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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

錆びついた記憶の話

2025-06-02 17:28:13 | 昭和の頃
中学校を卒業したのが昭和38年だったから小学校に入学したのは昭和29年と言う事になる
子供の頃の思い出と言えば小学校低学年から中学年まで、4年生の夏ころお袋に乳癌が見つかって入院、緊急手術となり
その頃からは家事が生活の一部になり、下校したらほゞ遊ぶ時間が無かったので遊んだと言う記憶が全く幼児期になる
昭和30年代と言えば未だ社会には終戦の残渣がかなり残っていた
となりの親父は南方からの引き上げで村の働き盛りの大半は出兵していた
そんな中に恐らく都会から流れて来たのではないかと言う様な家が何軒かあり我が家もその内の一軒だった、
それでも親父は元々この村の生まれで長男が町の土建屋に務めめ長女は他の村に嫁いで末っ子の親父は東京に就職したので村で我が家は一旦絶えたのだが敗戦真直になって疎開で戻って来たのだが田畑の無いいわば農村では異分子である
その他に田畑を持たない家が3軒あってその内2軒に自分より1~2歳下の子供が居た、
一軒は共同製茶工場の2階に工場の管理人として住み込んでいてこの村には珍しい「N」と言う苗字だった
自分より一つ上の女の子と一つ下の男の子がいた、
元は街の住まいだったらしく女の子はそれをちょっと鼻にかけている様なところがあって村の子供達からは若干浮いていた
下の男の子も多少はそういうきらいはあったのだが村に来た時が幼かったので普通に村の餓鬼であった
この子のあだ名が「ムケッチョン」と言う、誰が見たのか知らないが小学校低学年でそう言うシンボルを持っていたらしい
身も蓋もないあだ名で有る、(その後数十年は包※手術やリングがやたらに宣伝されていたのでそういう意味では誇らしい)
もう一軒はやはりこの村にはない「H」と言う家で此処も2つ上の女の子と一つ下の男の子がいて彼が自分とは馬が合ってよく一緒に遊んでいた
この家は今ではまず考えられない大きさで多分農機具を置く為の小屋だったのではないかと言う大きさで全部入れても恐らく6畳分しかなかった
段々田圃の一番上に張り付く様に立っていて床下に稲を干すハゼが白く乾いた土が着いた丸太と枯れた孟宗竹が入っていた、
家の中にはお勝手が無く道路側の狭い空き地に屋根だけを掛けて土で作った竃と水瓶が有って此処で煮炊きをしていた、
トイレは小屋の逆にやはり苫掛けの屋根と腰までの目隠しと枝折戸が付いているだけの小屋である
障子は無く板の雨戸だけで昼は外してあった、しかし全く屈託がなく小学生だったせいなのか両親は明るく歓待してくれた記憶がある
N家もH家も村の人達に溶け込んでいた気がするのだが金も田畑もないのにプライドだけ高い我が親父は村では浮いていた
村八分と言う事は無かったが同じ様に村には全く付き合いのない村民が一人いて村のはずれ、二つの支流が落ち合う場所の竹藪の中に昔は結構裕福だったのではと言う大きな家が朽果てて建っていて雨露だけは何とか凌げると言う様な彼方此方の壁も中の網竹が露出しているような家に年も解らない男性が一人で住んでいた
どうやって食べていたのか当時の子供には解らないが終日そのあばら家に居て時々ぼろをまとって村を徘徊していたが大人たちは彼を避けて言葉も交わさなかった、
子供にも「近寄るんじゃない」と言っていたがいわゆる「エタ」とか「非民」とか言う者ではなかっただろう、この地区には間違いなく「橋のない川」が有ってそこを「部落」として認識をしていたのでそれ程遠くないこの部落に住んでいる事はあり得なかった
彼の名前は子供たちは誰も知らない、彼を指す固有名詞は「おんぞう」である
何でだろうと考えたらこの辺り方言でボロボロになったものを「おぞい」と言うのでそれが「おんぞう」なったんではないかと思うが「おぞい」もどうやら「悍ましい」の短縮系方言の様だと大分昔に描いた気がする
この「おんぞう」はお袋が未だ元気なころ「おんぞうが死んでたらしい」と聞いたので恐らく低学年の頃一人で朽ちていたのだろう
簡単な葬式と焼却を村の寺の和尚と村役たちですませ葬った、
昭和20年頃の村は未だ江戸時代だった、

竹槍出っ歯とロータスエラン

2025-04-22 11:28:10 | 昭和の頃
昭和40年代頃からか暴走族とは少し違った改造車が流行ったことが有った
GTレースでマシンの前にダウンフォースを得る為につけられたチンスポイラーとリアウィングを取り付ける奴だが基本的に効用は無視で見た目重視である
従がってどんどん派手になって且つ大きくなって来た
後ろに立っているのはマフラーだが二輪が付け始めた竹槍マフラーと言う

その形から「竹槍出っ歯」と言ったがどうやら今でも一部で走っているらしい
その一部が名前になって「ちばらぎタイプと言うらしい

どんどん進化(?)して実用では邪魔ではないかと言うものも出て来る

こんな奴はもう悪い冗談だ、高速で走ったら風切り音がうるさいし、第一壊れるだろう
殆ど勝手にパレード状態で色んな奴がいたが個人的に気に入ったのは此奴を付けた奴だった

此れがなんだか昭和の連中は直ぐわかる、 
地味系でも秀逸な奴もいた

これはロータスエランと言うやつだが見たのはソフトトップタイプだった
ヘッドライトがリトラクタブルと言う奴でスイッチが入るとパカッと開く
その形から黄色のエランは「カエル」と言う愛称で呼ばれていた
六本木で見たのはこのリトラクタブルのオープンスイッチを別系統にしたらしい、左右が独立して稼働する様になっていた
ライトが点灯しないで一方づつが開いたり閉じたりできるようにしてある、
開くと中央に黒い瞳が書かれていて、更にご丁寧にツケマツゲが着けてある
駐車をしていて通り掛かる若い娘がいるとこのリトラクタブルをパタパタと操作するのだ
車のウィンクである、それもケロヨン顔で
当時アマンドの交差点から外苑東通りに向かう六本木通りはナンパのメッカでそれを目当ての娘たちが終末の夜、大勢徘徊していた
それを車で男どもが声をかけてドライブに行くのだがこの車はツーシーターである
大抵娘たちは2人連れなのでこの車には乗れない、多分それが目的だったのではあるまいが人気はあった、
昭和の良き時代である



「酒と涙と男と女」ってか、かなり違うか

2025-02-17 16:13:50 | 昭和の頃
30歳になるか少し前か、多分昭和50年前後の事、川崎の中原区と言う所に住んでいた
古い木造の2階建てのアパートは1階と2階に各々2世帯づつ4世帯の作りだったが如何にせん古く当時では許可の出ない中央の狭い階段は下で靴を脱いで上がると言うスタイルでシンクはステンレスで床も板敷、窓ガラスの枠も木製である、
風が有るとこのガラス窓がカタカタと音楽を奏でると言う塩梅で入った時には1階の一世帯だけで3世帯分が空いていた
家主は年配の姉妹で建替えて収入をあげると言う気持ちは無く空き家だと不用心だし痛みも進むから住んでくれればよいと言う様な事らしく専有面積からすると近隣の相場の半分程度だった、
借りたのは上がって右側の部分で階段を上がって一畳程度の踏込み廊下の先の扉開けると板敷のお勝手が約3畳程度、右側の襖をあけると四畳半で突き当りを開けると六畳の和室である、
四畳半にベッドを置いて六畳間にはその頃はみんな持っていたいわゆる「コンポ」を置く
基本的には夕飯は飲み屋で済ませるのでこの部屋で飲み食いはあまりしない
未だレコード全盛期でカセットデッキはラジオから録音したものか大事なレコードをダビングして流す位で買って来るのはレコードである
ジャンルはそれこそ民謡からクラシック、ロックからJAZZ、R&Bとなんでも聞いた
洒落でイーゼルを買って来てそこにジャケットを乗せて置いて廻す
近くのスナックの(当時未だ17か18位)の娘が転がり込んできた、
寒い頃で6畳には炬燵を置いていたのでそこにもぐりこんで寝ていた
昼は空いているから合いカギを渡して置いて仕事から戻ってくる頃は当然彼女は居ない、
朝起きると炬燵に丸まっているので一応声をかけて仕事に出かける
多分一か月もいなかったと思うが何時か来なくなって合鍵をスナックに行ったときに返してきた
ひと廻りり以上の差がある女の子だったが何もない訳はなかったがさしたることもなくまあ家賃のつもりだったんだろう
アダモのLPを買って来てかけっぱなしで寝てしまった事がある、
「ブルージンと皮ジャンバー」と言う曲が気に入って買って来たのだがその中にアダモが「雪が降る」を歌っていた
夜中に気が付いたら彼女はこれを繰り返し聞きながらな泣いていた、
何となく声をかけるのも咎めて気が付かないふりをしてそのまま寝てしまったが若しかしたらそれが出て行くきっかけだったのかもしれない
その後暫く住んでいたら1階の先住の年配の人が退去してこの古くて広い家に自分一人となった
お蔭で夜置くまで飲み騒いでも苦情が出ないと言う桃源郷が出現し悪友が挙って酒を飲みに来るようになった
ある時腐れ縁の悪友が何処かで知り合ったと言う高校生位の娘を連れて来て深夜まで飲んだ時この娘も見つけた曲を掛けて踊りながら泣いた
こっちは「魅せられしギター」だったか「二つのギター」のどちらかでその後は「忘れて!」と暴飲をして飲み潰れてしまった
「まあ色々あるんだな」と30近い野郎は飲み潰れた小娘を眺めながら暫く飲んだのだが担ぐように連れて帰って言った、
考えれば大変な酔っぱらい運転だったよな、無事でよかったが時効々
因みにアダモのCDもギターの物もある

偏屈親父と拾った恋の話

2025-01-16 17:42:29 | 昭和の頃
やっぱりあんたも おんなじ男
  あたしはあたしで 生きてゆく
  今更なにを 言っているのさ
  気まぐれ夜風に 誠なんかあるものか
  捨てちゃえ 捨てちゃえ
   どうせひろった 恋だもの
コロンビアローズの流行歌、昭和31年だった
ふっとこの歌が頭に浮かんだ、
私にはあまり親父の思い出が無い、取敢えず最後まで一緒に暮らした家族なんだが何方かと言えば小学校の時に癌で無くなったお袋の方が色々思い出す
しかし、この歌に親父が「どうせ拾った恋だもの、とは何て言い方だ」と怒っていたことを思い出した
今考えると随分純な考え方をする男だったんだな、大体恋なんぞはこんなもんだろう
恋に落ちると言うような歌詞もあるが大抵はどこぞで拾った様なもんだろう
理屈っぽくって殆ど笑わなかった偏屈親父が「拾った恋とはなんだ!」と怒っている状況は今考えても妙に違和感がある
大体最初に好きになった相手が最愛の相手なんぞ有る訳もない
失恋した痛手をハスに構えての歌詞なんだろうが其れを本気で怒っている親父を考えるとなんとなく笑えて来る

東宝食品と言う会社と昭和の話

2025-01-07 14:35:05 | 昭和の頃
昭和の40年代の話
日比谷通りを新橋から皇居に向かい、日比谷公園の前を右折する
右手前の角は帝国ホテル、向かい側は日生劇場で有る
当時の帝国ホテルは2代目のフランク・ロイド・ライトの設計による荘厳な建物で今では岐阜の明治村にある、その後たてられた本館も今又建て替えの様だ
左手の大きな建物は日生劇場で背中合わせに有るのが東京宝塚ビル、
この辺りは殆どが東宝の建物でこのみゆき通りからは入れない一方通行だが晴海通り側から入ると左側に日比谷劇場、少し曲がったあと真っすぐなる一方通行路の左が有楽座、
外次が千代田劇場、右側のビル地下から3階が東京宝塚で4階がスカラ座、その上が東宝演芸場である
千代田劇場は東宝映画の封切館、スカラ・有楽・日比谷劇場は洋画専門である
恐らく配給映画によって決まっていたのだろうが良く解らない
千代田劇場を過ぎてみゆき通りを左に折れるとすぐに有るのがみゆき座で基本的にフランスとイタリアの映画が掛かる、
このビルの3階は芸術座、森光子の「女の一生」の記録的ロングランが掛かったのもこの劇場である
芸術座の立ち稽古場が有ったのが日比谷劇場からガードに向かう狭い路地にあった「インドネシア・ラヤ」と言うエスニックレストランの3・4階ですれ違う事も難しい様な階段を上がった所にあった
仕事の関係で3階の隅にあるインドネシア・ラヤのストッカーにアイスクリームを運び入れる事が月に何度かあったがこの階段では何人かの女優と鉢合わせをする事が有った、
一人は当時芸術座で掛かっていた「三人姉妹」と言う舞台(だと記憶しているが)に出ていた岡田茉莉子さん、勢いよく曲がったら正面から鉢合わせをしてしまった、(小さいな、が印象的だった)「すみません!」と謝ったが凄い顔で睨んで黙って降りて行ってしまった、
もう一人は中山千夏さんだが何に出ていたのかは覚えていない
ガード前を左に曲がると渡邊プロの入ったビルが有ってその一階にある中華料理屋にその後大ブレークした「ブルーコメッツ」の井上大輔、ダイチャンが働いていた
曲がらないでガードをくぐり左に曲がると正面の細い隙間から晴海通りを超えた有楽町のガード下に改札が見える、右側を圧して見えるのは今では無くなってしまった日劇の丸い建物、
路地のガード下に「カレーの後楽」と言う店が有って毎日朝50食限定で50円カレーを売っていた、
此れが実にうまかった記憶がある、今と違ってポークとビーフだけだったが当然これはポークで量も大したことは無いが昼飯は別にとるのでまあ10時のおやつだ
日立の職工から飛び込んだいわば水商売、昼でも夜でも「おはようございます!」と言う世界が楽しい時代だった、先の事なんかこれっぽちも考えていない若さならぬ馬鹿さである