みどりの一期一会

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この夏に会いたい:原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん/内部被ばくだけの数値明示を=小島正美

2011-08-18 09:52:47 | 地震・原発・災害
東京は今日で最後。
夕方には岐阜にもどります。

数日前の天気予報では、今日は雨だったのですが、
晴れて、暑い日になりそうです。

家に帰ったら、たまったメールと新聞を読まなくちゃ。
留守中に鉢ものに水をやってくれてたかも気がかりです。

新聞で真っ先に読みたいのが、昨日の毎日新聞夕刊の
特集ワイド「この夏に会いたい」。
最終回は、2000年二亡くなった、原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん。

「記者の目」もよい記事が続いているようです。

  記者の目:内部被ばくだけの数値明示を=小島正美

◇食品安全委「放射線生涯100ミリシーベルト」 食品を通じた放射性物質の健康影響を評価していた食品安全委員会(小泉直子委員長)が7月26日、「生涯の累積でおおよそ100ミリシーベルト(自然放射線や医療被ばくは除く)以上で健康影響がある」との評価案をまとめた。「生涯100ミリシーベルト」は食品を通じた内部被ばくだけでなく、外部被ばくも合算した数値で、内部被ばくの割合は示されていない。たとえ推計でも内部被ばくの限度を数値で示し、実際の食生活に即した健康影響評価をしなければ、食品の安全性への信頼が損なわれてしまうだろう。
 食品は、放射性物質が体内に入って放射線を出し、健康を害する「内部被ばく」が問題になる。
 食品安全委は厚生労働相の諮問を受け、4月下旬から9回の議論を重ね、国内外の約3300点の文献を検討した。しかし「内部被ばくのデータが極めて少なかった」ため、主に広島・長崎の原爆被爆者の発がんデータを基に、生涯の累積値で目安を示した。

 ◇数百ミリでも影響ないとの指摘も
 まず疑問なのは、なぜ生涯の累積値なのか、だ。同じ100ミリシーベルトの被ばくでも、一度に受けた場合と、1年に1ミリシーベルトずつ100年かかって受けた場合とでは、人体への影響は全く異なる。アルコールを一気に飲む場合と、少しずつ飲む場合を比べても分かるように、一度の被ばくの方がリスクが大きい。低線量を長く受ける場合は、途中で傷ついた細胞が修復されるためだ。
 放射線の影響に詳しい中村仁信・大阪大名誉教授は「細胞の修復能力を考えると、生涯累計なら数百ミリシーベルト程度でも影響がないと見てよいはずだ」と述べる。この点は、食品安全委の作業部会でも指摘されていた。「広島・長崎の影響は、瞬間的な外部被ばくの影響が9割以上を占める。生涯の累積量に当てはめるのは科学的におかしい」「累積量ならインドの高線量地域に住む人で約500ミリシーベルトでがんの増加はなかったとのデータの方が信頼できる」との意見だ。
 しかし、作業部会座長の山添康・東北大教授は「被爆者は瞬間的に被ばくした後も、そこに住み、空気を吸ったり食べ物を取り続け、内部被ばくも受けた。より安全側に立って判断したい」と述べた。より安全に、と考えるのはいいが、生涯100ミリシーベルトを人生80年として計算すると、1年間の上限は1・25ミリシーベルトになる。福島県の一部では、外部被ばくだけで年間10ミリシーベルトを超えることが予想され、何も食べられなくなりかねない。
 どの地域でも現実に外部被ばくの方が大きく、内部被ばくは数%とされる。仮に内部被ばくの割合を2割と多めに見ても、内部・外部被ばく計年1.25ミリシーベルトのうち、食品に割り当てられる許容線量は年0.25ミリシーベルトしかない。放射性セシウムだけで考えても、現行の暫定規制値は年5ミリシーベルトが上限なので、20分の1まで下げねばならなくなる。牛肉なら、現在の1キロ当たり500ベクレルが25ベクレルになる計算だ。
 評価案は「小児は放射線の影響をより受けやすい」ともしており、子供を考慮すると規制値はさらに厳しくなる。

 ◇平時と緊急時分けた議論なく
 食品安全委のあるメンバーは「例えば当面3年間で計30ミリシーベルト浴びたとしても、あとの人生で70ミリシーベルトの余裕がある」と話した。緊急時には規制値を緩くし、平時は厳しくする2本立ての規制値をつくる考え方はある。しかし、安全委の評価案は「緊急時はより柔軟な対応が求められることも考えられる」と一般論を述べるだけで、累積線量を年ごとにどう振り分けるかは厚労省の判断だとし、具体的な提案はしていない。これでは「生涯100ミリシーベルト」の数値が独り歩きしかねない。平時と緊急時を分けるなど「経済社会的な状況に応じて規制していく、という従来の国際的な放射線管理の考え方に対する挑戦だ」と指摘する専門家もいる。
 主食の米と、たまに食べる牛肉が同じ値になっている現行規制値も議論してほしいテーマだ。食品の種類によって規制値を変えた場合に、人の健康影響がどうなるかのリスク評価も必要だが、そうした論議もされなかった。
 8月2日に開かれた安全委と市民の意見交換会では「規制値の強化につながる」と歓迎する声が多かった。だが、実際問題として、年齢も食生活も異なる個々の累積被ばく量を、生涯にわたりチェックしていくのは不可能だ。累積線量を知りたいという国民の要求に国は応えられるのか。
 「生涯100ミリシーベルト」は一般に考えられている以上に大きな課題をはらむ。文献を読んで安全性の目安を示すのは、リスク評価の一部に過ぎない。規制値の設定いかんでは、野菜の摂取不足が起きて、逆に健康に悪影響が出るかもしれない。現実の国民の食品摂取の仕方まで踏み込んでリスクを評価するのが、委員会の役目ではないか。(生活報道部)
毎日新聞 2011年8月17日 0時07分


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 特集ワイド:この夏に会いたい/10止 原子力資料情報室代表・高木仁三郎さん 

◆原子力資料情報室代表 高木仁三郎さん(2000年死去、享年62)
 ◇あきらめから希望へ 「市民科学者」に徹して

 古びたテープレコーダーとカセットテープ十数個が2階書斎に残されていた。千葉県鴨川市の田園にある高木さんの自宅。出迎えてくれた妻の久仁子さん(66)は晩年がんの闘病生活を送りながら原稿を書く高木さんの姿を語った。「仁さんはモーツァルトの音楽をかけながら、そのイスに座って、テープレコーダーに原稿を吹き込んでいました」
 東大で核化学を学び、30歳の若さで大学助教授となった「原発エリート」は、熟慮の末、脱原発に転じ、生涯をかけて50冊を超える本を残した。東京電力福島第1原発の事故以来、新聞や雑誌には日々、この人が発していた「警告」が引用される。
 高木さんが亡くなったのは2000年10月。その2カ月後に出版された「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)では、原子力村についてこう書いている。<原子力村というのは、お互いに相手の悪口を言わない仲良しグループで、外部に対する議論には閉鎖的で秘密主義的、しかも独善的、という傾向があります>。安全意識にも苦言を呈する。
 <ことさらに安全、安全と言うことによって安全が身につくのではなくて、技術というものの一部に、人間の生命を大事にするような思想が自然と組み入れられていないといけない>

 読むほどに、原発事故は起こるべくして起きた、と思えてくる。
  ■
 高木さんは7歳の時に終戦を迎えた。「米英は鬼畜の類いだ」と言っていた教師が、玉音放送を境に「これからは民主主義の社会で米軍(駐留軍)は解放軍だ」と手のひらを返す。自伝的な著書「市民科学者として生きる」(岩波新書)では<国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな(中略)なるべく、自分で考え、自分の行動に責任をもとう>と思ったと書いている。
 現役で東大に合格。安保闘争中だったがあまり関心を示さず、プルトニウムを含む人工元素の生成に魅せられ、核化学を専攻する。卒業後、原発関連会社に入社。原子炉の水に放射性物質がどのくらい溶け込んでいるかを研究したところ、上司から「(汚染の研究は)会社向きではない」と忠告された。会社での居場所を失い、東大原子核研究所に転職、宇宙からの放射線を研究した。このころ水俣病などの公害が問題になり、高木さんは「放射能汚染に絡む公害問題が出たら、正面から向かい合えるか」と自問するようになる。
 矛盾を抱えたまま69年、東京都立大学助教授に就任。当時は日米安保更新をめぐる学生運動のさなか。高木さんは学生側に共感し、成田空港建設に反対する地元農民の活動「三里塚闘争」にもかかわった。現場では農民が農地を守るため体ひとつで抵抗していた。高木さんは<心情的には農民の側にいるが、実際には明らかに自分は巨大システムの側にポストを占めているのではないか>(「市民科学者として生きる」)と再び自問した。岩手県出身の童話作家で、詩人の宮沢賢治の言葉に出合ったのは、このころだ。

 「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」

 賢治が農民に行った講義の演題だった。73年、高木さんは大学を辞す。2年後、脱原発活動を行う市民団体「原子力資料情報室」の世話人となり、米スリーマイル島原発事故(79年)や、旧ソ連チェルノブイリ原発事故(86年)で、脱原発派の科学者・市民活動家として頭角を現していく。
 眼光鋭く、周囲から「野武士」と呼ばれていた。息抜きに仲間に誘われていくカラオケでは、石原裕次郎さんの「嵐を呼ぶ男」を手を振りかざして歌った。高木さんの都立大学時代の教え子で、高木さんの著作全集も出している七つ森書館(東京都文京区)の社長、中里英章さん(61)は「ちょっとカッコ付けているところもあって」とほほ笑む。
 チェルノブイリ後、哲学者の花崎皋平(こうへい)さんとの対談集「あきらめから希望へ」(七つ森書館)を出版。「いつも希望について語っていきたいという思いを込めて」とつけたタイトルだった。しかし、現実は厳しかった。高まる反原発運動に乗じ「脱原発法」の制定を求め90~91年に330万人の署名を国会に提出したものの、無視されたのだ。高木さんはこの挫折をきっかけにうつ病を発症。医師に「休養が必要」と診断され、料理を作ったり、モーツァルトを聴いて数カ月間を過ごした。
 中里さんは「仁さんは、国や企業のための科学ではなく、農民や労働者、学生をひっくるめた市民のための科学を、大学や研究所に所属せずに自ら切り開いた自負心があった。一方、何をやっても成功しないいらだち、お金の工面などで内心は葛藤に次ぐ葛藤もあったと思います。それでもあきらめずに希望をもって、自らの運動と生きることが一つになることを求め続けていました」と語る。
  ■
 「走れコウタロー」「岬めぐり」で知られるフォーク歌手で白鴎大教授(社会学)の山本コウタローさん(62)に都内の喫茶室で会った。70年代に公害問題に関心を持ち、反原発活動にも取り組んできた人だ。高木さんとは80年代中ごろ、反原発のシンポジウムなどで知り合い、高木さんが代表を務めた情報室に何度か足を運んだ。テレビの討論番組「朝まで生テレビ!」に反原発側の論客として一緒に出演している。
 山本さんは手持ちのファイルから数枚の紙を取り出した。96年の原子力資料情報室通信。高木さんはチェルノブイリから10年の教訓と題し、こう書いている。<事故は、防災・避難・損害賠償(国際的にも)・正確な情報伝達・食品汚染など多くの点で、現代社会がこの種の巨大事故にまったく備えがないことを示した。この教訓はどれだけ活(い)かされたか>
 「結局、政府や経済産業省、東電はチェルノブイリから何も学んでいない」と山本さん。「(3・11後は)大量消費という生き方が問われている。高木さんは著書で希望について語っているが、あれは、お金やものをたくさん作るのとは違う生き方を選ぶことができるんだよ、という問いかけだと僕は思っています」
 高木さんは亡くなる直前まで本を書き続けた。久仁子さんは言う。「仁さんは今の福島の事故じゃないけど、いつどんな事故が起きてもおかしくないと危機感を持っていました。自分の命はもう長くないが、次世代の人たちには原発がない世の中で生きてほしいと願っていました。国ではなく市民が現実を選んでいける社会にしていく。そのことをあきらめずに希望を持って訴え続けたと思います」
 残されたメッセージをどう生かすか--「野武士」に静かに問われているような気がした。【宍戸護】=おわり

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 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
 t.yukan@mainichi.co.jp
 ファクス 03・3212・0279
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 ■人物略歴
 ◇たかぎ・じんざぶろう
 1938年、前橋市生まれ。環境などの分野で「もう一つのノーベル賞」とも呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を「市民の立場にたった科学者として功績があった」と1997年に受賞。
毎日新聞 2011年8月17日 東京夕刊


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