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梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

記憶の景色が無くなった時点で、或いは町に出た時点で故郷は無くなったのかもしれない

2025-08-18 15:45:42 | 昭和の頃
「寂しきは人一人居ぬ我が村のその空重きとしはじめかな」この句は故郷にバスで訪れた記憶が無いので恐らく免許を取った後少しした時期だったろう
考えてみれば田舎の三ヶ日は殆ど外に出る事は無いので昔からこんなもんだったのだろうが久しぶりに立った村のどんよりとした空の下は妙に寂しかった
昭和30年初頭、小学生だった自分は幾らのお年玉をもらっていたのか覚えていないが貰ったお年玉を使うのは村に一軒だけの万屋のキャラメル位である
中学になる頃は少し川下の石畑と言う集落にあった兼業の本屋で本を買った記憶が有るがその頃は一体何に使ったのか覚えていない
凧あげをするのだが当時凧は店で買うものではなく凧糸と習字に使う半紙を買って貰い近くの竹藪で採って来た竹で自分で作のである、
四角に組んで交差上に籤を渡し、四隅から糸を出し、新聞紙を長く切って尻尾を付ける、
水を抜いた田の中で皆で競ってあげる、一番上がる凧を作った奴は友達から羨望の眼を貰う、更に女子達からの喝采も貰えるのだ
晴れて丁度良い風の日が条件が良い、無風では当然上がらないが余り風が強いと大きく弧を描いて地面に激突してしまう
叢に落下してしまうと露で半紙が濡れてしまい、敢え無く骨だけとなるのだ
凧糸はどの位の長さだったか覚えていないが調子が良いと二巻き、三巻きと追加するが下ろすのが大変だった
かくれんぼやチャンバラ遊びのこんな想い出は幼い時期でやがて母親が入院しそのまま帰らぬ人となって遊びは無くなった
その為友人たちと遊んだ記憶は幼児期で絶えて故郷の印象は童謡の画の様な物しかない、
15で東京に出た後暫くはそんな故郷に帰りたかったが実際に帰ってみるとなんの想い出もなかった、
川や山や田や畑が故郷の想い出の本体だったとすると道も山も家すらも変わってしまった村は自分にとっては知らない土地となった様だ

ノスタルジーあるいは感傷

2025-08-13 15:39:01 | 昭和の頃
生まれた頃の字は「静岡県小笠郡倉真村字社地」と言う
大分前に掛川市に編入されて今の住所は「掛川市倉真【地番】」となった
仕事の関係で島田に事務所を置く不動産会社と話をする機会があった
昭和38年に村を離れた時この字には五軒の家が有って全部同じ苗字である
従って全て屋号があった、
町の方から「こちょう」「しものもと」「おおや」「しんや」そして一番奥の我が家が「おく」である、別の号もあって「やなぎした」と言ったらしいが自分が生まれた頃に柳の木は無かった。
呼び名なので文字は定かでは無いが恐らく「戸長」「下の元」「大家」「新家」「奥」だと思うのだが、「戸長」と「大家」が有るので「こちょう」は違うのかもしれない
大家には家系図らしきものがあって元は信州から落ちて来た武士だったらしいが自分は見た事は無い
大家の土地には墓場があって五軒分の先祖代々の墓と言う奴があり、一番隅の我が家の脇に俗名だけの個人墓が転がっていた、
丸石に没年と俗名が書かれていて中に文久何年と言う奴も有った
親父は戦時中に村を離れ長兄が町に出て親父の姉が嫁ぐとこの家は絶えた
しかし敗戦で疎開から暫くここで生活したが田畑の無い家が農村で生き延びるのは難しい、
自分が中学を卒業して東京に就職したタイミングで親父も町に出て再度この家は絶えた
今戻ってみたら「しものもと」は跡形もなく、残る三軒だったがその不動産屋の話では一番手前の「こちょう」も既に空き家となっているそうだ
村に未だバスも走っていないころ未舗装の道は川沿いに曲がりくねっていたが今では真っすぐで舗装道路となっている
我が家のあった場所には小奇麗な家があったのだがどうやら町の人が別荘の様にしているらしい、子供の頃見た景色を見てみたいと思ったのだが其れは叶わなかった、
その頃は蕨や薇が大量に生えていた草刈り場はもうすっかり雑木林になっていて小高い頂には高圧鉄塔が建っていた、
東京に出た頃はあんなに帰りたかった故郷はもう別の村である、出て行った人間にとって故郷はノスタルジーだがそこに暮らす人にはリアルなのだから仕方ない、勝手に感傷にしたっては迷惑千万と言う事である、
都会の生活は故郷と言う感傷とはかなりお乖離がある、我が子達に故郷が有るのだろうか

錆びついた記憶の話

2025-06-02 17:28:13 | 昭和の頃
中学校を卒業したのが昭和38年だったから小学校に入学したのは昭和29年と言う事になる
子供の頃の思い出と言えば小学校低学年から中学年まで、4年生の夏ころお袋に乳癌が見つかって入院、緊急手術となり
その頃からは家事が生活の一部になり、下校したらほゞ遊ぶ時間が無かったので遊んだと言う記憶が全く幼児期になる
昭和30年代と言えば未だ社会には終戦の残渣がかなり残っていた
となりの親父は南方からの引き上げで村の働き盛りの大半は出兵していた
そんな中に恐らく都会から流れて来たのではないかと言う様な家が何軒かあり我が家もその内の一軒だった、
それでも親父は元々この村の生まれで長男が町の土建屋に務めめ長女は他の村に嫁いで末っ子の親父は東京に就職したので村で我が家は一旦絶えたのだが敗戦真直になって疎開で戻って来たのだが田畑の無いいわば農村では異分子である
その他に田畑を持たない家が3軒あってその内2軒に自分より1~2歳下の子供が居た、
一軒は共同製茶工場の2階に工場の管理人として住み込んでいてこの村には珍しい「N」と言う苗字だった
自分より一つ上の女の子と一つ下の男の子がいた、
元は街の住まいだったらしく女の子はそれをちょっと鼻にかけている様なところがあって村の子供達からは若干浮いていた
下の男の子も多少はそういうきらいはあったのだが村に来た時が幼かったので普通に村の餓鬼であった
この子のあだ名が「ムケッチョン」と言う、誰が見たのか知らないが小学校低学年でそう言うシンボルを持っていたらしい
身も蓋もないあだ名で有る、(その後数十年は包※手術やリングがやたらに宣伝されていたのでそういう意味では誇らしい)
もう一軒はやはりこの村にはない「H」と言う家で此処も2つ上の女の子と一つ下の男の子がいて彼が自分とは馬が合ってよく一緒に遊んでいた
この家は今ではまず考えられない大きさで多分農機具を置く為の小屋だったのではないかと言う大きさで全部入れても恐らく6畳分しかなかった
段々田圃の一番上に張り付く様に立っていて床下に稲を干すハゼが白く乾いた土が着いた丸太と枯れた孟宗竹が入っていた、
家の中にはお勝手が無く道路側の狭い空き地に屋根だけを掛けて土で作った竃と水瓶が有って此処で煮炊きをしていた、
トイレは小屋の逆にやはり苫掛けの屋根と腰までの目隠しと枝折戸が付いているだけの小屋である
障子は無く板の雨戸だけで昼は外してあった、しかし全く屈託がなく小学生だったせいなのか両親は明るく歓待してくれた記憶がある
N家もH家も村の人達に溶け込んでいた気がするのだが金も田畑もないのにプライドだけ高い我が親父は村では浮いていた
村八分と言う事は無かったが同じ様に村には全く付き合いのない村民が一人いて村のはずれ、二つの支流が落ち合う場所の竹藪の中に昔は結構裕福だったのではと言う大きな家が朽果てて建っていて雨露だけは何とか凌げると言う様な彼方此方の壁も中の網竹が露出しているような家に年も解らない男性が一人で住んでいた
どうやって食べていたのか当時の子供には解らないが終日そのあばら家に居て時々ぼろをまとって村を徘徊していたが大人たちは彼を避けて言葉も交わさなかった、
子供にも「近寄るんじゃない」と言っていたがいわゆる「エタ」とか「非民」とか言う者ではなかっただろう、この地区には間違いなく「橋のない川」が有ってそこを「部落」として認識をしていたのでそれ程遠くないこの部落に住んでいる事はあり得なかった
彼の名前は子供たちは誰も知らない、彼を指す固有名詞は「おんぞう」である
何でだろうと考えたらこの辺り方言でボロボロになったものを「おぞい」と言うのでそれが「おんぞう」なったんではないかと思うが「おぞい」もどうやら「悍ましい」の短縮系方言の様だと大分昔に描いた気がする
この「おんぞう」はお袋が未だ元気なころ「おんぞうが死んでたらしい」と聞いたので恐らく低学年の頃一人で朽ちていたのだろう
簡単な葬式と焼却を村の寺の和尚と村役たちですませ葬った、
昭和20年頃の村は未だ江戸時代だった、

竹槍出っ歯とロータスエラン

2025-04-22 11:28:10 | 昭和の頃
昭和40年代頃からか暴走族とは少し違った改造車が流行ったことが有った
GTレースでマシンの前にダウンフォースを得る為につけられたチンスポイラーとリアウィングを取り付ける奴だが基本的に効用は無視で見た目重視である
従がってどんどん派手になって且つ大きくなって来た
後ろに立っているのはマフラーだが二輪が付け始めた竹槍マフラーと言う

その形から「竹槍出っ歯」と言ったがどうやら今でも一部で走っているらしい
その一部が名前になって「ちばらぎタイプと言うらしい

どんどん進化(?)して実用では邪魔ではないかと言うものも出て来る

こんな奴はもう悪い冗談だ、高速で走ったら風切り音がうるさいし、第一壊れるだろう
殆ど勝手にパレード状態で色んな奴がいたが個人的に気に入ったのは此奴を付けた奴だった

此れがなんだか昭和の連中は直ぐわかる、 
地味系でも秀逸な奴もいた

これはロータスエランと言うやつだが見たのはソフトトップタイプだった
ヘッドライトがリトラクタブルと言う奴でスイッチが入るとパカッと開く
その形から黄色のエランは「カエル」と言う愛称で呼ばれていた
六本木で見たのはこのリトラクタブルのオープンスイッチを別系統にしたらしい、左右が独立して稼働する様になっていた
ライトが点灯しないで一方づつが開いたり閉じたりできるようにしてある、
開くと中央に黒い瞳が書かれていて、更にご丁寧にツケマツゲが着けてある
駐車をしていて通り掛かる若い娘がいるとこのリトラクタブルをパタパタと操作するのだ
車のウィンクである、それもケロヨン顔で
当時アマンドの交差点から外苑東通りに向かう六本木通りはナンパのメッカでそれを目当ての娘たちが終末の夜、大勢徘徊していた
それを車で男どもが声をかけてドライブに行くのだがこの車はツーシーターである
大抵娘たちは2人連れなのでこの車には乗れない、多分それが目的だったのではあるまいが人気はあった、
昭和の良き時代である



「酒と涙と男と女」ってか、かなり違うか

2025-02-17 16:13:50 | 昭和の頃
30歳になるか少し前か、多分昭和50年前後の事、川崎の中原区と言う所に住んでいた
古い木造の2階建てのアパートは1階と2階に各々2世帯づつ4世帯の作りだったが如何にせん古く当時では許可の出ない中央の狭い階段は下で靴を脱いで上がると言うスタイルでシンクはステンレスで床も板敷、窓ガラスの枠も木製である、
風が有るとこのガラス窓がカタカタと音楽を奏でると言う塩梅で入った時には1階の一世帯だけで3世帯分が空いていた
家主は年配の姉妹で建替えて収入をあげると言う気持ちは無く空き家だと不用心だし痛みも進むから住んでくれればよいと言う様な事らしく専有面積からすると近隣の相場の半分程度だった、
借りたのは上がって右側の部分で階段を上がって一畳程度の踏込み廊下の先の扉開けると板敷のお勝手が約3畳程度、右側の襖をあけると四畳半で突き当りを開けると六畳の和室である、
四畳半にベッドを置いて六畳間にはその頃はみんな持っていたいわゆる「コンポ」を置く
基本的には夕飯は飲み屋で済ませるのでこの部屋で飲み食いはあまりしない
未だレコード全盛期でカセットデッキはラジオから録音したものか大事なレコードをダビングして流す位で買って来るのはレコードである
ジャンルはそれこそ民謡からクラシック、ロックからJAZZ、R&Bとなんでも聞いた
洒落でイーゼルを買って来てそこにジャケットを乗せて置いて廻す
近くのスナックの(当時未だ17か18位)の娘が転がり込んできた、
寒い頃で6畳には炬燵を置いていたのでそこにもぐりこんで寝ていた
昼は空いているから合いカギを渡して置いて仕事から戻ってくる頃は当然彼女は居ない、
朝起きると炬燵に丸まっているので一応声をかけて仕事に出かける
多分一か月もいなかったと思うが何時か来なくなって合鍵をスナックに行ったときに返してきた
ひと廻りり以上の差がある女の子だったが何もない訳はなかったがさしたることもなくまあ家賃のつもりだったんだろう
アダモのLPを買って来てかけっぱなしで寝てしまった事がある、
「ブルージンと皮ジャンバー」と言う曲が気に入って買って来たのだがその中にアダモが「雪が降る」を歌っていた
夜中に気が付いたら彼女はこれを繰り返し聞きながらな泣いていた、
何となく声をかけるのも咎めて気が付かないふりをしてそのまま寝てしまったが若しかしたらそれが出て行くきっかけだったのかもしれない
その後暫く住んでいたら1階の先住の年配の人が退去してこの古くて広い家に自分一人となった
お蔭で夜置くまで飲み騒いでも苦情が出ないと言う桃源郷が出現し悪友が挙って酒を飲みに来るようになった
ある時腐れ縁の悪友が何処かで知り合ったと言う高校生位の娘を連れて来て深夜まで飲んだ時この娘も見つけた曲を掛けて踊りながら泣いた
こっちは「魅せられしギター」だったか「二つのギター」のどちらかでその後は「忘れて!」と暴飲をして飲み潰れてしまった
「まあ色々あるんだな」と30近い野郎は飲み潰れた小娘を眺めながら暫く飲んだのだが担ぐように連れて帰って言った、
考えれば大変な酔っぱらい運転だったよな、無事でよかったが時効々
因みにアダモのCDもギターの物もある