梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

墓の話の続き

2011-02-28 08:35:31 | 雑記
都内に住む兄に田舎の隣家「新屋」から電話が有った、「墓が無くなっている」と言う話しだった、翌日大急ぎで兄と行ってみたら基壇だけ残して墓石は無く、一枚の板に父親の名前が書かれた物がのせてある、納骨部分もそのままなのでお骨が見えていた、
誰がやったかは直ぐ理解出来た、墓石には「先祖代々の墓」と戒名が彫付けてあるのだから使える人間は決まっている。
我々の父親も貧困の家に三男として生まれ、農地も無いので東京に出て働いたと言う、
軍需工場に入ったのが合っていたのかそこそこの地位まで行って終戦当時はい横須賀の海軍工廠に居たらしい、上の兄達はその頃の育ちで写真を見せてもらうが結構良い生活だった様だ、
その頃父親が田舎に朽ちてしまっていた墓を再建した、先祖代々と言う事なので建てたのは長男の名前だった、
この事はこの頃兄や上の姉から聞いて知った、田舎から長男が町に出てしまうと敗戦で戻った我家がその跡に住んだ、しかし結局自分と父親が町に出て田舎では「奥」は絶えてしまった訳だ、
しかしそんな成行きはどうでも良い、本家が町に家を作って墓参りが不便だから近くに墓を作るのは当然だ、
しかし分家と言っても未だ一世代しか違わない、一言の連絡も無く持って行ってしまった事、墓石以外はそのまま置いて行った事が異常と言える行いだった、
一旦東京に戻ると姫路の長男に連絡を入れて再度田舎に行き菩提寺にお願いしてお骨を全て上げ姫路の墓にもって行く事になった、
この事で一番怒っていたのは菩提寺の和尚さんだった、「罰当たりが!」と言居ながら丁寧に供養をしてくれたが、果たしてその後罰が当たったかどうかは解からない、何しろ連絡を取る気も失せていた。
そんな訳で生まれ育った田舎にも本当に墓がなくなってしまった訳で、本家の隣に立てると言う事も出来ない。
第一「あんな所だったら墓参りは大変」と言う女房の意見も有るし、ここらで探すしかないんだろうが自分はやはり「要らない」のだが、
女房は「先に行くな、自分を看取ってから死んでくれ」と常に言っているが子供も本人も(自分もだが)私が先に行くと思っている様だ、
自分は持病の痛風が有るが此れも今は出ていない、メタボリックだが高血圧も糖尿も出て居ない、
我家は母親が癌で父親が高血圧から脳卒中と2大死因(今は心臓疾患かもしれないが)だからとっちかになるかも知れない、
両方にはなら無いと言う説もあるのでのんきにしているが一応検査だけは時々行っている。
我家は短命系で母方の祖母が90代まで生きていらしいが父方は粗全員祖父祖母を知らないで3代以上続いている、
私の親も6人も子供をもうけながら孫を見ないで逝ってしまった、私たちの代でも孫を見たのは半分、有り難いことに私は3人の孫にも恵まれているが歳はとっくに父親の年齢を越えた、
余り考えた事は無いが、突然死なれても困るのは子供達だろう、せめて墓位は作って置かないと自分が良いと言っていても子供はそうも行くまい、しかし墓地まで中々廻りそうも無い、

墓の話

2011-02-27 09:06:05 | 雑記
還暦を過ぎて3年も経ってしまった、まるで他人の事だと思って居たが(普段はそう思っているのだが)とんでもない歳になったものだ、
我々夫婦は両方とも末っ子だから墓と言うものが無い、実は私自身の分に関しては必要ないと思っているが残った方はそうも行かないらしい、
散骨と言う奴がある、海に撒くのも良いし、自然葬とやら言うのも良い、しかし結構金が掛かるとらしいと言うので此れも考え物だ、
最近は喉仏の骨だけを位牌の近くに綺麗な骨壷に入れて置くとかペンダントに入れて身に着けて置くとか言うのもあるらしいが此れも残る一方が死んだら子供も困るだろう、
余り気が乗らないが墓も考えないといけないかも知れない、が取り合えず生きている時に住む所が先決では有るが子供に立てさせるのは親として情け無いだろう。
女房の家は都内に墓が有るが私の方は田舎に行っても墓は無い、
私が東京に出て来て何年か後に姫路に住んでいる長男が我が家の先祖墓を作ったので分骨しておいたのだがある事情で田舎の墓が無くなってしまったのでそのまま其処が先祖の墓となった。
田舎の村は山沿いに南北に流れる小さな川沿いに狭い田畑を耕している農業と林業の村である、
主な農業もお茶と蜜柑で稲も麦も余り作っていない、「五反百姓」と言う言葉が有るがこの村で五反も耕地の有る農家は無かった、
川は東側の山裾に沿って流れているので家は西側の山側に並んでいる、東向きの傾斜地なので朝日はよくあたる、こう言う地形は「朝比奈」と言うらしいが此れはもっと広い東垂の台地を言うのでこの辺りではそんな名前ではなく田島とか石畑とか実にストレートの地名である。
大体苗字が同じ家があちこちに固まって建っている、此れは長男が家を継ぐと側に残りの男が分家して家を建てて行く為で古い村は大抵そうである、我家も同じ苗字が6軒でひとつの集落になっている、通称は有るが地理的な名前ではない、
各々屋号が有ってどう言う訳か「戸長」と「大家」が会った、我家は一番奥なので当然「奥」だったが確か別に木の名前が有ったような気がするが忘れてしまった、隣は「新屋」、その隣が「大家」少し離れて「下の元」、一番川下が此処だけ川向こうになっていた2軒でひとつは例の「戸長」もう一軒が「たこ」と言ったが字も解からなければ名前の出自も解からない。
その他に4つ位の苗字があちこちに集落を作っている、従って学校に行くと特例を除いて同じ苗字が大勢居るので呼び合うのは大抵名前の方になるが上手く出来たもので名前はまず重ならない。
集落に寺は有るには有ったが名前が「長源庵」と言っていたので元は庵だったのだろう、本寺は4~5km町に向かった所に有った、本寺も含めて寺に墓地と言う物は殆ど無い、氏の墓地と言うのが有って各苗字毎に本家筋の土地に墓地が有る、
余談だが村の神社は正しく氏神様で一集落に一つ有って同じ苗字の家が守っている事が多い、その他に村社と言うのも有って大抵は八幡神社だった、
我が家の墓も本家の少し南側、西側の斜面を少し上がった所に有った、大正の終わりか昭和に入る頃までは墓は個人別だった様で我が家の墓も後ろの斜面に昔の墓石が無造作に転がっていた、何度目かに帰った時に募誌を見てみたら天保の物が有ったが薄れて読めないものはもっと古い物も随分有る様だった、
兄弟は兄が姫路が1人、東京が1人、姉達は浜松で苗字が変わっている、姫路に先祖墓が有るのだが遠いので姉達も東京の兄も墓参はふるさとで済ませていたのだがある時この墓が突然消えてしまった。

花簪

2011-02-26 08:09:52 | 日記
散歩の途中で久しぶりに花簪の咲いて居るのを見つけた、可憐な花で好きな花だが私が此れを知ったのは最近だ、
初めて見たのはもう少し小さな花で丸まった感じだった気がする、しかし此の花には少し苦い思い出がついて居る。
今でも付き合いは有る仕事の関係者だが未払い金が有ってその都合が出来たが一緒に行ってくれと言う話になった、
行った先は軽井沢で相手が何と彼の母親、70を超えて居て大手企業の保養所に努めて居ると言う、随分悩んだが此方もかなり厳しい状況だった、
彼を載せて軽井沢に行き小さなマンションに着いた、彼の仕事は「順調です」と話をしたが自分で知る限りかなり厳しい状況だった、
老後の残り少ない貯えを用意して貰い帰って来たが・・ 自分が鬼になった気がして辛かった、
無論その金が全部こちらに来る訳ではなく彼の資金に廻る部分が多いので「何とか」と頼まれたのだが辛い選択だった、
その時に日当たりの良い掃き出しの板敷きに有ったのが花簪の鉢物だった、此の時始めてみたので「かわいい花ですね」と言ったら「花簪と言います」と教えてくれた、
窓の外は雪がかなり残っているのに咲いている花が何とも言えず暖かかった、彼女は「気に行ったら持っていってください、未だ何鉢もありますから」と言われて遠慮なく貰って来たのだがその事が自分の中での免罪符と言うのは変だが(全て承知で母親として行動したのだな)と思う事で自分を納得させてしまった、
その後花屋でも見る事が有ったが花も流行が有るらしく最近はあまり見なくなってしまった、ひさしぶりに見たが「彼のお母さんはどうして居るのだろう」と思い出したが、聞くのもすこし怖い気もする




一般国民の居ない国

2011-02-25 08:38:16 | 雑記
中東近辺で大きく国家が変わろうとしている、輸入エネルギーの90%近くを中東に依存している日本とアメリカ経済は大きく影響を受ける、
大分前から中東依存の割合を変えなければと言われて来たが代替わりが出来る一番の国はロシアだ、数年前なら東欧諸国との軋轢で日本に秋波を送っていたのだが現在では売り手市場になっている上に北方4島問題も絡んでいて一筋縄では行きそうも無い、
食料とエネルギーの大半を海外に依存していれば少し大きな紛争が起きれば其れによって翻弄されてしまう事は今まで言われ続けていながら放置され又オイルショックの様な状況になっている、当時よりは修復は早そうだがこの状況は変えていかなければ日本の立ち位置はどんどん悪く成るだろう。
電気エネルギーにしても今依存している原子力が自給されているかと言えば略100%輸入である、消費のスパンが長いだけで状況は変わらない、危険とも常に隣り合わせである事も替わらないだろう、
「絶対に安全」と言うなら送電ロスと送電線の維持コストを掛けてまで遥か彼方から持って来る事と矛盾する、
しかし一旦事故となれば辺地だから都市部は大丈夫と言う様なレベルではすまない事も間違いない。
自然から受け取るエネルギーを生かしてゆくのが一番だが効率が悪い、しかし効率云々といっている時間は無くなって来たのではないだろうか、
物がなければ増やすと言う事以外に物が少なければ使う事を下げると言う方向に意識を転換させる必要が我々には重要だろう。
税収が少なければ使わない方向に舵を切らなければならない、河村氏が「経費の節約と言っても有ればそれなりに使ってしまう、此れしかなければそれなりにやるしかない、だから税金を下げるのだ」と言っていたが確かにそうだろう、税収が下がっているから節約すると良いながら一方で「足らないから増税する」と言っているのはやはり矛盾するだろう、今回の政府予算は無駄を省く所か今まで無かった支出を大幅に増やしている、資本投下したらこう言う利益が見込めると言うのは会社経営では重要だが国家はそれ以上に重要だ、福祉の問題も有るが所得格差を平均化すればそれ税金投下する必要は無いと思う、
税収が少ないと言うのは税率だけの問題では無いのは簡単な数学だろう、所得税は所得×税率=税収だ、税率を上げなくても所得が上がれば税収は上がる、消費税は消費×税率=税収だ、消費税率を上げなくても消費を増やせば税収は上がる、
逆に税率を幾ら上げても所得が下がれば消費も下がり税収は伸びない、先ず国民の所得を均一に上げていかなければならない、
今の経済格差は平均所得を挟んで3:7以上だ、消費を押し上げるのは3割の人間ではなく7割の人間の消費が大きいのは当然だ、
相続税の引下げはこの状況を助長こそすれ経済の活性化に何の貢献もしない、経済連や政治家達はこの3割の人種だ、選挙制度が公平でも金が無いと高度教育は受けられず学歴が低いと政治家にもなれず大手企業にも入れない、この状況をどうすれば打破できるのだろうか

牛蒡がかなり大きくなった、人参も大きくなって来たがどうも上手くピントが合わない


六合村で古い旅館に泊まった事

2011-02-24 08:14:02 | 旅行
群馬県の北のはずれに近く「六合村」と言うところが有る、トンネルの出来る前は三国峠の入口で栄えたらしい、
そう言う意味合いでは今余り栄えているとは言えない温泉地だ、近くに水上温泉や月夜野温泉が有り、少し手前には有名な草津も伊香保もあるのがこの辺りから鬼怒川、川治に掛けての北関東の温泉地は最近軒並み寂れてしまった、
六合村自体何の観光も無いので余計に寂しい、しかし温泉は豊富の様で共同湯も有る。
この旅館はネットの「トクー」と言う所で知った、案内の写真は打水のされた石畳と黒い板塀に行灯が掛かり、足元にも置行灯があって良い雰囲気だた、休日直前金曜の午前中に空きが有ると半値で出されるプランで確か一泊2食で4700円だった、暇な友人夫婦を誘って出かける事にした、
晩秋のよく晴れた日だったが未だスキーは出来ないのでこの辺りは特に暇な季節で実に静かで気持ちの良い日にだった、国道から少し外れた旧街道脇にその金田屋旅館はあった、
流石に古色蒼然としている旅館で確かに石畳と黒塀の入口だったが写真を撮った人間を絶賛したくなる景色である、
兎に角落着こうと部屋に入る、手前が旧館で奥に新館がある、当然我々の部屋は休館の方だ、
階段を一旦登り引き返すように更に上がった所の10畳位の部屋で天井は低くい、畳は適度に焼けていて押入れの襖は破れこそ無いがそれなりの色合いである、しかし何より驚いたのは部屋を歩くとギシギシと音のする、
「いらっしゃいませ」とお茶を持って来た女性に「大丈夫かい、この部屋は、床が抜けないだろうな」と聞いたら「大丈夫だよお客さん、私が大丈夫なんだから」と言うその女性は京塚正子さん並の体型、
「こいつは良い思い出になるね」と言う話しで腹も立たない、食事は新館も旧館も食事所で同じものを戴く、此れが結構美味しかった、
風呂は昔の檜風呂で天井は高い、その一番上に明り取りと湯気逃がしをかねた1m程度の窓しかないが湯は悪くない、やはりギシギシとなる階段の途中に本が幾つか置いてある、恐らく工事関係の宿舎的な事もしているのだろう、
其処で読んだのが妹尾河童の「少年H」だった、当然読みきれる訳は無く後で買って読んだが今無いので恐らく古本屋に行ったんだろうな。
私は朝が早いので大抵朝食前に付近を歩く、この日も良い天気で旧道に沿って歩いてみたら幾つかの共同浴場があった、しかしそのつもりは無かったので用意も無ければ小銭も無い、やはり窓の少ない風呂を外から眺めて来ただけだが何かその時花を見て名前が思い出さずずっと考えて居たのだがその花も忘れてしまった、翌日は新幹線開通で行止まりとなった横川駅の峠の釜飯を買いに行き、その帰りにガラスの館に寄って来た、
あれからもう10数年経つ、その時の友人も交通事故で亡くなってもう4年が過ぎてしまった