梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

彼岸花 曼殊沙華の思い出

2024-10-01 15:24:26 | 昭和の頃
赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしゃげ) 阿蘭陀(おらんだ)屋敷に雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
 未練な出船の ああ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る 
彼岸花があちこちに咲き誇っている、団地の中庭にも今年は彼岸花が数か所赤い花と白い花を咲かせている
この歌の時代の「曼殊沙華」は毒々しい程の真っ赤な花でその華やかさと花茎を折ると出る白い液に毒が有ると言われていたので白人との混血だったお春の美貌と相まってそんな言われ方をしたのではないかと思う
今の彼岸花は白いのと黄色のもあってそれなりに混在すると趣が違っていい眺めだ、但しこの2色はどうも似ているが違う種の様だ
ずっと昔、まだ自分が未就学児のころ、母親に和裁を習いに来ていた村の娘たちが青年団で村芝居をするからと招待されて真っ暗な山道を母親の背中に負われて見に言った記憶がある
未舗装どころか雨で洗われてむき出しになった岩だらけの道を今行ってみると3km近く有るであろう距離を提灯も持たずに見に行った
川と言うより峡谷と言っていいような急流を土橋で超えるとその川に沿って左に折れた所に神社が有って小さいながらも神楽殿がしつらえてあり、その前に30人程度の村人が蓆を敷いて座っていた、
電灯は有るがこの時代の照明はカーバイトランプである、そう言えばその頃の祭りの屋台はみんなカーバイトランプだった、あのアセチレンガスの臭いが祭りの匂いだった
村芝居の出し物が「じゃがたらお春」だったが内容がそうだったのかは当然覚えていない、覚えているのがこの曲だったのだ
返りの道か、帰ってからか母親がジャタタラお春の悲しい運命の話をきいて、その時にジャガタラ芋の名前の由来とジャカルタと言う国名を覚えた
毎年、ヒガンバナを見る度に「赤い花なら曼殊沙華、オランダ屋敷に雨が降る」と言う歌を思い出す

夫婦善哉は人生の選択肢から無くなったか

2024-08-21 11:46:20 | 昭和の頃
東京新聞の朝刊に今どきの若者が抱く結婚観が乗っていた
26歳の教員で苦学の末大学を下り、無事教師となってある程度安定した収入もあり、特に将来には不安はない
彼女もいて結婚もしたいと思っている、子供も何人かほしいと考えていると言う
しかし子供の養育費、特に学校に掛かる費用を調べると小中学で凡そ480万円、高校に掛かる費用も同じくらいかかる
大学にまで行かせるとなると教育費だけで14~1500万円が掛かりそうだ
しかし、その為に自分たちの楽しみを犠牲にはしたくないと考えているので「結婚するまでに二人で1千万円が出来たら」と言っている様だ
この青年が今の平均的な若者の姿なんだろうか、
確かに堅実的な考えでそれが一番良いのだろうがどうも我々昭和演歌の時代の者にとってはなんかな~と言う感じが否めない、(私だけかもしれないが)
夫婦善哉と言う流行歌が有る、何人か歌っているが自分は村田英雄氏の声でなじんだ、
着いてこいとは言わぬのに
黙って後からついてきた
俺がはたちでおまえが19
下げた手鍋のその中にゃ、
明日の飯さえ、無かったな
お前

九尺二間が振り出しで
胸つき八丁の道ばかり

昭和時代庶民の多くはこんな夫婦が数多くいた、
好景気に沸く昭和の30年代から50年代まで中学を卒業し集団就職で上京し、職場で知り合った恋人たちが歌の歌詞の様な
6畳一間か精々2間に居を構え、8時から働いて、5時に退社するとままごとみたいな生活を嬉々として営んでいた
学生運動が落ち着いた頃学生たちは「同棲時代」とはやされてもっと狭い4畳半で生活を始める
「神田川」の歌詞の時代だ、
そのまま関係を解消し、現実を受け入れて別々に生活を送っていったが
今日の記事の様に結婚生活の設計をする様な若者はあまり見かけなかった気がする、好きなら勢いである
尤も当然ながら少女の頃は「白馬に乗った王子様」を夢み、社会に出る時期には高学歴・高収入・高身長と言う
いわゆる「三高」を夢み、やがて売れ残りを負け組と認識して身丈に会った相手と収まるのが現実だ
多分、今の若者も同じような所に落ち着くんだろうが最近は「結婚」が人生の条件ではなくなって来た様だ
ポジティブであれネガティブで有れ、ね
しかし、自分には夫婦善哉に憧れ、夫婦生活にくたびれたおっさんの方が親しみがわくのは自分だけか?

根性なしの言い訳

2024-08-18 10:49:15 | 昭和の頃
夏の甲子園が行われている、毎年暑さが厳しくなる中で真夏に行うのは危険ではないかと思うのだがどうやらやっている球児たちにはやはりこの真夏の甲子園が夢の舞台の様だ、
自分は中学校を下りるとすぐ働きだした、甲子園の熱狂放送を聞くと自分の中で燻るような気持ちがわいてきたのを思い出す
丁度その頃舟木一夫の歌った「高校三年生」と言う歌が一世を風靡し、学園物と言うジャンルが大流行となった
「仲間たち」とか「卒業旅行」とか(題名はすこしあやふや)次々とヒットしてラジオから引っ切り無しに流れて来た
朝から作業着で油にまみれて汗をかいて、暗くなって寮に戻る生活の中で中学校の友達を思い、映画の中で楽しそうに友達と遊ぶシーンを見る度にもやもやとした感情はくすぶり続けていた
その頃の自分は劣等感の塊とまでは言わないが大きなものを抱えていた、
しかし、本人は劣等感が有るくせに努力をしないのである、
今考えれば全く“こんじょなし”のぐうたらだったのである
同じ様な諸兄諸氏は幾らでも居た、そして夜学に通い大学も卒業して一端の地位に就く人も多かった
かくいう庶民総裁と言われた田中角栄氏も確か独学で総理まで上り詰めた筈だ、
しかし、である、良い訳ではないが自分がそうやって努力の結果ある程度の地位まで登れたとしたら恐らく本当に嫌な奴になったんじゃないかと自覚できる
努力が続けられない、誘惑に負けるぐうたら野郎と自覚するからこそ努力が足らない若い連中にもある程度優しく出来る、
そんな所に上り詰めて居たら子供達も大変だっただろうと思う、
はい、言い訳です、え~え、76年生きて来た自分に言い訳です
でも本当に後悔はしていません、したところでもう一回やり直しなんぞ出来る訳もないし、
もしあの時も戻ってもやっぱりおんなじ事を繰り返すんじゃないのかね
それでも子供にも孫にも、更に曾孫にも恵まれて、貧乏でも何とか雨風を(酷暑も)凌げている、後悔する事なんか何にもない
強がりでもなんでもなく本気にそう感じる事がささやかな幸せなのかもしれないね

あいちゃんはお嫁に

2024-08-14 10:41:29 | 昭和の頃
さようなら さようなら 今日限り
愛ちゃんは太郎の 嫁になる
 俺らの心を 知りながら
でしゃばりお米に 手を引かれ
愛ちゃんは太郎の 嫁になる

唐突にこの歌を思い出した、いつ頃だったか調べてみたら昭和31年に流行った歌だった、
覚えていたのはこの一番の歌詞だったので(そんなもん仕方ないだろ、振られたんだから、)とか
世話役のお米さんも(出しゃばりお米って言われても気の毒に)と思っていたんだがこの後の歌詞を見ると若干同情の余地が出て来た、(若干だけど)

2.
さようなら さようなら 悲しい日
愛ちゃんは俺らに ウソついた
ウソとは知らずに まにうけて
 夢を見ていた 甘い夢
愛ちゃんは俺らに ウソついた

何と嘘をつかれたんだろうか、でも大抵こんなもんだよ、男女の話は、女の話を真に受けちゃあいけなない、と言うのは語弊があるか、
男だって同じようなもんだ、これで金でも貢がせてたら結婚詐欺だが「一緒になるから」とでも言ってない限りこれも成立しない
結婚していてから元カレ、元カノとの関係は続いているなんぞは今の世の中当たり前、不倫騒動は有名人だからで普通の夫婦はうやむやが多そうだ
男の浮気より女性の浮気の方が実は多いらしい、結構さっぱりとした体だけの関係であとくされが無い様だ、

3.
さようなら さようなら 遠ざかる
愛ちゃんは太郎と しあわせに
なみだをこらえりゃ はらはらと
ひと雨キツネの お嫁入り
 愛ちゃんは太郎と しあわせに

健気だね、彼は、然しこの性格だから降られたんじゃ?と言うのはあまりに酷か
その昔、付き合っていた女性が「私Aさんと結婚するの」と宣言してからしばらくそのまま関係していて明日結婚式と言う晩に部屋に来たことがある
Aさんはよく知っている、人のいい男で彼とだったら平穏で幸せな生活ができるだろう
彼女も特に遊び人と言う訳でもない結構地味な感じの女性だったがつくづくと女性は怖いと認識した
まあ、地味でまじめと言う評価だった自分が言う台詞じゃないがね


波乱万丈と言うほどでもないが、退屈する暇はなかったな

2024-07-31 17:13:35 | 昭和の頃
物心がついた頃は昭和は27~28年頃だった筈で未だ敗戦の後遺症が色濃く残っていたが朝鮮戦争のおかげで世の中は好景気に沸いていた
神武景気・岩戸景気と好景気はが続き中卒は「金の卵」と言われ仕事は幾らでもあった、
重電メーカーだった日立製作所は「三種の神器」が飛ぶように広がって白物家電から3Cと家電メーカーとして景気を謳歌し、亀戸では未だ自動化されていない工業製品を製作していた
亀戸工場は中卒新人だけでは足らず全国規模で臨時工を募集し、名古屋に居た私も履歴書を送っただけで採用されることになった
1年程職工として働いて正規登用の簡単な試験を受けて晴れて天下の日立社員になれた
臨時工の時総額8800円程度の給与は労働組合の力もあってどんどん上昇していって昭和40年頃東宝に移った頃は4万円弱になっていた
40歳に喃々とする頃世の中はバブル景気に舞い上がり、不動産の高騰は日本国内に多くのビルを建てて建築ブームに乗って未だ黎明期のCADに出会い、恐れを知らぬ性格と更に太っ腹の女房のおかげで暴挙、立ち上げた会社が一時は年商1億を超えた事もあった、
しかしバブルで立ち上げた会社だけあってバブル崩壊と運命を共に泡と消え、残った借金を齢75になった時、取れる訳のない借金は棒引きとなったおかげで細々と年金便りの生活を送る現在だが元々無一文で地位も名誉も縁のない無学の途が良い夢を見せてもらった人生はそれなりに面白かった
まあ、人生100年だとすれば「だった」とか「かった」と過去形にするにはまだ早い
「終わりおよければすべてよし」と言うが自分が終わるとき何をもってよかったと言うのかちょっと理解の外、
残った連中に迷惑を掛けない事を旨としたら象ではないが死期を悟ったらどこか誰も居ないところで野たれ死ぬのも悪くない
しかしそいつも子供にとって迷惑な話だろうから大人しくしているしかないか
女房殿がどう考えているのかは解らない、文句を言われたことは無いが諦めの境地かも知れない、改めて陳謝と感謝をしておこう