梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

浜松凧まつりの”ウトイペンコ”

2017-07-29 12:52:35 | 旅行
会社の近くに「木曽路」と言うしゃぶしゃぶの店が有る、店の前道路に染抜きの幟がたっていた、歩道側から見ると裏文字になるのでなんて書かれているのか少し時間が掛かった、どうやら「なつのすきやき」と書かれている様だ、
染抜きの幟や暖簾でよくお目に掛るのだがこれを見て少し前の事を思い出した、
掛川の山奥には家族が無くなった私にとって姉のいる浜松は現在の田舎みたいなところなのだがこの街の祭りである凧揚げ祭りは行った事が無かった、正確に言うと一度クラスメートに連れて行って貰い見学したことはある、が見学より呑み屋の時間が長くてあまり祭りの印象は無い、
ゴールデンウィークの最中に行われる祭りで人出人数では三大祭の一つの様なので女房と一度見ておこうかと言ったことがある、
昼行われるのが凧揚げ合戦で海辺の中田島砂丘と言う処で行われるのだが結局そっちは省いて宵祭りの方に出掛けた、
街は通行止めになって町会毎の山車が華やかに引廻される、しかしこの祭りの特徴はこの他にその町会毎に若者が祭り装束で2~30人位の団体を作り戦闘ラッパを吹き残りの全員がホイッスルを咥えリズムをつけて走る、本当にただ「勢いよく」走るのだ、
それが彼方此方の街角から次々と現れて別の街角に走り抜けて行く、全く意味が分からない!確かに見ていると訳も無く可笑しくなってきて夫婦で「なんだ!ありゃ」と本当の意味で面白かったのだが地元の方には大変失礼な感想かもしれないな、
ぶらぶらと夜店を見ながら歩いていたら女房が「あれってなにを売ってるんだろ?」と言う、「“うといぺんこ”ってなに?」と言うので指さす方を見たら夜店の上の横断幕に白抜き平仮名で「うといぺんこ」と書いてある、自分も??と思ったがすぐに気が付いた、
「右から読んでみな」と言うと女房は少し間をおいて大笑い、
そう言えば昔「有平糖」てのもあった気がするが金平糖の夜店と言うのも珍しい処に持ってきて平仮名でかつ右から左に書いてある、今の子供だったら左から右に書いてもあまりわからないかもしれないのだがさらにわからない、
姉が小学校の頃やはり看板に「うこんきんまめとうや」と書いたあったけどなんだろう?
と言っていたことが有るが「やうとめまんきんこう」だとしても良くわからない、文語体なら「用途目万金膏」かな、なんでこんなことが頭から抜けないんだろうね

我儘な政権

2017-07-28 08:39:51 | 雑記
稲田防衛相が辞任表明をした、遅きに失したとはいえこれで傲慢な閣僚が一人無くなったことは喜ばしい事だがこれで「幕を引く」ことが出来たと言う事にはならないのは当然のことだ、
大きく問題化したのは「廃棄した」と言うのが虚偽でしかもあると言う報告が2月時点で受けていたが「廃棄したと言う事で押し通そう」と言う事になったのだがそれを稲田防衛相が指示したのか、或いは許可したかと言う事なのだが、問題はもっと根本的な所にあるはずだ、
PKOで戦闘状態になったと言う様な重要な報告はPKO派遣法違反になるのにそれを「廃棄したので存在しない」と言う事を国会の報告として認定される事の方が「あった事を隠蔽した」と言う事以上に重大な問題ではないのか、
廃棄したことは公文書の取り扱いとして問題が無いのか、自衛隊の行為そのものの報告書が自由に廃棄できるなら「シビリアンコントロール」など無いに等しい、
これが問題になら無いなら「特定秘密保護法」は意味が有るのか、報道機関はそこのところをもっと突っ込んで且つ明確に報道してもらいたい、
同じタイミングで蓮舫氏が党首を辞任、それ以前に野田幹事長は辞任しているが野田政権が今の民進党の状況を作った事は間違いないだろうがそれが未だ幹事長だったこと自体情けない話だが政局の受け皿が無いと言う事は有権者の大きな悲劇だと思う、
しかし東京新聞の社会面にあった写真の稲田防衛相の表情はほっとした感がみられたのは気のせいか、あの表情から思うのは辞任があれだけ長引いたのは本当に稲田氏本人の意志だったのか、スケープゴートだったのか、
我儘と言う言葉が有る、これは「我が思うが儘にする」と言う言葉だろうと思う、幼い子供が理に合わない事でも「我が儘にならない事を言い立てる」ことを親が「わがままを言うんじゃありません!」としかる
そんな可愛いもんじゃない老獪な連中が日本を「我が思うが儘にする」為に絶対多数の議席数で「民主主義で選ばれた議員の数は国民の総意」と言わんばかりに暴走している
民主主義には多数決だけではなく少数意見の尊重と言う重要な要素がある、
現政権の選挙時では全くテーブルに上げていなかった法案を次々と国会に上げて数の理論のみで通過させる、彼らは何をしたいのか、日本をどこに連れて行きたいのか、北の脅威を言い立てて戦争が出来る様にするのは当然であると言う論法は「アメリカに対抗するためには核武装は当然の権利だ」と暴走する脅威そのものと言っている北朝鮮と発想は何ら変わらない

未だ国民を愚弄する気か!

2017-07-27 10:52:45 | 雑記
自民党が加計問題で野党の追及に関して「十分丁寧に説明したのでこの問題は終結した」と言っている様だ、「十分に説明が出来た」と言うのは説明を求めている方が納得したという意味で求められている方から「十分に説明したから終わり」と言うのは論旨に合わない、
当事者同士の納得と同時に第三者であるが関係者の国民の了承が条件である、
共謀罪の審議の時も「時間が掛かるから中間報告で結論を出す」と言ったのと同じですべて国民に了承を得ないで強引に政治を進めていると言う事は否めない、
この横暴さが都知事選に顕著に表れているのが未だ理解していないのか、
これは野党をと言うより国民を愚弄しているとしか言えまい、国民の多くは稲田防衛大臣の問題も含めて安倍政権は独断専行政権だとは考えている、
安倍晋三氏の態度は反対意見を全く「無視」している、下世話に表現を借りれば「蛙の面に小便」と言う印象だが最近になって流石にそれも出来なくなった、追及が迫って来ると興奮し激怒する場面もあり、更にその不整合を追及されたら低姿勢に変更したが結論は全く変わらない、
しかし安倍総理の指示なのかそれとも傀儡使いなのか何を言っても無表情に何の根拠もなく「問題ないと考えます」だけで打ち切っているあの「菅義偉」と言う御仁の顔こそ「カエルの面に小便」に相応しい、
確かに今の野党では政治を維持する力は認めるのは難しいと思う、しかしこれだけ国民を舐め切った政権を続けさせるのは今後の国政と国民の間に乖離と隷属が危惧される、
野党の奮起を熱望すると同時に自民党の自浄力を強く期待する

水窪スーパー林道入り口付近、マタタビと球紫陽花を見つけてきました

2017-07-26 17:41:41 | 雑記
水窪スーパー林道入り口付近、マタタビと球紫陽花を見つけてきました

25日仕事で静岡の最北端に近い水窪町の更に北の山上、家老平と言う処に現地調査に行ってきました、朝6時に家を出て新幹線で掛川に、此処でレンタカーを借りて天竜二俣にある天竜区役所までゆき
公図を手に入れると管理している水窪町文化センターに行く、午前10時半を少し廻って到着し、更に標高1180mの山住峠に向かいます、
小雨で煙る頂上は雲の中で気温は25度、調査を終えて峠を水窪の街に降りたら28度、国道に繋がる少し前に白くなりかかったマタタビの葉を見つけ、半夏生の段で書いていたので写真を撮る事にして車を降りたらその下側にやはりあの時書いた「玉紫陽花」がちょうどいい感じになっている、玉の字が場面ごとに違うのはご容赦ください、本名は知らない、

マタタビの葉が半分くらい白くなっているが実は林道の上の方ではもっときれいに白化していたのですが道路が狭くて止められない

玉紫陽花の呼び名が納得する形の蕾です

花が咲き始めているがこの辺りまで名前の雰囲気が残っている

半分位開いてきた

この後はとにかく走って天竜市を抜けて森町方向にまわり袋井のインターから掛川まで東名高速で移動し、大東町から千浜を抜けて浜岡まで、此処までで14:40分くらい走行距離は200km近い
此処で現場を一ヶ所見ると急いで掛川に戻りレンタカーを返して新幹線に乗る、16:09分、
16:36分新富士駅でピックアップして貰い次の現場に向かう、此処から富士川沿いに北上し現場を見て今度は富士川沿いに南下し田子の浦の工場地帯で新規案件の写真を撮って新富士に戻ったら19:00前。19:09分のこだまで品川経由で帰宅したら9時を少し回っていました
b-ルが旨い!新富士で買い込んだ黒はんぺんの生は明日のつまみにしましょう、ワインに入れているブランディーが切れた、明日は買わなければ

軽便鉄道の夏休み

2017-07-24 17:39:03 | 昭和の頃
全く暑い日が続く、昔からこんなに暑かったのかそれとも子供の頃は体力が有り余っていたので暑さが苦にならなかったのか、
子供の時住んでいたのは山の中、泳ぐのは川の淀みや曲がり角の深み、溜池もあったが何方かと言えば川が多かった、唇が紫色になるまで水の中に居て冷えた体を河原の石ころで温めたりしていた、
思い出してみるとそれも小学校までで中学生はあまり泳いでいなかったな、
海水パンツと言う様なものを来たのは中学生になってからで最初は「三角褌」と言う奴、二等辺三角形のそれぞれの角に紐が付いていて腰に廻してから足の間を通した紐を結び付けると言う形、その次は「六尺褌」に替わるが小学校以下がこれをすると「生意気だ」と言われてしまう、
おやつは畑から持って来るのは畑に麦わらを敷いた所に転がして作るので「白瓜」とも「ヂバイ(地這)瓜」とも言っていた瓜、トマトや甜瓜もあり笊に入れて川の流れに冷やしておいて腹が減ると食べて又遊ぶと言う野生猿みたいな生活だった、
中学になって出来た友人と「海に行こうか」と言う事になった、田舎の村は海まで直線でも40km程度離れているがまっすぐ行くバスが無い、学校で行く臨海学校は焼津か浜名湖の北佐久米とで結構遠い、
一番手近な所まではバス→電車→軽便鉄道と言うコースになる、当時袋井から藤枝まで駿遠線という軽便鉄道が通っていた、袋井から国道150号線に沿って御前崎の北側を通り大井川を越えて藤枝まで行って居たが調べてみたら昭和36年に袋井側が廃線になってしまっていた、
私が中学生になったのは昭和35年だから本当に最後の頃に乗ったことになる、
恐らくディーゼルだったのだろうがほゞトロッコに屋根が付いた体の車両が一応2両連結で運転していたと記憶する、あんまりゆっくりなんで走行中後ろの車両から降り走って前の箱に乗り移る事も可能だった、
あの路線が生きていたら良い観光路線になったんじゃないかとも思うのだが採算は取れなかったかな、
国安と言う海水浴場は河口が遠州灘に繋がる場所で砂州が海と川を隔て満ち潮になると海水が入って来るが潮が引くと小さな流れが海にそそぐと言う場所が海水浴場になっていた、
遠州灘の海岸は御前崎から蒲郡近くまで遠浅の綺麗な海だが引き波が強く離岸流は穏やかな表情のまま沖に連れて行くので遊泳は禁止されている、しかし若者たちは腰付近まで入って遊んでいた、その頃の海は実に澄んでいて腰付近まで入っても自分の足が見えた、
砂は真っ白でその中に金色の砂が光っていた、湘南の海に一度行ったがとても海とは思えなくその後も泳ぎに行くとしたら伊豆か遠州灘にキャンプに来ていた、
最近はまた少し綺麗になったようだが、今度は自分が海より山が良くなってしまった