変わる社会は無い、有るのは破壊と不安だけだ、秩序を無視して社会は成り立たない事は言うまでも無い、彼等は本当は何を求めて居るのだろうか
イスラム諸国以外からも参加する若者がいると言う、現在に不満が有ると言うが確たる信念も無く「言って見たが彼等は優しかった」と言う、それは同調者に対してだけでそれ以外には全く無辜の民を無差別に殺戮し社会秩序を破壊しているだけだ、
確かに今のアメリカ型自由経済と言うのは既に行き詰まっている、或いは崩壊に向かって加速しているがそれを止めるのは逆方向の暴走では無い、無理かもしれないが彼らが現実を認識し、その上でイスラムの教えを説く以外にイスラム世界は実現しない

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何の記憶か

2015-01-22 17:03:47 | 雑記

時々ふと心に浮かんでくる場面が有る、何かのドラマだったか、映画だったか、本だったかも定かではないが鮮明に浮かんでくる、場面が鮮明と言うのではなく状況だけが鮮明に認識していて時間も季節も場所も定かではない、親子が居て小さな子供は女の子だが大人は父親か母親かもはっきりしない、若しかしたら自分だったのかとも思う、
寒い日だ、若しかしたら雨か霙が降って居たかも知れない、全体に暗いが夜なのか明け方なのか天気のせいかも解らない
子供が親の着て居る物をつかんで顔を見上げて言う「ねえ、帰ろうよ、おうちにかえろ」
帰る家が無い事を私は知って居た、そして行くあても無い事も知っている、多分その子も知っている、家を出てどの位経ったか、どうしてそこに立ち止まったのかもわからない
子供の声だけが聞こえる「お家に帰ろうよ、ね、帰ろ」親は黙って前を向いている、
そこまでしか解らない、何時もこの場面が繰り返される、私はこの場面を思い浮かべると涙が出て来る、自分に起きた事では無い筈だが女の子の心情と親の心情が痛いほどわかる気がする、
家を出ても行くあてはない、家に戻ってももう何もない、子供は此れから自分に待っている事が何となく解る、(だったら今迄の思い出のある家で)理解する訳でもなくその子は思う、寒くてもひもじくても大好きな一番信じて居るこの人に抱かれて眠ろう、たとえ二度と目が覚め無くとも、家を出て知らない処に行っても此れ以上良くなると思う事が出来ない、だったらこのまま抱かれたまま目が覚めない方が良い、親にはそんな子供の心がひしひしと伝わって来る、捨てて来たあばら屋に戻り娘を抱く、娘は笑い親の胸に顔を埋めて眠る、それでおしまい、どう言う訳かこの二人が幸せになると言う場面は思いつかない、
そしてそれが何時か自分の身に起きた事の様に涙が出る、その子だったか親だったか、何かの話を思い出しただけなのか、それにしては厭にリアルな感覚だ、
私の子供の時代はそんな事も無くはなかった、しかしまた孤独死や老いた兄弟、親子の餓死が報道される、底辺はどんなに時代が過ぎても同じなのだろうか、せめて子供達は生き続ける希望を持って貰いたい物だが

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反省だけなら猿でもできる

2015-01-16 16:39:09 | 雑記

先日東京新聞で「サンダカンの悲劇」と言う記事を見た、気になってネットの見たらかなりおぞましい話だった、捕虜の死亡率はドイツ軍に捕らわれた英米軍で4%、日本で悲劇として話されるシベリア抑留でも8%台だ(公式発表だが)
しかしサンダカン捕虜収容所の死亡率は99%に以上になると言う、大戦全体でも日本軍の捕虜の死亡率は27%に達するそうだ、しかしこの事実は我が国では全く膾炙されていない、全て我々の先人が行って来た事で有る、実際に行った世代は殆ど居ない、しかしこの事実は残る、それは前の世代の罪だから謝罪しなくてもよいと言う訳はない、謝罪すると言う事は「反省」する事で有り、反省からは教訓を得なければならない
「過ちて改めざる、此れを過ちと言う」と論語に言う、何年か前なにかの宣伝文で「反省だけなら猿でもできる」と言うのが有った、夜空をバックにサラリーマン風の男性が吐く様に独白している映像だった、おそらく彼は仕事でミスをしたのではないか、そしてそれは前に同じ様なミスを行い本人として強く「反省」していたのだが又同じミスをしたと言う様な感じを受けた、コマーシャルとは言え当時の自分は彼の悔しさ、自己嫌悪が非常に良く理解出来た、猿回しの猿が「反省!」と言われて取るポーズが人気を博していた頃の話でそれに引っかけたのだろう、しかし今の政治家達は先人の犯した罪を糧として居ない、
反省だけなら、そのポーズだけなら、猿でもできるのだ、我が先人達が何をやって来たのか客観的に全てその子供達に知らしめなければならない、そうでなければ日本人は世界的に劣った人種になって仕舞う。此れだけの被害を受けた人々が居る、加害者たる日本は謙虚にそれらを認め反省し、謝罪しそれを教訓にして二度と同じ事を起こさない様にしなければならない、自らそれらを認めない限り被害を受けた国の主観的な被害状況が世界の中に浸透してしまう、
今の日本人は過去の過ちを認め、悔いていると言う事を理解して貰わなければならない、この事実を知れば我々は心から悔いて謝罪したいと思う筈だ、

「ネトウヨ」言われている人達はこの事実をどの程度理解しているのだろうか、「自虐的だ」と言う論調もあるが自虐と言うのは自ら貶めると言う意味だが貶めて居るのは事実に目を向けず他国の同じレベルの論調だけを拾い上げて強調しているだけだの彼等の言動だ、客観的事実をもっと国民に冷静に伝えてほしい、其処からやっと戦後が終わる、経済的に終わったのは敗戦で有って加害者としての「戦後」はおわらない、
現政府は又その頃の政治信条を辿っている様な感じを受ける、少なくとも村山談話頃は日本政府は「反省」していた、しかしその反省は教訓を生んでいるとは思えない、
「反省だけなら猿でもできる」が「反省」すら出来なければ「猿にも劣る」と言う事になるだろう

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