梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

昭和40年代の有楽町界隈

2012-01-22 10:10:43 | 雑記
昭和42~46年頃の話である、4年程勤めていた日立製作所亀戸工場を退社して東宝の食品関係の子会社で働き始めた会社は有楽町に有った、
何しろ田舎から東京に出て来たがずっと寮住いで小岩から津田沼と言った所に住んでいてとても銀座何ぞと言う所には縁が無かったのでかなり戸惑う事も有った、
日立時代に一度だけ銀座に来た事が有るが確か未だ都電が有った頃で砂町か錦糸町から都電出来た様な気がするが違ったかもしれない。その頃行く所と言えば殆ど庭園や寺社仏閣と言う所でどうも華やかな所は気後れがするので敬遠していたのである。
その昭和40年代の頃の記憶である、
駅の改札付近は今でもその頃とほぼ変わらないが駅の外は全く今とは違っていた、
駅を南側に降りると東京駅側の前には交通会館ビルが有る、このビルは未だそのままだが屋上に有る回転するレストランは今は廻らない様だ、新橋寄りは降りてすぐ2階建のパチンコ屋が下町其のままの雰囲気で操業していた、たしか「白鳥」か英語で「スワン」だった様な気がする、
屯している人達も銀座の入り口とは程遠い日雇いの雰囲気の人達で此の裏路地には昼間から酒を飲ませる小さな店も何件かあり、立喰いの蕎麦屋があった、此の路地の向かい側が円筒形の日劇である、日劇の左路地を挟んで朝日新聞社の本社ビル、この間の路地を抜けると高速道路が通って居てその下が「西銀座デパート」である、
汐溜操車場の脇から国鉄のガードまで来て其処から線路と平行して北上し外堀を埋め立てて作られていた、朝日新聞社の搬入口が直接この高速道路と繋がって居た、
西銀座デパートに行き当たって右に折れると今の宝くじチャンスセンターの辺りにラジオ局の「サテライトスタジオ」と言うのが有った、ガラス張りのスタジオは此処だけでは無く新宿と(アルタ前だったかな?)他にも有ったと思う。
丁度その頃山本リンダの「困っちゃうな」と言う歌が大ヒットしていてこのスタジオに来て居た、休憩時間だったのでガラスのすぐ外側で見ていたら彼女と眼が合ったのだが全く視線を外さないのでドギマギした思い出があるが後で聞いたら彼女は極度の近眼でコンタクトレンズなどは無い時代だったので全く視点が有って居なかったらしい、まあ当たり前だが。
此処から晴海通りを渡ると阪急デパートのビルが有り、その前に小さな公園がある、噴水と石の碑が有って「此処に数寄屋橋ありき」と書かれている、更に一昔前に大ヒットした「君の名は」で真知子が春樹(違うかもしれない)と有った舞台なのでと言う事らしい。
公園の脇の本当に狭い路地を通り抜けると古い小学校がある、泰明小学校と言う学校で島崎藤村や北村透谷が卒業した由緒のある学校で今では文化遺産になっている、
友人F氏も此処の卒業生だ、この前の道路が「みゆき通り」で右に行くと高速道路と電車のガードを潜り抜けて突当りが日比谷公園である、公園前の日比谷通り手前左側が帝国ホテルで未だこの頃は石造りの噴水のある趣のある建物だった、その向かい側が日生ビルで此処に日生劇場が
入っている、日生ビルの手前が「東京宝塚」で此処が東宝の本拠地である、
私は近界隈の映画館と東宝所有のレストランや喫茶店にアイスクリームを配達していた