理解を超える事件が又起きた、「人を殺してみたかった」と言う理由で殺す、「殺したい人は居ないが殺してみたい人は一杯居る」と言っていたらしい、半年ほど前には高校生になったばかりの少女がしたいしい友人を殺した、やはりその理由は「殺してみたかった」と言うものだった、
神戸幼児殺人事件も「殺してみたかった」と言う理由だったが平行して境遇から来るコンプレックスが有ったと言う記事もあったが今回の2件はそういう複合的な理由は無い様だ、
身勝手な考えから、幼稚な感情の爆発から理不尽な殺人や傷害事件もある、秋葉原殺戮も友人が居ない、仕事がうまくいかないという社会からの疎外感と言う理由付けもされている、無論正当化できるわけも無い理由で「何を身勝手な、どうして其処から無差別殺戮になるのだ」と言う理解し難い心情である事は間違いなのだが、唯「人を殺してみたい」と言うのは完全に理解の外だ、
こんな考えをする人間は昔からいたのだろうか、若しかしたらニュースにならなかった、或いは周囲が理解出来ず想像から理由をでっち上げたと言うのか、
或いは「殺してみたい」と思っても結局実行に移せず外観的には普通の生活を過ごして生涯を終える人達が一定の割合でいたのだろうか、
憎悪とは関係なく唯々純粋に(違和感は有るが)「殺したい」と思っても「それはやってはいけない事だ」と理性で制御して人生を終えたのか、
一定の割合で(それが極々わずかだとしても)存在し、顕在化しないで生涯を閉じているだけなのか、
それを制御していた何かが外れたのか、外れ始めたのか、それとも突然変異的に現れたのか、現実的な社会にそう言う人間が居ると言う事も恐ろしい事だが発生し増加してくると言うならその理由がわからないのが更に恐ろしい、
人を傷つける事はいけない事だと言う事は理屈ではなく言い換えれば生まれ付き持っている痛みの神経のようなものでなければならない気がする、そうでなければいけないと思う、今の自由主義を突き詰めれば恐らく殺人も「自由」の範囲に入るのだろう、それが自由主義の強者の理論だ、弱者が居たら皆が喰らいつく、経済活動はあくまで自由だから負けたのは自己責任だというのが根本にあるように見える、
それを煎じ詰めれば「弱者を殺すのは、(或いは見殺しにするのは)理にかなっている」と言う所に行き着くだろう、
しかしそれにはやはり「欲望」が絡みつく、しかしこの事件にはそれすらない「殺してみたかった」だけだと言う、「殺したときを想像する」時に「殺される事を想像」しないのだろう、何かをして相手がどう思うが、どう感じるかを出来るのがやはり人間の知性だろう、いろんな情報を集め殺す手段を考え整えて実行する事を考えれば知性が無いとはとても思えない、逆に知性的弱者は本能に従順だ、痛みや死の恐怖には敏感である、過去の事件の中では確かに「ネロ皇帝」の様な話もある、日本にも権力者がその様な事件を起こした事もある、しかしそこにいたる過程には何らかの動機のようなものがある、がこの「殺してみたかったから殺してみた」と言うのは理解の範囲外である、
阿部総理が「戦争をしてみたいからけんかを売ってみる」と言うのは事故権意欲か優越感かわからないがそれでも解りやすいがこの事件は理解しがたいだけに恐ろしい