中学校を卒業したのが昭和38年だったから小学校に入学したのは昭和29年と言う事になる
子供の頃の思い出と言えば小学校低学年から中学年まで、4年生の夏ころお袋に乳癌が見つかって入院、緊急手術となり
その頃からは家事が生活の一部になり、下校したらほゞ遊ぶ時間が無かったので遊んだと言う記憶が全く幼児期になる
昭和30年代と言えば未だ社会には終戦の残渣がかなり残っていた
となりの親父は南方からの引き上げで村の働き盛りの大半は出兵していた
そんな中に恐らく都会から流れて来たのではないかと言う様な家が何軒かあり我が家もその内の一軒だった、
それでも親父は元々この村の生まれで長男が町の土建屋に務めめ長女は他の村に嫁いで末っ子の親父は東京に就職したので村で我が家は一旦絶えたのだが敗戦真直になって疎開で戻って来たのだが田畑の無いいわば農村では異分子である
その他に田畑を持たない家が3軒あってその内2軒に自分より1~2歳下の子供が居た、
一軒は共同製茶工場の2階に工場の管理人として住み込んでいてこの村には珍しい「N」と言う苗字だった
自分より一つ上の女の子と一つ下の男の子がいた、
元は街の住まいだったらしく女の子はそれをちょっと鼻にかけている様なところがあって村の子供達からは若干浮いていた
下の男の子も多少はそういうきらいはあったのだが村に来た時が幼かったので普通に村の餓鬼であった
この子のあだ名が「ムケッチョン」と言う、誰が見たのか知らないが小学校低学年でそう言うシンボルを持っていたらしい
身も蓋もないあだ名で有る、(その後数十年は包※手術やリングがやたらに宣伝されていたのでそういう意味では誇らしい)
もう一軒はやはりこの村にはない「H」と言う家で此処も2つ上の女の子と一つ下の男の子がいて彼が自分とは馬が合ってよく一緒に遊んでいた
この家は今ではまず考えられない大きさで多分農機具を置く為の小屋だったのではないかと言う大きさで全部入れても恐らく6畳分しかなかった
段々田圃の一番上に張り付く様に立っていて床下に稲を干すハゼが白く乾いた土が着いた丸太と枯れた孟宗竹が入っていた、
家の中にはお勝手が無く道路側の狭い空き地に屋根だけを掛けて土で作った竃と水瓶が有って此処で煮炊きをしていた、
トイレは小屋の逆にやはり苫掛けの屋根と腰までの目隠しと枝折戸が付いているだけの小屋である
障子は無く板の雨戸だけで昼は外してあった、しかし全く屈託がなく小学生だったせいなのか両親は明るく歓待してくれた記憶がある
N家もH家も村の人達に溶け込んでいた気がするのだが金も田畑もないのにプライドだけ高い我が親父は村では浮いていた
村八分と言う事は無かったが同じ様に村には全く付き合いのない村民が一人いて村のはずれ、二つの支流が落ち合う場所の竹藪の中に昔は結構裕福だったのではと言う大きな家が朽果てて建っていて雨露だけは何とか凌げると言う様な彼方此方の壁も中の網竹が露出しているような家に年も解らない男性が一人で住んでいた
どうやって食べていたのか当時の子供には解らないが終日そのあばら家に居て時々ぼろをまとって村を徘徊していたが大人たちは彼を避けて言葉も交わさなかった、
子供にも「近寄るんじゃない」と言っていたがいわゆる「エタ」とか「非民」とか言う者ではなかっただろう、この地区には間違いなく「橋のない川」が有ってそこを「部落」として認識をしていたのでそれ程遠くないこの部落に住んでいる事はあり得なかった
彼の名前は子供たちは誰も知らない、彼を指す固有名詞は「おんぞう」である
何でだろうと考えたらこの辺り方言でボロボロになったものを「おぞい」と言うのでそれが「おんぞう」なったんではないかと思うが「おぞい」もどうやら「悍ましい」の短縮系方言の様だと大分昔に描いた気がする
この「おんぞう」はお袋が未だ元気なころ「おんぞうが死んでたらしい」と聞いたので恐らく低学年の頃一人で朽ちていたのだろう
簡単な葬式と焼却を村の寺の和尚と村役たちですませ葬った、
昭和20年頃の村は未だ江戸時代だった、